第六回「森 鴎外」カフェインの定量分析3

株式会社かねも 相談役 角替茂二

―――――小説の中のお茶

一 カズイスチカ ― 父静男のお茶
待合にしてある次の間には幾ら病人が溜まってゐても、翁は小さい煙管で雲井を吹かしながら、ゆっくり盆栽を眺めてゐた。
午前に一度、午後に一度は、極まって三十分ばかり休む。其時は待合の病人の中を通り抜けて、北向きの小部屋に這入って、煎茶を飲む。中年の頃、石州流の茶をしてゐたのだが、晩年に國を去って東京に出た頃から碾茶を止めて、煎茶を飲むことにした。盆栽と煎茶とが翁の道楽であった。
この北向きの室は、家ぢゅうで一番狭い間で、三畳敷きである。何の手入れもしないに、年々宿根が残ってゐて、秋海棠が敷居と平に育った、その直ぐ向うは木槿の生垣で、垣の内側には疎らに高い棕櫚が立ってゐた。
花房が大学にゐる頃も、官立病院に勤めるやうになってからも、休日に帰ってくると、先づ此三畳で煎茶を飲ませられる。當時八犬傅に読み耽ってゐた花房は、これをお父うさんの「三茶の禮」と名づけてゐた。
翁が特に愛してゐた、蝦蟇出といふ朱泥の急須がある。径二寸もあらうかと思われる、小さい急須の代赭色の膚にpenphigus(ペンフィグス)といふ水泡のやうな、大小種々の疣が出来てゐる。多分焼く時に出来損ねたのであらう。この蝦蟇出の急須に絹絲の切屑のやうに細かくよぢれた、暗緑色の宇治茶を入れて、それに冷ました湯を注いで、暫く待ってゐて、茶碗に滴らす。茶碗の底には五立方サンチメエトル位の濃い帯緑黄色の汁が落ちてゐる。花房はそれを舐めさせられるのである。
甘味は微かで、苦みの勝った此茶をも、花房は翁の微笑と共に味はって、それを埋め合せにしてゐた。(全8カズイスチカ)

翁は病人を見てゐる間は、全幅の精神を以て病人を見てゐる。そして其病人が軽からうが重からうが、鼻風だらうが必死の病だらうが、同じ態度で之に對してゐる。盆栽を翫んでゐる時も其の通りである。茶を啜ってゐる時も其の通りであろ。
・・・・・・・・・
しかし此或物が父に無いといふこと丈は、花房も疾くに気が付いて、初めは父が詰まらない、内容の無い生活をしてゐるやうに思って、それは老人だからだ、老人の詰まらないのは當然だと思った。そのうち、熊澤蕃山の書いたものを読んでゐると、志を得て天下國家を事とするのも道を行ふのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行ふのであるといふ意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生を考へてみると、自分が遠い向かうに或物を望んで、目前のことを好い加減に済ませて行くのに反して、父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐるといふことに気が付いた。宿場の医者たるに安んじてゐる父のresignationの態度が、有道者の面目に近いといふことが、朧気ながら見えて来た。そして其時から遽に父を尊敬する念を生じた。
実際花房の気のついた通りに、翁の及び難いところはここに存じてゐたのである。
(全8P6カズイスチカ)
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二 青年(1)
赤羽で駅員が一人這入って来て、卓の上に備へてある煎茶の湯に障って見て、出て行った。ここでも、蕨や浦和でも、多数の乗客の出入りはあったが、純一等のゐる沈黙の一等室には人の増減がなかった。詠子さんは始終端然としてゐるのである。
三時過ぎに大宮に着いた。駅員に切符を半分折り取らせて、停車場を出るとき、大村がさも楽々したといふ調子で云った。(青年、全6P363)

文中に煎茶の湯というのがあるが、これは無論一等車のことで、お茶のサービスがあったのだろうが、具体的にはどのようにしてお茶を喫ませたのだろうか。鉄道博物館などに照会してみたが一向要領を得なかった。そこで「明治の鉄道」の著者原田勝久氏にお伺いした処、「・・・・・・日本鉄道から国有鉄道へ移行した時代の事とは思はれますが、いづれの場合でも一等車における茶の接待については公式の記録は残されていないように思われます。したがってその方法については憶測しかできませんが当時の食堂車などに使われていた煎茶関係の湯呑みなどに白い陶製のものであったようで、急須に同じ色の少し大ぶりの紅茶のポットに近いものではなかったかと存じます」とお返事をいただいた事がある。大分昔の話。
国鉄はJRに変わり、人々に益々早く、益々安全に目的地に輸送される目まぐるしい時代になってきた。もっとゆっくりお茶でも喫んでゆとりを持って、車外の風景を娯しみながら走りたい。こんな考えは贅沢千万な老人の妄想というものであろうか。私はあの中国の文化大革命の折、列車の中でボーイさんが乗客めいめいの白い陶器のカップに何回も湯をついで廻った時の事を想い出す。然し中国でも、もはやあのような情緒ある車内風景を見られなくなったのであろう。時代の変化は恐ろしい。
青年(2)
「まあ、兎に角御覧なすって下さい。」と云って、婆あさんは柴折戸を開けた。純一は國のお祖母あ様の腰が曲がって耳の遠いのを思ひ出して、こんな厳乗な年寄もあるものかと思いながら、一しょに這入って見た。婆あさんは建ててから十年になると云ふが、住み荒らしたと云ふやうな處は少しもない。此家に手入をして綺麗にするのを、婆あさんはは為事にしてゐるが、いかにもさうらしく思はれる。一番好い部屋は四畳半で、飛石の曲り角に蹲ひの手水鉢が据ゑてある。茶道口のやうな西側の戸の外は、鏡のやうに拭き入れた廊下で、六畳の間に続けてある。それに勝手が附いてゐる。
純一はこれまで、茶室といふと陰気な、厭な感じが伴ふやうに思ってゐた。國の家には、舊藩時代に殿様がお出でになったといふ茶席がある。寒くなってからも蚊がゐて、気の詰まるやうな處であった。それに此家は茶掛かった拵へでありながら、いかにも晴れ晴れしてゐる。蹂口のやうな戸口が南口になってゐて、東の窓の外は狭い庭を隔てて直ぐに広い往来になってゐるからであらう。(青年、全6P292)

三 雁
「早くお膳を下げて、お茶を入れ替へて来るのだ。あの棚にある青い分のお茶だ。」爺いさんはかう云って、膳を前へ衝き出した。女中は膳を持って勝手へ這入った。
「あら、好いお茶なんか戴かなくっても好いのだから。」
「馬鹿言へ。お茶受けもあろのだ。」爺いさんは起って、押入からブリキの缶を出して、菓子鉢へ玉子煎餅を盛ってゐる。「これは寳丹のぢき裏の内で拵えてゐるのだ。此邊は便利の好い所で、その側の横町には如燕の佃煮もある。」
「まあ。あの柳原の寄席へ、お父つさんと聞きに行った時、何かのご馳走の話をして、その旨きこと、己の店の佃煮の如しと云って、みんなを笑はせましたっけね。本當に福福しいお爺いさんね。高座へ出ると、行き成りお尻をくるっとまくって据わるのですもの。わたくし可笑しくって。お父つさんもあんなにお太りになさるやうだと好いわ。」
「如燕のやうに太って溜まるものか」と云ひながら、爺いさんは煎餅を娘の前へ出した。
そのうち茶が来たので、親子はきのふもおとつひも一しょにゐたもののやうに、取留のない話をしてゐた。爺いさんがふと何かを言ひにくい事を云ふように、かう云った。
「どうだい。工合は。檀那は折々お出になるかい。(膳8P530雁)

四 金毘羅
博士は女中の持って来た茶を飲んで、飲んだ跡の茶碗に又茶を注いで、割箸を洗って半紙で拭いて膳の上に置いた。食べてゐる間でも、膳に汁が翻れると、半紙を出して拭く。物を食べさして置くといふことが嫌で、丸で手を着けずに置くか、さうでなければ残らず食べてしまふ。それで茶か何か遣ってゐるのかと思ふと、さうでないのである。(全5金毘羅527)(岩文∧晩年の父、小堀杏奴P56同じ趣旨の文あり、整然と整理することを好む。)

毎日入浴をせず、洗面器の湯で身体を掃き、お茶の湯式と云ったのとよく似た話である。(岩文小堀杏奴P71)

五 あそび 役所の茶
席に帰ってみると、茶が来てゐる。八時に出勤した時一杯と、午後勤務のあるときは三時頃に一杯とは、黙ってゐても、給仕が持って来てくれる。色が附いてゐる丈で、味のない茶である。飲んでしまふと、茶碗の底に滓が沢山淀んでゐる。
木村は茶を飲んでしまふと、相変わらずゆっくり構へて、絶間なくごつごつと為事をする。(全7P246)
当時の役所の中の茶が的確に描かれている。

六 興津弥右衛門の遺書
茶儀は無用の虚禮なりと申さば、國家の大禮、先祖の祭祀もすべて虚禮なるべし、我等此度仰を受けたるは茶事に御用に立つべき珍しき品を求むる外他事なし、これが主命ならば、身命に懸けても果たさでは相成らず、貴殿が香木に大金をだす事不相應なりと被思候は、其道の御心得なき故、一徹に左様思はるならんと申候。横田聞きも果てず、いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武邊者なり、諸藝に堪能なるお手前の茶藝が見たしとう申すや否や、つと立ち上がり、脇差しを抜きて投げ附け候。某は身をかはして避け、刀は違棚の下なる刀掛に掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合せ、只一打に横田を討ち果たし候。(全10P573)
1912年乃木大将希典が明治天皇に殉死し、之に感動した鴎外は一気に興津弥右衛門遺書を書きあげた。主君の命により、茶儀に用いる名代の香木入手のため、同僚を討ち果たした忠義な侍の話。これは主君細川三斎の逝去にあたり、殉死し、伜宛に認めた遺言書である。

―――――終わりに
一、ドイツ日記にもあるようにライプチヒにおける最初の研究はカフェインの定量分析であった。それはお茶の薬学的効用の調査であり、嗜好品としての茶ではなかったが後の森軍医の衛生学全般の基礎的な第一歩であって看過する訳にはいかない。
一、茶は日本陸軍が米を兵食と決定されて以来、その付随的飲料として兵食の中に定着した。鴎外の兵食論を等閑にする訳にはゆかない。又衛生学の著述の中で茶の効能をしっかり取り上げている事も忘れてはいけない。
一、「青年」の中の鉄道車中の茶のサービスについて記録がないのが残念。
一、山崎正和氏の視覚、味覚の話は面白い。
一、山縣公と親しかった鴎外は何故石黒(男)や高橋箒庵と親しく交わらなかったか。
一、筆者にとって最も興味を覚えたのはカズイスチカの中の父静男の茶の湯や煎茶の世界と鴎外のresignationの関係である。茶道の先生のご教示を得たい。鴎外の人間的魅力の根源はそのresignationにあると信じているから。尚、鴎外の茶についての多くの参考書の中で、面白いと思ったのは、高橋義雄(箒庵)の日記万象録と松本清張の「両像森鴎外」であった事を附記したい。

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