第十五回 伊藤左千夫――1

株式会社かねも 相談役 角替茂二

斎藤茂吉は左千夫の茶の湯を次の如く要約している。
(中公伊藤左千夫P345)
左千夫は明治二十六年(三十歳)ごろから伊藤並根に就いて茶の湯を學んだ。この茶の湯の趣味は左千夫の終生渝らなかったもので、文學美術上の論もこの趣味から影響を受けたことが多い。形式にかかはらない、極めて自由な茶の湯であったが、それでも私達若い門人等は、これを蒼い趣味だとして誰一人茶の方に入るものが無かった。『繪や歌や俳句やで友を得るは何でもないが、茶の同趣味者に至っては遂に一人を得るにむつかしい。』(茶の湯の手帳)と左千夫は云って居る。然かく左千夫自身にとってはなかなか大切なことであったから、次に茶の湯に關する若干の文章を録することとする。

○今日の上流社曾の邸宅を見よ。何處にも茶室の一つ位は拵らへてある。茶の湯は今日に行はれて居ると人は云ふであらう。それが大なる間違である。それが茶の湯といふものが世に閑却される所以であらう。いくら茶室があらうが、茶器があらうが、抹茶を立てようが、そんなことで茶趣味の一分たりとも解るものでない。精神的に茶の湯の趣味といふものを解していなゐ族に、茶の端くれなりと出來るものぢゃない。客觀的にも主觀的にも、一に曰く淸潔、二に曰く整理、三に曰く調和、四に曰く趣味、此の四つを經とし食事を緯とせる詩的動作、即ち茶の湯である。(茶の湯の手帳)

○人間の嗜好多端限りなき中にも、食事の趣味程普遍的なものはない。大人も小兒も賢者も知者も、苟も病者ならざる限り如何なる人と雖も、其の興味を頒つことが出來る。此の最も普遍的な食事を經とし、それに付加せる各趣味を緯とし、依て似て家庭を統一し社曾に和合の道を計るは、眞に神の命令と云ってもよいのであらう。殊に歐風の晩食を重んずることは深き意味を有するらしい。日中は男女老幼各其の爲すべき事を爲し、一日の終結として用意ある晩食が行はれる。それぞれ身分相當なる用意があるであらう。日常の事だけに仰山に失するやうな事もなからう。一家必ず服を整へ心を改め、神に感謝の禮を捧げて食事に就くは、如何に趣味深きことであらう。禮儀と興味と相和して亂れないとせば、聖人の敎と雖も是には過ぎない。それが一般の風習と聞いては予は其の美風に感嘆せざるを得ない。(同)

○禮儀と娯樂と調和宜しきを得る處に美風の性命が存するのである。此の精神が茶の湯と殆ど一致して居るのであるが、彼歐人等がそれを日常時として居るは何とも羨ましい次第である。彼等が自ら優等民族と稱するも決して誇言ではない。(同)

○又一面には歐風晩食の如く、日常の人事に茶の湯の精神を加味し、如何なる階級の人にも如何なる程度の人にもその興味と感化を頒ちたいものである。(同)

○古の茶の湯は今日の如く、人事の特別なものではない。世人の思ふ如く呶呶しきものではない。變手古なものではない。又輕薄極まる形式を主としたものではない。形の通りの道具がなければ出來ないといふものでもない。利休は、法あるも茶にあらず法なきも茶にあらずと云ってある位である。

○茶の湯は趣味の綜合から成立つ活きた詩的技藝であるから、其の人を待って始めて現はるるもので、記述も議論も出來ないのが當前である。茶の湯に用ゐる建築路地木石器具態度等總てそれ自身の總てが趣味である。配合調和變化等悉く趣味の活動である。趣味といふものの解釋説明が出來ない様に、茶の湯は決して説明出來ぬものである。香をたくというても香のかをりが文字の上に顯れないやうな譯である。若し記述して面白い様な茶であったら、それはつまらぬこじつけ理屈か、駄洒落に極って居る。天候の變化や朝夕の人の心にふさはしき器物の取なしや、配合調和の間に新意をまじへ、古畫を賞し、古墨跡を味ひ、主客の對話起座の態度等、一に快適を旨とするのである。目に偏せず、口に偏せず、耳に偏せず、濃淡宜しきを計り、集散度に適す。極めて複雑の趣味を綜合して、極めて淡白なる雅會に遊ぶのが茶の湯の精神である。茶の湯は人に見せるの、人に聽かせるのといふ技藝ではなく、主人それ自身、客それ自身が趣味の一部分となるのである。(同)
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○一般の人は、茶の湯など云へば只暢氣な氣樂な人間のする事と許り思ってる様だが、暢氣な人間には決して茶の湯は出來ない。庭に塵埃が散っても氣にならないやうな人には迚ても茶の湯は駄目である。家の内も外も兎に角片ついて居ねば氣になる。手水鉢の水も新しい水が堪へてゐねば氣になる。床に花がなければ寂しい。座右に美術品の一つもなければ何となく物足らない。襖の開閉に砂のある音が厭でならない。障子の桟にはほこりが見えては氣持が悪い。茶の湯の好きな人は必ず以上のやうな調子になってくる。であるから、茶の湯は横着者に決して出來ない。(同)

○常に動いて、さうして常に靜かな趣味を求めてゐるのが茶人の持前である。行住座臥悉く趣味を以て終始したいのが茶癖家の常であるから茶人は年中忙しい。それで無精者には到底茶は出來ない。(同)

○年中忙しがってさうして年中落ついた趣味に遊んでるのが茶癖家の本領である。落つきと云ふ事は徹頭徹尾茶の湯の精神である。落つきたい茶人が何ぜ忙しいかと云へば、落つきといふ趣味の蔭には必ず調和と疎通との生動があって、落つき此に於て無限の趣味がある。即ち茶癖家には此の調和と疎通との爲に忙しいのである。(同)
左千夫の茶の湯趣味といふのは斯くの如くであった。本所茅場町の家を無一塵の扁額をかかげ、爐が切ってあってそこに釜の湯が常に幽かな音をたて、小さい床の間に、茶掛がかかり、花瓶には草花が挿されてあった、そのころのことを思ひ出す。そこの一隅に手習机のやうな小さい机があって、其處で主人は歌を書き、勇猛な歌論をも草したのであった。それから時たって、唯眞閣といふ茶室を作ってからは、獨立した茶室が出來たが、それまでは書齊も居間も茶室も一しょであった。

左千夫は子規を追憶して、『心の動くままに行動した人であった。少しも偉く見えない人であった』(竹の里人)といふことを云って居るが、左千夫自身にも實際はさういふところが顕著にあったのではなからうか。長塚節が左千夫を追憶した文章の中に『個人には逸話が多かった。數年間交際を繼續して居た人々は誰でも他の人には知られない、單に自分との間にのみ起った或る事實の二つや三つは持って居ない事はないであらう。それが大抵は語れば一座が皆どっと笑ひこけるやうなことのみに属して居るらしい。一體故人の生涯は恐ろしい矛盾の生涯であった。矛盾といふことは人生の常態であるにしても故人のは殊に甚だしいのである。あの何事にも理窟が立って時としては其幣に堕する程滔々として自己の意見を發表し、往々にして對手を感服させるといふよりも寧ろ威壓して畢ふといふ程の力を有して居たにも拘らず、其の相貌の何處といふことなしに滑稽な分子を含んで居て、聰明な後進の人々からは何時でも竊かに微笑を浴せ掛けられて居たらうと思はれるのである。それが非常に度の強い眼鏡を二つも掛けなければ能く見ることが出来ない程の近視眼から遂に物事に間が抜けて勢ひ滑稽の分子が附纏うたに相違ない』と云ってゐるのは、左千夫の風格の一部を道破してゐたのであった。後進や同僚で左千夫を輕くみたもののあったのは、『少しも偉く見えない人』であったからであらう。
(「伊藤左千夫」中公斎藤茂吉 著P350)

(つづく)

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