第八回「島崎藤村」お茶ミックス

株式会社かねも 相談役 角替茂二

藤村はお茶が好きであった。そして藤村くらいその作品の中で茶についての感想を語った作家は珍しい。その例を拾ってみる。

信州人ほど茶を嗜む手合も鮮少からう。斯ういふ飲料を好むのは寒い山國に住む人々の性来の特色で、日に四十五回づつ集まって飲むことを楽みにする家族が多いのである。丑松も矢張茶好の仲間には泄れなかった。茶器を引寄せ、無造作に入れて、濃く熱いやつを二人の客にも勧め、自分も亦茶碗を口唇に押宛て乍ら、香ばしく焙られた茶のにほひを嗅いで見ると、急に気分が清々する。また鮮生ったやうな心持になる。(全2破戒P33)

火曜日の新茶
折柄到来の新茶、色もみどりに香もよきを飲みさしたる茶碗下に置きて、われは二人の友に向ひ、さきの夜はわれひとり饒舌に耽りたれば、こよひは君等より聞くべきいはれあり、君等をまた語るべき責あり、語りたまへわれは心静かに聞くべしといひぬ。けふは一日のつとめに奮ひ励みて、はげしく身を投し心を働かせたるより、夕暮れかけて新茶の味もうまく袷せ時の夜がたりもおもしろく、白き丸傘はめたる洋燈をかこみて、他人をまぜずこころおきなきもののみにて語りぬ。(全1落梅抄P318)

平和の巴里
時には東京の友人から送られた瀟酒な布を小さな卓の上にかけ、その藍色の燕子花の模様なぞを楽しみながら、好きな茶の到来したのを入れて疲労を忘れるといふことが今での私の贅沢で御座います。(全6P277平和の巴里)

  
巴里で河上肇ほかの知人に茶を振る舞ふこと
巴里滞在中、日本茶を祖国から取り寄せ、自分が飲むだけでなく、多くの知人や外国人にも振る舞った事がある。知人の中で最も長く交流の深かったのは河上肇である。島崎と河上、専門違いの異質な二人、第一次世界大戦前のパリでの偶然の出会い、之は面白い。河上は「私も実はとうから鴎外さんは偉いと思ってゐた。明治から、大正、昭和にかけて同氏の右に出づる作家はあるまい。藤村氏などは段が違ふやうに思はれる。」(獄中日記P177)と云いながら藤村の詩集を愛読者であったり、破壊や嵐をよんでいる。そして……よく日本の番茶を馳走された。(自叙伝P219)と記している。又、後年河上は藤村のパリ時代のもてなしに感謝し、お礼の意味で京都のひさご案兄している。ちなみに河上は人を御馳走した記憶は生涯に二度としかないと云い、…そんなあくせくしてゐた私が藤村に会ふために、一夕瓢ひさご亭に出掛けたのは、よくよく巴里の思い出が懐かしかったのである。(同続自叙伝七P275)と結んでいる。
尚、河上もなかなかのお茶好きで、かなり濃い茶を飲んでいたと思われる。もっとも奥さんとの比較の話しだが、……食後番茶を飲むにしても、私は濃くて熱いのが好きである。ところが見てゐると、私に適度の茶であったならば、家内は必ず之を湯で薄めた上、更に冷水を氷で割るといった塩梅である。(同続七P292)
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――Ⅱ 藤村好みの茶
一、煎茶と玉露
茶も私はあまり強いのは頂きません。ごく精選した茶と言ふものは、少し湯を冷ましたところで入れて飲むやうなものでせうが、私は玉露のやうな茶よりも、むしろ煎茶の方が好きです。熱い湯をさしたのが、自分の口には適してゐます。
ところが、やっぱし茶の好きなものは、人の茶の話などにも自然と注意するものでしてね。或る茶舗の主人の話を、或るもので読んだことがありましたが、その中にはやっぱし本當のよい味といふものは煎茶にあるといふやうなことが出てゐましたね。
私は、あの寒い山國に生まれたものですからね、さういふ気候の関係もあって、信州のものいづれも茶好きです。どこの家でも、日に何度となく茶を淹れて飲むのです。私の茶好きも、つまりさう言うところから来ているのでせう。
私の郷里などの方には、普通の茶のほかにネブ茶と言うものがあります。このねぶ茶は或る灌木の葉から作ったもので、木曽当たりの農家ではよくそれを飲みます。番茶の味に似て、香ばしいやうなものですね。
ロシヤの方の人なども、寒いせゐですが、やっぱし温かい飲み物を好くやうですね。サモワルと言ふやうなものがあって、皆で一つ部屋に集まって、茶を飲むやうですが、信州あたりのものが茶好きと言ふのも、寒い山國の気候のせゐかも知れませんね。

茶の味は一口に言へば淡い。しかし、玉露のやうなものになってくると、淡いうちにもなかなか芳烈なところがありますね。
フランスの旅にゐる間も、私は、下宿で、國からとどいた茶などを淹れて、留学の人たちでも訪ねてくる時には一しょにそれを飲むのを楽しみにしたものでした。たまに、食堂に集まるフランスやポーランドなぞの、よその國の人に茶を御馳走しましたが、むかふの人達もめずらしがってゐました。ところがね、その茶は玉露でしたから、それを飲んだ外國人達は一晩眠れなかったと言って、日本の茶が強いのに驚いてゐました。まったく我々でも、夕飯過ぎなぞに、うっかり強い茶は飲めません。
その時私は、日本の方にあるものは、淡いもののやうに見えながら、その實、かなり強烈な香気を持ってゐるといふことに気づきました。例へば、あの俳句なぞにしても、ちょこっと言ふ味がありはしないでせうか。外國の詩や漢詩などにくらべてみても、それが思ひあたります。淡白だ、淡白だ、とは日頃よく言はれることですが、よく味はって見るなら、自分等の國にある多くの産物が、一概にさう言へないやうに私には思はれるのです。(全9P260春を待ち待ち)

藤村は勉すぎる玉露よりも味の淡白な煎茶に熱い湯をそそいで飲む事を好んだ。そして俳句に例を取りながら日本の国にある多くの産物が淡白だ淡白だと云はれながらかなり強烈なものを持っている。と説き日本文化の特質に触れている。
後の日本ペンクラブ代表のお茶を通じての発想であろうか。
 

――茶舗 深山と骨茶
飯倉の榎板から一丁目の方へ降りようといふ町の角のところに、私の家ではよく茶を買ひに行く深山といふ老舗がある。そこでは茶ばかりでなく、紙もあきなふ。飯倉の深山といへば古くから知られた店ださうだが、それほどの老舗とも私の家のものは知らなかった。ただただ好い茶を売る店のやうにのみ思って居た。茶好きな私は、時には散歩のついでに寄って、自分でも茶の袋なぞを揚げて帰って来ることもある。
そこにはいかにも老舗の深さといふやうなものがあって、注意して見れば見るほど好ましい店だと思ふ。そこで売る茶の味が私の口に適するのもうれしい。(全13P46市井にありて)

令息樟雄氏談
狸穴の煙草屋の一町ほど先へ行った左側に―飯倉一丁目から三田へ行く飯倉のダンダラ坂を上った交差点の右側―「深山」といふ茶と紙を賣ってゐた老舗があった。里塗りで、土蔵造りのいかにも鄙びた感じの家で、使用人も六七人忙しそうに働いてゐた。
父はこの老舗が大気に入りで、
「『深山』へ行ってお茶を買ってきておくれな。あすこのお茶は、ほかの店とは違って、とても味がよいからね」
と言って、私や弟などによくお茶を買ひにやらした。
父は「深山」のはいふに及ばず、木曽の方から送られて来る、新茶の香りと味は人を好んだ。
父は言った。
「父さんのお茶好きは、知らない人もないくらゐだが、お前たちは、父さんがどうしてこんなにお茶好きだか知っているかい―父さんはね、木曽の山のやうなところで生まれたからなんだよ。といふのは、山の上は高いから、どうしても空気が乾くんだね。それに木曽の人たちはよく働くんで、よけい咽喉が乾くんだよ。それだもんだから、どこの家へ寄っても、すぐにお茶を出してくれるんだね。なにも特別に美味しいお茶菓子があるのだといふわけのものでもなし、ただただ、漬物をお茶菓子がはりにしてお茶を呑むんだ。
ああいふ山の上の労働の烈しいところでは、お茶の味を楽しむといふよりは、ただ、わけも無くガブガブと、なんばいといふことなしによく呑むんだね。それは、お前たちがああしてよくお茶を呑むところなぞをみれば吃驚するよ……」(藤村祈念館だより76号)

骨茶の注文
<封書表書>昭和十七年七月三十日夜 静子夫人宛番町へ 大磯より
ついでの節に願ひたきもの、骨茶。(妻への手紙P266)
※骨茶……玉露のみどり葉を摘み取った後のもので午後はこの茶を主人は愛用していた。鎌倉時代から。(注 静子夫人)
藤村は晩年いつも飯倉の深山で茶を買い、その店や雰囲気に馴染まれたのは微笑ましい。そして骨茶を愛用されたのも極く自然な気がする。多分「東方の門」を執筆された時代の事であろう。
尚、現代このお店がどうなっているか、東京都のお茶の組合の関係者に聴いてみたが解らなかった。

―――新茶
茶にも季節はある。一番よくそれを感ずるのは新茶の頃である。ところが、新茶ぐらゐ香気がよくて、またそれの早く失はれ易いものもすくないかと思ふ。三度ばかりも湯をつぐうちに、急須の中の嫰葉がすっかりその持味を失ってゐることは、茶好きなもののよく経験するところである。新茶の頃が来ると、私はそれに古茶をまぜて飲むのを楽しみにしてゐる。六月を迎へ、七月を迎へするうちに、新茶と古茶の区別がなくなって来るのもおもしろい。
新茶で思い出す。静岡の方に住む人で、毎年きまりで新茶を贈って呉れる未知の友がある。一年唯一回の消息があって、それが新茶と一緒に届く。あんなに昔を忘れない人もめずらしい。私の方でも新茶の季節になると、もうそろそろ静岡から便りのある頃かなぞ思ひ出して、それを心待ちにするやうになった。(全18P132短夜の頃)

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