第七回「芥川龍之介」鉄瓦の湯を日に三度空にする

株式会社かねも 相談役 角替茂二


芥川龍之介は大正五年漱石に激励された「鼻」を発表し華々しく文壇にデビューした。続いて矢継ぎ早に「芋粥」「戯作三昧」「地獄変」等を刊行し、多くの文芸愛好家を魅了した。後年佐藤春夫をして「彼こそ鴎外、漱石」に続く日本文学のチャンピオンであると言わしめた。正に鬼才と云うべき存在であった。そうした中、彼は昭和三年「ぼんやりした不安」の一語を残し、三十五歳の若さで自裁してしまった。彼の死の動機、理由は沢山の遺書があるにも拘わらず、極めて難解である。サイデンステッカーのようにイマジネーションの枯渇を云う者もあるが、親友の垣藤恭は「ほんとうの事は分からないと云った方がよいと思います」と書いている。この不可解に近い芥川の死は彼の創作活動の価値を深い霧の中に閉じ込めた嫌いがあるが、そこには宗教、倫理、恋愛等の人間の本質に関する問題提起はある。六ヶ敷く危うい問題である。ここは君子ならずとも避けて通るしかない。まずは芥川が相当にお茶好きであった話からはじめたい。
大正時代と云えば今から八、九十年前の事であるが、当時のジャーナリストにとって、芥川のように有名で特異な取材はそれ相応の意義のあった事であろう。
中央文学の「作家の好む飲料水と食物」の質問には茶、日支料理と極めて簡単に答えているが、文章倶楽部の設問には……茶は随分飲む、机の傍らの火鉢に始終鉄瓦を掛けて置くが、この鉄瓦の湯を日に三度空にする。それ程茶好きだ。茶は煎茶を用ゐている。……珈琲、紅茶は折々飲む。然し夜は眠れぬ事を恐れ紅茶は決して飲まない……又朝食はパンと牛乳で済ませるとも書いている。
小説の中で場面によっては紅茶も出てくるが、もてなし接客には煎茶ほど多くない。これらは作家の煎茶好みのせいもあるが、大正という時代背景のせいであろうか。
遺品の鉄瓦や湯呑み等を見ていると成程、芥川は相当な煎茶愛好家だったなという実感が湧いてくる屡々創造力の貧困を指摘された芥川ではあるが、生理的にお茶の力で文章が書けた事も尠なくなかったのではないか。


西洋人という題で、—茶碗に茶を汲んで出すと、茶を飲む前にその茶碗を見る、これは日本人には日常茶飯に見ることだが、西洋人は滅多にやらぬらしい。「結構な珈琲茶碗でございます」などといふ言葉は西洋の小説にも見えぬやうである。それだけ日本人は芸術的なのかも知れぬ―何と云うことなしに茶の湯の作法を連想させてくれる文面でもあるが、今の日本人は芥川の描く西洋人と全く同じではあるまいか。茶碗はもとより中身のお茶のうまさについて講釈を述べる人も余りない。もはや日本人はお茶のうまさが分からなくなったのだろうか。うまくもまずくもない画一化された茶と称する商品は沢山あるのに本当に心にせまるうまい茶はなくなってしまったのだろうか。


又、ペン皿について―夏目先生はペン皿の代わりに煎茶の茶箕を使っておられた。僕は早速その智恵に学んで僕の家に伝はった紫檀の茶箕をペン皿にした。(先生のペン皿は竹だった)これは香似の妹婿に当たる細木伊兵衛のつくったものである。僕の鎌倉に住んでゐた頃、管虎雄先生に字を書いて頂き、この茶箕の窪んだ中へ「本是山中人、愛説山中話」と刻ませることにした。
漱石の門下生であった芥川の師への想いもあり誠に奥床しいが、茶箕をペン皿にするとは実に風流優雅に思われる。
然し風流と言えば次のよう
な言葉がある。南画々々と云ふけれども、ここの天才をのぞいた外は大部分くだらないものと云って差し支えない。僕はああ云う風流を弄びたくない。僕の尊敬する東洋趣味は人麿の歌を生み、宗匠や漢詩人などの東洋趣味と一緒にされては堪るものではない。正に言いたい放題である。
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四 芥川家の茶
大正十二年の関東大震災の時の妻女文の追悼文に―いつもお昼には子供が、二階の書斎の階段の下で「とうちゃん、まんま」と習慣でしたが、当日はどうしたものか、主人は一人だけ先に食べ了へて、お茶碗にお茶がついでありました―とある。この日も好物の鰤の照り焼きを食べたかは分からないが、芥川家も書夜の食事は概ね和食主体で食後には茶を飲むが習慣があったと思われる。然しどのような茶をどこから買っていたのか、之は全く分からない。芥川の文章の中には山本山をお茶の代名詞のように使っていると思われるケースもあるが、実生活の事は分からない。又芥川の幼少時の追憶では生家の本所付近では飲料水は水屋で買っていたとあるが、田端の芥川家の時にはむろん上水道を使ったと思われる。

五 澄江堂句集について
芥川の残した詩歌はあまり多くないが、俳句は尠なくない。特に、晩年の自作の句七十七を自選し、渡辺庄輔に清書させた。これは没後、芥川の遺書の指示に従い、お返し用になった。澄江堂句集がそれである。句集の中でお茶に関連するものは次の一句である。

あてかいなあて宇治の生まれどす
茶畑に入り日しづもる在所かな
これは大正十二年六月ホトトギスに載った春三句の一つである。中村草田男の評に芥川は飯田蛇竹笏の影響を受けているが、この句は即興的で妙味ありと記している。
尚、おらが家の花も咲いたる番茶哉ウマイうまいと云うのもある。
芥川の句に犀星も滝井耕作も誉めているが、川端康成はそれ程には評価していない。批評は何事に寄らず人さまざまである。

六 書簡の中の茶
芥川の交友関係者は実に多く、書簡の中には茶に関するものがかなりある。ここではそれらの一部を列挙するにとどめる。
 1 漢詩
   簾外松花落
   風前茶霞軽
   明窓無一事
   幽客午眠成
   小島政次郎、滝田哲次郎、佐々木茂策諸氏宛

 2 世の中のおろかのひとり自が焼ける楽の茶碗に茶をたうべたり
看取秀眞氏宛
 3 阿蘭陀の茶碗行く春の苦労かな
関栄一氏宛
 4 点心はまづしけれども新茶かな
井波清治氏宛
 5 即興 尿する茶壷も寒し枕上
斎藤茂吉氏宛
 6 糲に火あり鼎に茶あり以て君を迎えるに足るべく候
小野八重三郎氏宛
 7 酒前茶後秋立つ竹を描きけり
小島政次郎氏宛
 8 可哀想だと思ったら何時か妹さんの御給仕でお茶をのませてくれ給え
南部修太郎氏宛

七 修善寺新井旅館より小穴隆一宛書簡
一夜安木節芝居を覗いたら、五つになる女の子は「蛸にゃ骨なし。何とかには何とかなし、わたしゃ子供で色気なし」とうたっていた。大喝采だった。うちの子も五つになるが、ああいふ唄をうたって大喝采を受けぬだけ仕合わせならん。この間又夜更かしをして、湯がなくなった故、温泉で茶を入れたら、変な味がしたよ。ちょっと形容できぬへんな味だ。その癖珈琲に入れると、余り変でない。
筆者はこの手紙に興味を覚え、十数年前、新井旅館に問合せがあった。当時の企画室長石岡光雄氏より次のような書簡を頂いた。
「ご教示頂きました芥川先生の一節は見過ごしていた件で御座いました。非常に興味のある事で早速館内の温泉で緑茶とコーヒーの試飲をしてみました。同封いたしました分析表の通り、茶、コーヒー共に特に異味を感ぜず、只緑茶にやや塩気がするかな、その程度で御座いました。」
分析表通り修善寺温泉はナトリウム温泉だから、新井旅館の話の通りだと思った。
神経質な芥川にしては妙な実験をしてくれたなと思う。

九 穏やかならぬ手紙
大正九年、芥川は原とみ宛次のような手紙を出している。冗長ではあるが、芥川の手紙である、原文をそのままに転記する。

拝啓
先日中はいろいろお世話になりありがたく御礼申し上げます 今夕宇野と無事帰京しました 他事ながら御安心下さい
あなたの御世話になった三日間は今度の旅行中最も愉快な三日間です これは御世辞ぢゃありません実際あなたのやうな利巧な女の人は今の世の中にはまれなのです正直に白状すると私は少し惚れました もっと正直に白状すると余程惚れたかもしれません但しきまれが悪いから宇野には少し惚れたと云って置きました それでも顔が赤くなった位です 可笑しかったら沢山笑って下さい
その内にもっとゆっくり十日でも一月でも亀屋ホテルの三階にころがってゐたい気がします あなたは唯側にゐて御茶の面倒さへ見て下さればよろしい いけませんか どうもいけなさうな気がするため、汽車へ乗ってからも時々ふさぎました これも亦可笑しかったら御遠慮なく御笑ひ下さい
こんな事を書いてゐると切りがありませんから この位で筆を置きます さやうなら
十一月二十八日
芥川龍之介
鮎子様粧次
二伸 いろは単歌の「ほ」の字は「骨折り損のくたびれ儲け」です 今日汽車の中で思ひつきました
龍之介拝

扨龍之介の没後大分時がたってから文夫人はこの手紙の持参人から当時としては大金三十万円の借用を申し込まれ、その対応に苦慮されたが時間をかけて良識的な措置をされ事態はうまく解決した。然し後味は余りよくない話である。この時芥川は二十九歳、長男比呂志誕生、例の河童の話を描いていた頃である。正に人気絶頂と言える。そのような時にこのような変な手紙を書いているとは、全く信じがたい思いがする。

結び
芥川は煎茶を好み、随分飲んだが煎茶の心を捉える事は出来なかった。彼は上田秋成の「雨月物語」を論難したが、「清少納言」を批判する余裕はなかった。まして賣茶翁の事など何も述べていない。蘇東波の詩を愛し、中国茶にも親しんだが、盧同の詩などには触れていない。
彼は大正五年、その師漱石から久米正雄と二人宛の激励と忠告をかねた有名な手紙を受け取っている。
「……牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないのです……あせってはいけません。根気づくでお出でなさい。……うんうん死ぬまで押すのです。それ丈です。……牛はげます。人間を押すのです」
この手紙を数年前山梨県立美術館で拝見し、さすがに温かい感動があった。芥川は馬になりたかった訳ではないのだろうが、結果としては牛歩は出来なかった。
又、芥川が晩年眠れぬと云う事で節茶、節煙などして睡眠薬を多量に服用したが、節茶などしないで、漱石の草枕の玉露の飲み方に従っていればその神経衰弱も楽になったのではないか、言ってみても詮ない事ではあるが、三十五歳で自ら命を絶つとは痛ましい。余りにも痛ましい。思わずペンがすべった。

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