第二回 「夏目漱石」- 煎茶をウマイと思って喫む 2

株式会社かねも 相談役 角替茂二

――――滑稽な話
明治四十四年五月九日の日記に、
「○やがて膳を引いて新しい膳が又出た。此度のも副膳がついてゐる。本膳には、汁、御つぼ、それから御平、御酢あへ、御碗(汁)等である。
是で膳が五度出て、汁が五つ出た訳になる。
○朱塗りの御碗で飯を食って、御代わりに茶をかけてくれ、と言ったらお湯ですかと下女が聞き返した、婚礼では茶を用いぬものだそうだ。」とある。現在茶は結納品、又は祝儀、贈答に使われることもあるが、多くは香典返しとして仏事に使われている。漱石の時代にあっても婚礼には使わない習俗が一般的であったと思われる。
 こうした習俗について疑問と反撥を感じたのだろうか。万事ご存知の上のユーモアだろうか。
 又大正三年、寺田寅彦記の手紙の末尾に「小生は無法ものにて父の死んだ時、勝手に何処へでも出歩き申し候、最も可笑しかりしは其の節友人の父も死にたれば、茶の缶か何か携へて弔みに参り其の友人に変な顔をされた事に候。」とある。余人ならず寅彦宛である事が面白い。(全15p281)

―――――岩崎といふ人の手紙
出久根達郎氏に「漱石先生の手紙」(日本放送出版協会)と云うのがある・
 そのトップに取り上げているのが、播州の坂崎に居る岩崎と云う人の事である。いつも拝啓失敬申し候へども・・・・・・という書き出しで茶を送って、富士登山の図に賛をしてくれと云う依頼文をしつこく送られて閉口したと云う話である。この男の執拗さと滑稽さに降参したのだろう、漱石山房の座談会でも、又久保さんというお手伝いにも同じ内容を同じ調子で話している。然し大正三年正月岩崎太郎次君の為にとして、“播州へ短冊やるや今朝の春”(全12p727)と記している。
 漱石の温かさに改めて人間的魅力が偲ばれる。何度読んでも愉しい。お茶はワキ役的存在であるが、この事件で欠かせない役割であった。名古屋から送られたというこの銘茶はどこ産か分からない。多分、伊勢の茶だったと思われる。

―――――酸いような塩はゆいようなお茶
 漱石の“満韓ところどころ”に「茶を飲むと酸いような塩はゆいような一種の味がする、少し妙だと思って、茶碗を下へ置いて・・・・・・然し酸っぱい御茶は奉天のあらん限り人畜に崇るものと覚悟しなければならない。」(全8p259)

 秋山豊氏は「この連載を読んで激しい憤りを感じたのは長塚節であった・・・それを戯分と云うと言い過ぎかもしれないが、眞率よるもくだけることに重点のある文章である事は否めない。」(漱石という生き方p183)そして又奉天で鉄道馬車に乗ったときのことを書き記した文章「御者は勿論チャンチャンで油に埃の食ひ込んだ弁髪を振り立てながら、時々満州の声を出す。余は八の字を寄せて馬の尻をすかしつつ眺めた。」とあるのを秋山氏は、「私はこれらの文言を擁護したいとは思わない・・・・・・」としつつも「いづれにしても漱石の満州旅行における言説を中国人蔑視の証とし、または差別主義者のレッテルを貼る為に用いようとするのは、一挙手一投足を国家の為とせずにおられない学生が、漱石に反撥を加えようとした心性に通ずるのではないか、と私は思う。」
(漱石という生き方p320)と結んでいる。

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―――――水のこと
 又脇道にそれるが和辻哲郎は名著「風土」の中でモンスーン地帯で生活した日本人は水の味を味わい分ける繊細な味覚を持っている、と記している。
 お茶に合う水の研究者、小泊重洋氏のデータでは、硬度300のエビアンで淹れた茶の味が、うまい水の定評のある静岡の水で淹れた茶に必ずしも劣らない事を示している。(静岡県、お茶と水の研究会)エビアンで飲む茶のうまさを理解する人が増えれば少なくともヨーロッパでの消費拡大に役立つものと考えられるが如何なものであろうか。

―――――番茶について
 漱石の作品には番茶がよく出てくる。静岡県の茶業全書に寄れば「大きい型の煎茶原料が古葉や固い新茶で概ね扁平な形をしている。原料が硬葉してから摘採して製造するのと煎茶の再製中に選別される者と二通りある・・・・・・」と記されているが、明治大正にかけ、全国各地でさまざまな製法のものが売られ、一概にはいえないが、東京で好まれていた番茶の多くは再製中に選別された所謂中味または川柳の類の茶であったと思われる。

―――――サエ゛ヂ、チー
 また、「猫」に出てくるサエ゛ヂ、チーは諧謔に満ちている。英文学者漱石にしかつくれなかった戯言だと思われる。頭をひねって考えた訳ではなく、咄嗟の思いつきで出てきた言葉だと思われるが、無論これは素人考えでしかない。その筋の学者の教えを受けたい。野蛮の蛮の語感は番茶の側面をよく掴んでいるように思われる。
 「・・・金田君は猶語をついで、あいつリードルか何か専門に教へるんだって云ひます。・・・この間ピン助に遇ったら、私の学校にゃ妙な奴が居ります。生徒から先生、番茶は英語でなんと言いますか、と聞かれて、番茶はSAVAGETeaであると真面目に答へたんで教員間の物笑ひとなって居ます・・・」(全1p122)
 「ワハー、サエ゛ヂ、チーだ、サエ゛ヂ、チーだ、と口々に罵る。」(全1p132)「雪江さんが、一碗の茶を恭しく坊主に供した。平生ならサエ゛ヂ、チーが出た、と冷やかすのだが」(全1p430)

―――――番茶の英語
 番茶の英訳は名翻訳家のサイデンステッカーさんもむつかしいと言っている。
「日本語の文章なら番茶という言葉にごく自然に融け込むけれども、CoarseTea 粗悪な茶では英語の文章の中にそううまくなじんでくれない・・・・・・。」番茶で今でも比較的安いことを知ってうれしくなるのも番茶独特の良さがあってかけがえのない楽しみを与えてくれればこそ、ではないか。ことに疲れて喉が渇いているときの一杯の番茶には、他に代えがたい有難味があるのである。

―――――三十匁の茶
 琴のそら音の中で「余はわざと落ち付き払ってお茶を一杯と云ふ。相馬焼きの茶碗は安くて俗なものである。もとは貧乏士族が内職に焼いたとさへ伝聞して居る。津田君が三十匁の出殻を浪々この安茶碗に継いでくれた時、余は何となく厭な心持ちがして飲む気がしなくなった・・・。」
 三十匁の茶とは吉浜代作しに「明治元年以来、茶家の小売価格は銀目を呼称し、消費者は何十目の茶をくれと云って買うことが常習であった。斤は百六十匁だてで即ち銀目百目が金一円六十六銭六厘である。一般家庭用として多く販売されたのが三十匁のお茶で一斤が金五十銭であるゆえ各小売店はその三十匁のお茶は店名をつけ、優良茶を競って販売した・・・・・・。」(茶とともにp56)そして時代とともに値も騰貴した趣を述べられている。明治も晩年にはこの標準茶もかなり粗悪になったと考えられる。

―――――「門」の中の番茶
 「暫くして御米が菓子皿と茶盆を両手に持って又出て来た。藤蔓の着いた大きな急須から胃にも頭にも応へない番茶を湯呑み程な大きな茶碗に注いで両人の前へ置いた。」(全4p646)
 漱石の孫娘松岡陽子マックレーンは「味のない胃にも頭にも応へない番茶を飲んで毎日を過ごす平凡な貧しい夫婦生活を描く事によって作品を生き生きとした写実文学にしている。」として「門」を高く評価している。彼女は漱石とジェーン・オースティンとの距離の近さを指摘したかったのだろう。(孫娘から見た漱石の門、再検討p73)
 辛口評論家正宗白鳥も胃にも頭にも応えない番茶を喫み暮らす腰弁夫婦の庶民生活の描写をほめている。

―――――茶畑
 明治の中頃には東京にも二十坪位の茶畑は随所にあった。漱石の「猫」に出てくる車屋の黒が活躍する茶畑は、本郷、千駄木辺にはかなりあった。
 本郷も「かねやす」迄は江戸のうち、と言われた。
 漱石の生家は牛込馬場下町であったが、後年、早稲田に移って「私は昔の早稲田田圃が見たかった。然し其所はもう町になってゐた。私は根来の茶畠と竹藪を一目眺めたかった。然し其痕跡は何処にも発見する事ができなかった」(全8p467硝子戸の中)と記している。明治末より昭和にかけ急速に都市化の進んだ東京では茶畠が住宅地となったが、ここでは統計上の数字は省略したい。大石貞男氏は「東京のド真ん中に茶園」という文章を書いている。(茶随想集成 茶産地p160)
 又麻布西ヶ原付近に茶園が多かったが、都内いたる処に茶園があったと思われると記している。(茶園の周辺p58)
(つづく)

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