第一回 「夏目漱石」- 煎茶をウマイと思って喫む

株式会社かねも 相談役 角替茂二

「咽喉が乾けば水を飲み、心が渇けばお茶を喫む、と云った先人がある。」
まことに心憎い良い言葉である。しかし、グレシャムの法則のせいだろうか、喫んで心がホッとするような良いお茶は少なくなったと思われる。

誰も時には感動するようなうまい茶に出会う機会がある。そして近時の科学者の研究のお蔭で、その味覚、臭覚については多少受け売り的説明は誰でも出来る。然しその心的情趣のありように至っては曰く「言い難し」と応えざるを得ない。日本の緑茶は日本人の嗜好に合った最高の飲み物であるが、まことにその奥行きは深く神秘的でさえある。
扨筆者は作家、特に明治大正の古き良き時代の文学者がお茶とは何か、お茶をどう考え、どう向き合ってきたのか、いささか興味を持っていたので、茲に少し記してみたい。文学にとっても茶業にとっても殊更に取り上げる迄もない問題かも知れないが、御用が無くてお暇のある方の御一読が得られれば幸いである。

明治大正の作家と言えば、鴎外、漱石、藤村、芥川、谷崎、志賀、川端等いづれも茶に関心を持ち、特にその優れた感性を描写力によって、味のある言葉を残している。中でも藤村、漱石には耳を傾けたくなるような文章が少なくない。ここでは先ずは漱石のお茶に光を当ててみる。

漱石はその談話の中で「煎茶は美味いと思って飲むが、自分で茶を立てることは知らぬ。」と述べている。
小宮豊隆氏は、これはコンパクトな名随筆だと評されている。たった一行しかない、明快で附言する余地はないが、漱石の茶についての基本姿勢の表現だと言ってよい。立てることを知らぬとは所詮茶人の丸暗記したような行きすぎた作法と手順への蔑視がうかがえる。今の世の中でも同じ思いの人は少なくない。
近頃日本茶インストラクターの方々がテレビで視聴者にお茶の点て方の啓蒙的な解説をして下さるのはすごく嬉しい。が、一層要点をしぼり喫んで心のほっとする茶の愉しみの御指導が頂ければ、尚有り難い。
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扨漱石の茶と言えば誰もが「草枕」の名文を想い出すだろう。くどいようだが、これだけは原文を書くしかない。
「茶碗を下に置かないで、其の儘口につけた。濃く甘く、湯加減に出た、重い露を舌の先へ一しずく宛落として見るのは閑人適意の韻事である。普通の人は茶を飲むものと心得て居るが、あれは間違いだ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液は殆どない。只馥郁たる匂が食道から胃の中へ沁渡るのみである。歯を用いるのは卑しい。水はあまりにも軽い。玉露に至っては濃やかなる事、淡水の境を脱して顎を疲らす程の硬さを知らず、結構な飲料である。
眠られぬと訴ふるものあらば、眠らずとも茶を用いよと勧めたい。」

茶道家木下桂風氏は「これは玉露を喫しての感想であるが、眞に茶を味得せるものの言葉である。茶は静かに味わうのでなければ本当の美味は分からない。」(作品社 日本の名随筆P40)と記している。
お茶の科学者大石貞男氏は「茶はじっくり味わうものであり、この文章は岡倉天心「茶の本」の精神につながる、」と指摘している。(茶の周辺 P251)

又、小川流煎茶六世家元小川後楽氏は「漱石の描き出したものは京都の医師小川可進が文化文政年間に創業したと言われる煎法・茶の喫し方だった」と記している。(茶道学大系一巻)

草枕は漱石自身「これは俳句的小説であって、美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい」と云っているように極めて詩的である。ロナルド・キーン氏は漢詩的だと云い、森本哲朗氏は蕪村俳句の小説化だと云っている。
尚、虞美人草にも宇治の煎茶の香りと水色、薩摩の急須の趣などを叙した箇所があるが、やはり絵画的で、後に記す「坊っちゃん」に出てくる茶とは訳がちがう。
以上、草枕は一方では絵のような茶の美味を描いたが、他方では所謂茶人批判が痛烈である。
「茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人程勿体ぶった風流人はない。広い世界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如としてあぶくを飲んで結構がるものは、所謂茶人である・・・。」(全2 P434、P474)同じ趣旨の文章は野分(全2 P704)にも虞美人草(全3 P87)にもある。

又高橋箒庵の茶会記について、大正四年頃の「日記及び断片」に次の如くある。「その道に入ると何事によらず天下他事なき有様なり。」(全13 P797)
当時箒庵は、茶会記事の超一流のベテランとして時事新報に健筆を振るっていた。箒庵には「東京茶会記」「万象録」「大正名誉鑑」「おらが茶の湯」等、多くの著述があるが、その文章はいづれも平易闊達である。特に山縣公、井上候、増田純翁(孝)等、政財界の数寄者の動静がよく分かって結構面白い読み物である。然し漱石にとっては年三十回にも及ぶ頻繁な茶会記の内容が本来の茶の精神を忘れ、所謂お道具茶の為に右往左往する著名人達の「天下他事なきなり有様」と写ったのだろう。冷ややかな蔑視をおくっていたのではあるまいか。
熊倉功夫氏は一方で、箒庵の茶会記は、茶の湯を文学の対象とし、その鋭い批判精神には傾聴すべきものがある、と認めているが、他方では「道具移動史」の中で、道具の価格について箒庵の強い関心に数奇者と呼ばれる政界、財界の茶道愛好家の興味が那辺にあったかを示しているだろう。」と指摘している。(万象録一巻序文 P7)
全くの余談ではあるが、道具に対する意識のない者にとっては茶会記は難解である。尤も井伏鱒二の「神谷宗湛の残した日記」などは門外漢にも分かりやすく、楽しい読み物ではあるが・・・。

漱石が「茶を立てることは知らぬ」と言っているのは、無論所謂茶人達の点茶の作法の煩雑さと規制づくめの事、茶人ぶった茶人への嫌悪、茶道具の偏在などによるものと思われるが、茶の家元制度への批判、論述等は見受けられない。もっと詰めてゆけば、そうした大きな問題に行きつくかも知れないが、柳宗悦の「茶の改革」とは少し趣がちがふ。
後年漱石も名声が挙がり、財政にもゆとりが出来て娘達にピアノは購入した。けれども茶室までには到っていない。この点直哉のような状況とは違う。もっとも漱石が自宅の茶室で茶をたしなむなど一寸想像できない。漱石の茶は謡や絵画や書とはちがった嗜好であった。
上記の通り、漱石は茶の湯に感じた悪しき部分については頗る批判的ではあったが、家庭に於ける子女の教育としては器械的ではなく、その精神を酌んでやれば、誠に賀すべき趣味の教育である。(全16 P561)と述べ、又茶の湯の歴史にも思いを馳せている。
俳句は棄てられて又興りぬ、茶の湯は斥けられて又興りぬ(全12 P89)とある。
尚、形や作法にとらわれない自由な茶会には晩年好んで参加している。大石忌や去風洞の茶席はそれである。去風洞では料理について茶事をならわず勝手に食う(全13 P759)とあるのは見逃せない。

さて、岩波文庫で最もよく売れているのは「坊っちゃん」だ、と聴いている。丸谷才一氏は「坊っちゃん」をフィールディングのトム・ジョーンズと比較し、大岡昇平氏は五十回読んだと伝えられている。批評家の中には高等落語だという人もあるが、長谷川如是閑、芥川龍之介、津田青楓、野上弥生子等々、山の手の江戸っ子だと評している。山の手の江戸っ子的啖呵の魅力はたまらない。だから、「坊っちゃん」の中の茶も草枕とちがって実に解り易い。ここでも実感を訴えるには原文を記すしかない。
「夫れから家へ帰ってくると、宿の亭主がお茶を入れませうと云ってやって来る。お茶を入れると云うからご馳走するのかと思うと、おれのお茶を遠慮なく入れて、自分が飲むのだ。この様子では留守中にも勝手にお茶を入れませう、と一人で履行して居るかも知れない。・・・一旦此道に這入ると中々出られませんと一人で茶を注いで、妙な手付をして飲んで居る。実はゆうべ茶を買ってくれと頼んで置いたのだが、こんな苦い濃いお茶はいやだ。一杯飲むと胃にこたえるような気がする。今度からもっと苦くないのを買ってくれと言ったら、かしこまりましたと云って、又一杯しぼって飲んだ。人の茶だと思って無暗に飲む奴だ。」(全1 P264)

この単純明快な啖呵に、溜飲を下げる人が多いが、「最後に亭主のいか銀が、かしこまりました、と云って又一杯しぼって飲んだ」正にラストドリップである。お茶好きの実感そのものである。又、文中「苦い、渋い茶はどこの産地とも解らない。アミノ酸の尠ないカフェインやタンニンの多すぎる茶だったのだろうが、この苦渋みのある茶の表現としては、濃い苦い茶とでも表現するしかないのだろう。うまい茶の表現もむつかしいが、まずい茶の表現もやさしくはない。

尚、漱石は松山中学の教師の時代、度々道後温泉に入っていた。温泉は三階の新築で、上等な浴衣を貸して、流しをつけて八銭で済む。其の上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へ這入った。(全2 P209)
友人狩野享吉、正岡子規にも同じような手紙を出している。
現在の道後温泉の調査によると、当時の使用茶は八女茶らしく、お盆に天目台を載せ、その上に天目茶碗を載せ、更に蓋をして使っていた。又お菓子に白鷺の形だったらしいと言う。岡本一平氏の「坊ちゃん遺跡めぐり」にも同様なことで記されているが、昭和十一年森田草平の紀行文には菓子は鷺の形をした塩釜が二つばかり添えてあると記されている。

尚、余り意味のある比較ではないが、当時(明治二十八年頃)の全国浴場組合の入浴料は2銭といふ事であった。(朝日新聞 明治大正昭和値段の風俗史)
近頃の三階個室利用料は千二百四十円で、サービスに浴衣、タオル(石鹸つき)、お茶、坊ちゃん団子といふ事だそうである。
「猫」の中に天道公平の難解な文章があるが、終わりは苦沙味先生よろしくお茶でもあがれ、(全1 P354、P374)が出てくる。禅宗の趙州喫茶去から出た言葉だと云ふ。お茶は正に鎮静の飲み物なのである。
余談であるが、内田百聞に、お茶を飲んで一休みする。咽喉が乾いたから飲むとは限らない。その間になんにもない。ただ茶を啜っている。その境涯がいいのだろうと思われる・・・。」(茶柱)漱石につながる百聞である。

漱石門下の文章である。
「もう一つの百聞」
機関学校のお茶はうまかったと云ふ記憶がある。しかし自分で考えてみるにはうまかったと云ふのは濃かったと云ふ事であるらしい。又この頃は今迄知らなかったお茶の味を覚えてきた。朝の食事から晩に家に帰って夕食の膳につく間、口に入るものは二時過の、店童のお茶ばかりである。甘露の如しと云いたいが、甘露が温かくて湯気が立っているのは可笑しい。この頃はその一杯のお茶で夕方迄もつ、茶腹も一時といふのはこの事であると感に堪へない。(茶柱)
一般にお茶好きは濃いお茶を好む。特に男性は。

山藤章二氏に、まあそこへお坐りという文章がある。
「新幹線の中でティーバッグを買ったが、お湯が日なた水みたいで、色が出なかった。外国人も同じものを買っていたが日本茶の為にも大変気にかかる・・・。」
これも喫茶去につながる言葉のように思われるが。聞き捨てには出来ない。

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