第十三回 正岡子規―――秋もはや銀煎餅に哉1

株式会社かねも 相談役 角替茂二

正岡子規はどえらい文学者である。多くの評論家が賞賛する通りだと思う。三十五歳で絶命する迄病床で号泣・呻吟し、その苦痛を訴えるさまは正に沈痛、鬼気迫る思いがする。だがそれにも拘わらず讀む人は讀めば讀むるほど心にゆとりを覚え、生きる悦びを感じさせられる、誠に不思議な隋筆を書いている。「墨汁一滴」「病牀六尺」「仰臥漫録」いづれも興味深深であるが、特に「仰臥漫録」が面白い。日頃の健啖な飲食物を細大洩さず認めている。毎日よく刺身を食っている事やら、間食には塩煎餅に澁茶から紅茶入り牛乳にいたる迄呆れるくらい細かくよく書いている。更に門人伊藤左千夫との交際を通じ、「茶の湯」の講釈に迄及んでいる。すべてに根性はすわっている。ここでは子規の「茶の湯」論から始めたい。

○子規と左千夫

子規に一番近しい人、虚子は次の如く記している。
『ホトトギス』東遷後の事業が俳句、和歌、写生文の三つであったことは前回に陳(の)べた通りであったが、その他居士は香取(かとり)秀真君の鋳物を見てから盛にその方面の研究を試み始めたり、伊藤左千(いとうさち)夫(お)君が茶の湯を愛好するところから同じくその方面の趣味にも心をとめてみたり、また晩年は草花 の寫生を試みて浅井画伯などの賞賛を博したりしていた。
(子規選集、子規居士と余)
従って、子規の茶の湯に関する見識は概ね左千夫から觸發されたものと考えてよい。但し左千夫が最初に子規庵をおとずれたのは明治三十三年の一月三日であり、子規の没したのは仝三十五年九月十九日であるから、師弟としての期間は必ずしも長かったという訳ではない。(この点は仝じ門人でも虚子や碧梧桐とは訳がちがう)だが、岡麓氏も云うように「左千夫は子規庵に来ては、いつも長座だった。そして、先生の歌に四月十二日、左千夫来り夜一時去るといふ題詞のついた歌もある」くらいだと伝えている。従って茶人左千夫は子規の門人として絶えず濃密な関係を求めていた結果、こと茶事に関する限り子規の知識は左千夫によって深められたと思って差し支えないだろう。

○子規の「茶の湯」論
子規は門人左千夫に屢々茶のもてなしを(勿論家人に命じて)するとともに子規自身の茶事についての一家言を持った。至極当然の成行と云えるだろう。子規のことばに次の如きものがある。
茶の道には一定の方式があり。その方式をつくりたる精神を考(かんが)うれば皆相当の理(ことわり)あることなれどただその方式に拘(こだわ)るために伝授とか許しとかいうことまで出来(いでき)てついに茶の活(かつ)趣味(しゅみ)は人に知られぬこととなりたり。茶道はなるべく自己の意匠によりて新方式を作らざるべからず。その新方式といえども二度用いれば陳腐に堕(お)つることあるべし。ゆえに茶人の茶を玩(もてあそ)ぶは歌人の歌をつくり俳人の俳句をつくるがごとく常に新鮮なる意匠を案出し臨機応変の材を要す。四畳半の茶室ははなはだ妙なり。されど百畳の広間にて茶を玩ぶの工夫もなかるべからず。掛軸と挿花と同時にせずというも道理あることなり。されど掛軸と挿花と同時にするも工夫もなかるべからず。室の構造装飾より茶器の選択に至るまで方式にかかわらず時の宜(よろ)しきに従うを賞玩(しょうがん)すべきことなり。
何事にも半可通(はんかつう)という俗人あり。茶の道にても茶器の伝来を説きて価の高きを善として非常に進歩せるものなれど進歩の極、鰹魚(かつお)節(ぶし)の二本と三本とによりて味噌汁の優劣を争うに至りてがいわゆる半可通のひとりよがりに堕ちてあまり好ましきことにあらず。すべて物は極端に走るは可なれどその結果の有効なる程度に止(とど)めざるべからず。
茶道に配合上の調和を論ずるところは俳句の趣味に似たり。茶道は物事にきまりありて主客おのおのそのきまりを乱さざるところはなはだ西洋の礼に似たりとある人いう。
(三月三日)
(墨汁一滴岩文P45)
末尾の或る人とは左千夫を指しているにちがいない。
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○会席料理と茶の話
二月二十八日 晴。朝六時半病床眠起。家人(かじん)暖炉を焚(た)く。新聞を見る。昨日帝国議会停会を命ぜられし時の記事あり。包帯を取りかう。粥(かゆ)二椀(わん)を啜(すす)る。梅の俳句を閲す。
今日は会席料理のもてなしを受くる予約あり。水仙を漬物の小桶(こおけ)に活けかえよと命ずれば桶なしという。さらば水仙も竹の掛軸も取りのけて雛(ひな)を祭れと命ず。古紙(ふるかみ)雛(ひな)と同じ画(え)の掛物、傍らに桃と連翹を乱れさす。
左千夫来たり秀真来り麓来る。左千夫は大きなる古釜を携え来りて茶をもてなさんという。釜の蓋は近頃秀真の鋳たるものにしてつまみの車形を左千夫の意匠なり。麓は利休手簡の軸を持ち来りて釜の上に掛く。その手紙の文に牧渓の画をほめて
我見ても久しくなりぬすみの絵のきちの掛物幾代出ぬらん
という狂歌を書けり。書法たしかなり。
左千夫茶立つ。余も菓子一つ薄茶一椀。
五時頃料理出ず。麓主人役を勤む。献立左のごとし。
味噌汁は三州味噌の煮漉し、実は嫁菜、二椀代う。
膾は鯉の甘酢、この酢の加減伝授なりと。余は皆喰いて摺山葵ばかり残し置きしが茶の料理は喰い尽して一物を余さぬものとの掟に心づきて俄かに当惑し山葵を味噌汁の中にかきまぜて飲む。大笑いとなる。
平は小鯛の骨抜四尾、独活、花菜、山椒の芽、小鳥の
叩き肉。
肴は鰈を焼いて煮たるようなもの鰭と頭と尾とは取りのけあり。
口取は焼玉子、栄螺(?)栗、杏及び青き柑類の煮たるもの。
香の物は奈良漬の大根。
飯と味噌汁とはいくらにても喰い次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちびやる。飯は太鼓飯つぎに盛りて出しおのおの椀にて食う。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残しおくものなりと。余はついに料理の半ばを残して得喰わず。飯終わりて湯桶に塩湯を入れて出す。余は始めての会席料理なれば七十日の長生すべしとて心覚えのため書きつけおく。
点灯後茶菓雑談。左千夫、その釜に一首を題せよという。余問う、湯のたぎる音いかん。左千夫いう、釜大きけれど音かすかなり、波の遠音にも似たらんかと。すなわち
題釜
氷解けて水の流るる音すなり 子規(三月二日)
料理人帰り去りし後に聞けば会席料理のたましいは味噌汁にある由、味噌汁の善悪にてその日の料理の優劣は定まるといえば我らの毎朝吸う味噌汁とは雲泥の差あるこというまでもなし。味噌を選ぶはもちろん、ダシに用いる鰹節は土佐節の上物三本くらい、それも善き部分だけを用いる、それゆえ味噌汁だけの価三円以上にも上るという。(料理すべて五人前宛なれど汁は多く拵えて余す例なれば一鍋の汁の価見るべし)その汁の中へ、知らざることとはいえ、山椒をまぜて啜りたるはあまりに心なきわざなりと料理人も呆れつらん。この話を聞きて今更に臍を噬む。
(岩文、墨汁一滴P43)正岡子規

○子規の味覚
○食物につきて数件
一、茶の会席料理普通の料理屋の料理と違ひ変化多き者ならんと思へり。しかるに茶の料理もこれを料理屋に命ずればやはり千篇一律なり。曰く味噌汁、曰く甘酢、曰く椀盛、曰く焼物と。かくの如き者ならば料理屋に依頼せずして亭主自ら意匠を凝らすを可とす。徒に物の多きを貪りて意匠なきは会席の本意に非ず。
一、東京の料理はひたすらに砂糖的甘味の強きを貴ぶ。これ東京人士の婦女子に似て柔弱なる所以なり。
一、東京の料理はすまし汁の色白きを貴んで色の黒きを嫌ふ。故に醤油を用ゐる事極めて少量なり。これ椀盛などの味淡泊水の如く殆ど喫するに堪へざる所以なりと。些細の色のために味を損ずるは愚の極といふべし。
一、餅菓子の白き色にして一箇一銭を値する者その色を赤くすれば即ち一箇二銭五厘の相違あるに非ず。しかも一箇にして一銭五厘の相違は染料の価なりと。贅沢に似たれどもその観の美は人をしてその味の美を増す思ひあらしむ。
一、鯛の白子は粟子よりも遥かに旨し。しかも世人この味を解せざるために白子は廉価に粟子は貴し。
一、醤油の辛きは塩の辛きに如かず。
(八月一日)
(病床六尺岩文大判P132 133)

○子規より左千夫へ
ある日左千夫鯉三尾を携え来りこれを盥に入れてわが病床の傍らに置く。いう、君は病に籠もりて世の春を知らず、ゆえに今鯉を水に放ちて春水四沢に満つる様を見せしむるなりと。いと興ある言いざまや。さらば吾も一句ものせんとて考うれど思うように成らず。
とやかくと作り直し思い更えてようよう十句に至りぬ。さはれ数は十句にして十句にあらず、一意を十様に言いこころみたるのみ。
春水の盥に鯉の瞼隅かな
盥浅く鯉の背見ゆる春の水
外八句
(三月二十六日)
(墨汁岩文P70)

今日は朝よりの春雨やや寒さを覚えて蒲団引被り臥し居り。垣根の山吹ようように綻び、盆栽の桃の花は西洋葵と並びて高き台の上に置かれたるなどガラス越に見ゆ。午後は体もぬくもりことに今日は痛みもうすらぎたれば静かに俳句の選抜など余念なき折から、本所の茶薄士より一封の郵書来りぬ。披き見れば他の詞はなくて
擬墨汁一滴
総じて物にはたらきなきは面白からず。されどもはたらき目だちて表に露れたるはかえっていやしきところあり。内にはたらきありて表は働きなきようなるがことにめでたきなり。
道入の楽の茶碗や落椿
春雨のつれづれなるままの戯れにこそ、と書きたり。時に取りていとおかし。
(四月十六日)
(墨汁岩文P44)

明治三十三年六月八日左千夫あてに
今日や来ます明日や来ますと思ひつつ病の床に下待ちこがる
十日は發句の会なり九日の朝から来ませ茶は買ひてあり

○子規庵における左千夫の茶

吾輩などは馬鹿に抹茶が好きであるから、先生の所は往っても、どうかすると抹茶的議論などがでる、もっとも先生は絶対に抹茶を排した訳ではなかったが、世間普通の茶人という奴が、実に馬鹿らしく形式だった厭味なものであるので、吾輩の抹茶についても時折嘲笑的痛罵を頂戴したことがあったのである、だがそれもやはり酒のような筆法で、吾輩が非常に茶を好むというところから、抹茶の器具が一通り備えられてあった、吾輩が数年の間に幾百回と通った内に、ただの一回でもこの抹茶の設備と抹茶的菓子の用意とが欠けたことがないのである。
明治三十年の夏、長塚君と日光まで滝見の旅行をやった時に、帰りは例の通り田端でおりて根岸へ寄った、いろいろ話し込んでいる内に、やがて母堂には抹茶の小鑵を盆へ載せて出された、先生は笑いながら君が非常に茶に渇していると思って、大いそぎに神田まで人をやって買わしたのだマア一ぷくやりたまえとあった、予はそれは先生恐れいりましたなア実は私は一日の旅でも茶を持って出るのですから、二晩とまり三日の旅ですもの、チャンと用意して参りました、まだ少し残っていますどうも恐れ入りましたなアというと、さすがに茶人だ僕はまた君が三日も茶を飲まないではすこぶる茶に渇してることと思ってから買わしたがそうであったかと大に笑った。
(子規選集12 P394)


…やがて母堂が茶を持ってこられ、次にお定りの抹茶の器具を出される、予はかかる際にどうかこんなことはおよしなされてといえど、物固い母堂はこの頃までも決してこの設備を欠いたことはなかった、まことに忘れんとして忘れられないことである。
(子規選集12 P397)

○病気見舞の返事
諸方より手紙被下候氏へ一度に御返事申上候。として…
ただ小生唯一の療養法は「うまい物を喰ふ」に有之候。この「うまい物」といふは小生多年の経験と一時の情況とに因りて定まる者にて他人の容喙を許さず候。珍しき者は何にてもうまけれど刺身は毎日くふてもうまく候。くだもの、菓子、茶など不消化にてもうまく候。朝飯は喰はず昼飯はうまく候。夕飯は熱が低ければうまく、熱が高くても大概喰ひ申候。
容喙荒増如此候。
(四月二十日)
(墨汁、岩文P96)
病床の中で身動きもままならぬ重病人がくだもの、菓子と竝んで茶もうまいものの仲間に入れている。くだものでは衆知の通り「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」(明治二十八年)がある。柿が一番に相違ない。後に志す献立表に牛乳に混ぜた紅茶もあるが、塩せんべいに澁茶も忘れてはいない。たかがお茶されどお茶である。お茶がこのように取り上げられると讀む人の心もホッとさせられる。

(つづく)

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