第四回「森 鴎外」カフェインの定量分析

株式会社かねも 相談役 角替茂二

―――――はじめに

テーベス百門の大都(木下杢太郎)と云われ、又辞引を片手に読め(永井荷風)とも云われた鴎外の文学は、凡人にとって難解であることは云うまでもない。然し明治大正時代の文芸の中の緑茶の姿、価値を知ろうとすれば、この碩学の言葉を蔑にする訳にはゆかない。
軍医と作家の二つの顔を持つ鴎外の著作は明治大正の百科事典のようなものであり、而もその参考書も山の如くにある。私はこうした書物の林の中をあて所もなく右往左往散歩してみた。そこは老人の暇つぶしには最も恰好な遊び場であった。以下はその始末記の概略であるが、なんと云っても鴎外は極めて複雑な怪物であるだけに、その人間性を理解するには、多種多彩な視点が求められるであろう。本文の添削と加筆は今後の課題であるが、父静男のように茶に親しむことがなかった鴎外は、官僚としても文学者としても大実力者であったのに、何故か人間としての親しみ難さ、付き合いの悪さを感じざるを得ない。然し人はそこが鴎外の魅力だと云うにちがいない。

小堀桂一郎氏は鴎外の日記について「私事に関してはまことに記実に乏しい」と記されている(文業解題P432)。然し、鴎外の実生活の中でお茶に親しんでいたなどと云う資料は何一つない。
然し鴎外の風貌、生家津和野の環境、祖父白仙の石州流、父静男の茶の嗜み、茶に親しんだ石黒忠恵や山縣有朋との交際等を考え合わせると、鴎外と云えども、お茶について多少の関心、智識があったのではないかと憶測してきた。
大分昔の事ではあるが、念の為に鴎外研究科の吉野俊彦氏にこの点のお伺いをした事がある。氏は茶を茶の湯と解したと思われるが、御返書には「鴎外自身お茶好きであったといふ事はあまり聞いたり見たりしたことはありません。」とあった。そして、父静男の茶について「カズイスチカ」とあげ、又作品の中の伊沢榛軒の茶などについて懇切な御指摘を頂いた。いずれにしても鴎外の小説の中の茶の多くは家常茶飯か接待用の茶であって嗜好品としての茶ではない。然し陸軍軍医森林太郎がライプチヒにおける渡欧第一の研究が茶の分析であったことは忘れることの出来ない事実である。富国強兵の時代とは云え、緑茶を保健飲料として科学的に取扱った事は日本の茶業史にとっても大切なことではなかったかと考える。

――――――鴎外の味覚

山崎正和氏に鴎外の視覚と味覚について興味深い文章がある。
第一に目を惹くのは、彼が文学者としていちじるしく視覚型の人間であり、その結果相對的にその他の感覚は通常よりも抑圧されていたという事実であろう。文章に現れるかぎり彼は見ることを好み、その分だけ、聴くこと嗅ぐことや触れることには関心が薄かったと推察される。そして何よりも顕著なことは彼が他の作家と異なり、痛みやだるさや吐き気のような、肉体内部の感覚にはほとんどなんの興味も示さなかったことであろう。(山崎正和 鴎外―闘う家長P176)

ところで視覚というものは一種独特の感覚であって、それを主軸にして生きる人間は、たえず自分の姿勢を支えるのに主体的な努力を要求される。すなわち、ものを見るためにひとは目を見開いていなければならず、目を閉じたとたん、自分と世界との位置関係が根こそぎ失われると言うことである。これにたいして、聴覚はもちろん、触覚や嗅覚やさまざまな内部感覚は、意志的な努力とは無関係に人間のあり方を決定してくれる。音楽を聞いて「背に水を灑がれたやうな」戦慄を感じれば、すなわちその戦慄の実感が、彼がそのときそこに生きていることの証拠なのである。その場合、主体的な姿勢は失われていても、彼はいわば大地に寝転ってしまったような自分に手応えを感じることができる。香りであれ手触りであれ、けだるさや性的な快感であれ、そこには主体的な姿勢以前の好き嫌いが働いて、ほとんど自動的にそれを感じる人間の存在を確証してくれるのである。(山崎正和 鴎外―闘う家長P190)

嫌いなものは鯖の煮つけと福神漬けであったというが、それも寄宿舎や軍隊であまりに食べさせられすぎた結果であった。喜美子は若き日の兄が牛乳を好まなかったと述べているが、それもあながち絶対に飲まないという嫌い方ではなかったらしい。茄子や隠元の煮つけを好み、葉蕃椒ん佃煮を喜んだといわれる半面、喜美子の料理する鴨肉や牛の舌の塩煮なども好物のひとつであったと伝えられる。(「鴎外の思い出」「レクラム料理」)油濃いものは性にあわぬといいながらも、「独逸日記」の彼はきわめて健啖であって、「一皿の米粒肉汁、一大塊の牝牛肉、蒸餅及牛酪」を飽食して、「滋養には餘あり」などと書き残している。また、若いころには歯が痛むといって蕎麦掻きばかりを一箇月も続けたり、晩年には米飯に餡をのせて食べたというような逸話もあって控えめにいっても鴎外の味覚は無頓着であったというほかはなさそうである。
こうした鴎外の「体質」をつくりあげたものは、第一には質実な彼の家庭であったことはいうまでもない。父の静男は茶の湯を唯一の道楽にしていながら、一生涯、茶器に名物を求めるような境地には踏み込まなかったらしい。晩年には観潮楼の茶室を居間にしていたが、壁には前住者の残した額がそのまま掛けてあって、家人が注意をしても、静男には自分には「趣味がないから」といって平然と笑っていた。鴎外がこういう家長のあり方を無意識に見習ったのは明らかだが、第二に重要な要因として、鴎外が故郷を失った移住者の家庭であったことも注意しておくべきであろう。(山崎正和 鴎外―闘う家長P190)

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――――――子供達から見た鴎外の食生活の好み

父の平常の生活ははなはだ簡素で祖母や母の造った惣菜料理で不平なく、それもあまり味の濃くない、かつ柔らかに煮た野菜を好んだ。軍医部長、医務局長、博物館館長として出張のときは卵焼き、梅干以外は口にせず、役所への弁当には握飯や食麺麭などが入れてあった。(森於兎 父親としての森鴎外P113チクマ)
技巧のない野菜料理、自分でこしらえる焼き味噌、馬鈴薯を茹でてつけ醤油を添えたもの、生玉子、そばがき等が好きだった。(森茉莉 父の帽子P255新潮社)
好き嫌いというものは殆どなかったが、どっちかといえば肉類より野菜の方が好きだったらしい。甘いものをご飯と一緒に食べるのが好きで、私などどう考えてもそんな事は出来ないが、お饅頭をご飯の上に重ねてお茶を掛けて食べたりする。
好物といえば茄子や胡瓜、筍の煮たの、桃、杏、梅などを煮てお砂糖を掛けて食べるのをひどく好んだ。嫌いのものは鯖の味噌煮と福神漬けで、鯖は下宿屋で、福神漬けは戦地で毎日食べさせられたからだといっていた。(小堀杏奴晩年の父P54岩波文庫)

食物について鴎外日記を読むと明治より大正にかけさまざまな宴席に出席していることがよく解る。日常生活が野菜中心の簡素であったとしても宴会の食事はそれ相応のご馳走であったと推測できる。
(1)特に大正初期より宮中での陪食に召され参内した事が驚く程多い。而もその宮中の饗宴の献立は粗大漏らさず記録されている、このメニューを読んだ丈でも大変なご馳走であることがよく解る。
(2)公的宴会は役職から云って当然であるが、この回数がまた実に多い。会場は上野精養軒、筑地精養軒、富士見軒、常盤や、華族会館、帝国ホテル、山上御殿、中央亭、星が丘茶寮。竹葉、天金等等いずれも一流である。
(3)冠婚葬祭、華族慰安等の私人としての外食も少なくない。
従而家庭における食事に健康上から考えても菜食中心が当然であったと考えられるではないか。山崎正和氏の言葉を借りれば、鴎外の味覚に無頓着であったと云えるかもしれない。そして食べる物の味に無頓着な事はご馳走はもとよりお茶の味などについても一層無頓着だったと思わざるを得ない。この味覚の大雑把さが父静男のように風雅な茶の道に入り得なかった所以では無かろうかとも考えられる。

――――――鴎外と茶事

祖父白仙、父静男いずれも茶事の嗜みがあったが、鴎外は茶の湯に親しむ事なく、茶人との付き合いも全くと云ってよい程ない。然しその日記の中で茶事に近い記録を二三拾ってみる。
明治四十二年九月十日
賀古鶴所を茶会に案内す(全35P453)とあるが果たして如何なる茶会であったか。
明治四十三年一月十二日
官事量りて後楽園を観に行く。臨瀞軒の額ある処にて茶を饗せられる(全35P472)之も単なるお茶の接待か。
明治四十三年五月十五日
古稀庵に常盤会あり、午後一草庵にて益田孝茶を立つそれより益田の別荘を観る。(全35P487)
益田鈍翁が茶を立て、接待されたとは鴎外に取っては無論之が最初で最後であった。

――――――箒庵の万象録

茶人高橋箒庵の日記万象録を見ると、鴎外と箒庵とのすれ違いぶりがよく解って興味深い。二人とも山縣有朋に近しくしながら、歩んだ途は全く別々であった。以下、箒庵の日記に従い記してみる。但し、鴎外の上司石黒忠悳は茶人であり箒庵と極めて懇意な間柄であったので、石黒のことも記してみる。
大正元年七月十八日
又余が常盤会選歌会を一度余が宅にて開会せられまじきやと元帥に伝言したるに、常磐会は最初森林太郎(鴎外)、賀古鶴所両人にて組織し、大口鯛二、井上通泰、鎌田正夫、佐佐木信綱、小出粲(死亡)、須川信行諸歌人の出席を乞ふて今日に至りたるものにて、森、賀古の両人は成るべく他の世話になりたくなしとの意向なれば、厚意は謝する所なれども他家に会合する事は不承知ならんと語られたる由。
大正二年六月十五日
鴎外は箒庵を訪ねているが、之は芝居の喜劇の話で、茶事とは全く無関係。当日の鴎外の日記に高橋義雄を溜池の假寓に訪ふ。午後賀古鶴所の家に常盤会あり、とある。
大正三年四月二十四日 [世話好きの石黒男] 石黒忠悳男より浜防風を贈り来る。男爵は極めて忠実なる人にて茶人の賞翫する種々の名物を取り寄せて時々茶友間に福分けすることあり、男が陸軍軍医中に声望ありて門下生の出入する者多きも亦此茶人流の親切を以って公私共に能く世話するが為なり、男の成功は蓋し此茶人的心入れにありと云うも可ならん。
この外石黒の座談、社交等随所に賛辞あり、石黒は箒庵の最も親しい茶人であった。
大正六年四月六日
山縣公より明夜、森林太郎、井上通泰等を招き晩食を共にせんとするに就き余に茶遊を乞うとの事なりしが、鎌田氏結婚披露に出席の前約あれば已むを得ず参会辞せり。公は先年花盛りの頃、椿山荘にて、「訪ひこかし梢に月もかかるなり花さかりなる山かけの庵」と詠じたる事あり。今や桜花爛漫の候、一夕雅友の相会し、彼の歌中の趣を味はんとせらるるならん。若し参会せば面白き語草をも摘み得べきにさりとては残念の至りなり。
茶事は遊び事のように見えるが、その実政財界に及ぼした影響は極めて大きい。
鴎外も箒庵や石黒と茶事を親しめば更なる栄華の途があったと思われるが、我等の鴎外の個性は妥協を許さなかった。そこが鴎外ファンにとってたまらない魅力であったように思われる。

(つづく)

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