第五回「森 鴎外」カフェインの定量分析2

株式会社かねも 相談役 角替茂二

―――――日本茶の分析

明治十八年一月七日
日本茶の分析に着手す(全35P91ドイツ日記)
伊達一男氏は次の如く述べられている。(月報29~30)
鴎外はライプチヒ到着後、五日目から研究を始め、孜孜として実験的研究にいそしんでいる。
・・・・・・ライプチヒでは、《豫て日本で調べて置いた、日本陸兵の食物に関したことを書いた》「日本兵食論」と「日本家屋論」の執筆以外に何もしていないように見える。しかし、そうではない。「独逸日記」に、ライプチヒでの研究として、日本茶の分析、Selbstversuchの記述があるが、この研究は、留学中のノートを見れば、尚一層明らかとなる。
鴎外は、一八八四年(明治十七年)十月二十二日ライプチヒに到着しているが、その五日後の十月二十七日から、さっそく、研究に着手していることを、研究ノートはものがたっている。すなわち、ノートの第一頁は、《27′Okt,84》なる日付からはじまっていて、日を追って詳しい衛生科学的分析の結果を記録している。それは、一瞥しただけで日本食の衛生科学的研究であることが分かり疑問の余地がない。それが論文とならなかったのは、鴎外も書いているように、《その成績完全ならざるため世に公に》しなかったにすぎない。
そもそも、この実験的研究の開始が、ライプチヒ到着後五日という極めて早い時期であったのは、鴎外がこのテーマをあたため、その完成のためにはホフマン教授につかねばならないと、ライプチヒめざしてやって来たためであろう。なぜなら、そのテーマの指導者として、当時のドイツでは、ホフマン教授とライプチヒ大学が最も適していたと考えられるからである。
「独逸日記」にある日本茶の分析は、一連の研究のなかのひとつであったようで、カフェインの定量分析である。
日付はないが、ノートの半ばくらいに、
とあって、「独逸日記」の日本茶の分析に相当するデータがある。(私の調査によると、この茶は横浜市、大谷嘉兵衛商店の茶であることは、ほぼ、まちがいない。この商店は今もある。)

植田敏郎氏は
「日本茶の分析に着手す」と書いてあるから、日本茶につきもののお茶には事欠かなかったのであろう。(森鴎外のドイツ日記P126)と記されているが、当時のドイツの水質では日本茶が日本茶らしくは飲めなかったろう。だが所謂視覚型の鴎外は藤村等とちがってさほど痛痒を感じなかったに相違ない。
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―――――森軍医の衛生学と著作
明治中期の日本は、押し寄せる西欧化の大きな波の中で「富国強兵」のターゲットのもとに、如何に対処すべきか激しい論争を繰り広げる事となった。そして陸軍にあっては、兵食を洋風化すべきか、日本食を続けるべきか論議の焦点であった。其の時、自らを洋行帰りの保守主義者と称した森軍医は「・・・・・・米ヲ主トシタル日本食ハ其調和宣シキヲ得ルトキハ人体ヲ養ヒ、新力及ビ体力ヲシテ活発ナラシム事毫モ西洋食ト異ナル事ナシト公言スル事ヲ得ルナリ」と云った。この強引な答案によって陸軍の兵食は和風に決まった。そして爾来和風であり続けたのは脚気論争の負のイメージを持ちながらも森軍医の科学的合理性追求とその戦闘的論陣のお陰と云っても云い過ぎではない。而も世は国民皆兵の制度である。陸軍の和食選択は庶民の和食選択につながったと云ってもよい。そして日本茶は洋食の付随品としての命脈を保ち続ける。お茶にとっても大きな運命の分かれ道であったと云える。
「日本兵食論大意」中陸兵の食物に論及在営、演習、戦時についての兵の食物内容を記している。在営の場合、兵卒一人一日の食物として米(未炊)六五〇瓦、魚二三〇瓦、豆腐二〇〇瓦、味噌六〇瓦、その他副食物として生蔬一〇〇瓦、醃蔵菜二〇瓦、醤油七〇瓦、砂糖五瓦、茶二〇瓦としている。食物に兎に角、富国強兵の時代、吾が兵士の士気高揚の為とは云いながら、茶二〇瓦は必ずしも少ない数字ではない。今日の自衛隊はもちろん軍隊ではないが、どの位の品質のお茶を喫んでいるのか。
○随筆「彫玉飛肩」では邦人の常食飲料として、飲茶の温度を測定し、室温二〇度の時、六三-六四度(六三度が尤も口に宣し)と記している。あまり安価な茶ではなかったのだろう。
○「衛生学大意」は口述書であるが、最後のくだりに次の如く云っている。どうしても欧羅巴の民は巴食のようなものを、図らずしも組み立つ様になり、又日本の民は今の日本食のようなものを、知らずに組み立つ様になりましたろうか・・・・・・人間が何処の国でも大体自分の身体を養う様に食物を組み立ててゆくのは本能という働きです。・・・・・・その本能の源の論杯は最早や神の論や何ぞと一緒になって、哲学に入って居ります。

著作の主たるものは「日本兵食論大意」「陸軍衛生教程」「衛生新篇」などであるが、茶の本質に就いては「茶は純真なる嗜好品である。栄養の資となすに足らずと雖も能く神経系に反応す」と記している。(全28P371陸軍衛生教程)茶の主要な役割を中枢神経の刺激に求め、茶中のカフェインに注目し、五乃至六瓦の茶は十七瓦の珈琲豆に匹敵すると記している。(全31P269衛生新篇)
又茶の歴史、種類、栽培、製法、産地、成分等にふれるとともに、カフェイン、タンニンその他の分析表を記載している。(全31P261衛生新篇)
尚、茶の効用として睡けざまし、喜斯的里の鎮静(温茶)、食中毒の解毒(多量の温茶濃茶の灌膓)、疲労回復、口腔衛生等の薬学的効果を挙げている。(全28P368衛生教程)
然し、それは茶は養生の仙薬、延命の妙薬、万病の保健薬といった古くからの言葉の上のもので、科学的解明が行なわれたという訳ではない。近年、お茶がガン、高血圧、糖尿、虫歯等々の予防に極めて効果的である事が新進の専門家によって立証されているが、それはビタミンC、テアニン、カテキン等の解明が前提であった事は申す迄もなく、その為には鴎外没後数十年の歳月を必用としたことになる。
尚全くの余談ではあるが、筆者は昭和十四年より陸軍の衛生兵として終戦迄三回応召、まんまる四年を過ごした。一にヨウチン、二にラッパ、三に倉庫の油虫と云われた時代だが、教材である衛生兵教程を丸暗記させられたのには閉口した。教程は森軍医の衛生学の縮刷本のようなものであった。懐旧の情に堪えない。

―――――茶に関する手紙と日記
明治三十七年十二月十一日 妻しげ宛(陣中より)
とめがくれたのはお茶とお菓子だ。それが営口という港からやっとけふとどいた。
明治三十七年十二月十六日 妻しげ宛(第二軍医部より)
明舟町でお茶のお客があってお働きださうだ。何でも用がある時は成る丈引き受けて出来ることならするようにおし(全36P194岩新妻への手紙)
明治三十八年四月二十五日 森しげ宛(陣中より)
・・・・・・この頃あま納豆を麦飯に入れてお茶をかけてたべるもんだから人がとんだ脚気の予防だと云ってわらふよ(岩新妻への手紙67)
明治三十八年四月二十五日 母峰より鴎外へ
茶と若め、しらす干等送附
明治三十八年六月二日
新茶と腸詰を追送
右以外に戦地に茶を送っていない。一応戦地にも茶は曲がりなりにも提供されていたか。
大正七年十一月十一日 奈良にて 妻しげ宛
今日は退出後、物産陳列所に参候、茶筅買イ求メ候、コレハ日本一ト申候、(全36P569岩新妻への手紙155)
同十一月十五日 奈良にて 妻しげ宛
又碾茶ハ誰ゾニタヅネ見可候(全36P516岩新妻への手紙158)
鴎外は兎も角妻しげは茶の湯の素養があったと考えられる。但し腕前の方は全く解らないが。
日記
明治三十一年十一月一日、演習行軍中
米屋(佐倉の米屋新太郎)供する所の食、洋食を混淆して頗る奇なり。今朝にいたりて碾茶を急焼中に盛り熱水を注いで供せり、予大いに驚く。(全35P280)
明治四十二年四月十二日
平出修の兄半政庵、児玉政明始めて来訪す。
石州流の茶人なり、片桐石見の守の裔は華族にて東京にあれども茶の嗜みなしと語る。(全35P437)

(つづく)

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