第十六回 伊藤左千夫――2

株式会社かねも 相談役 角替茂二

左千夫の歌と小説の中の茶
左千夫には茶を詠んだ歌がかなりあるが、明治三十三年子規庵入門当時のものをとりあげてみる。子規の愚考と云う添削のような意見があって興味深い。
(中公日本の詩歌3による。註に興味がある)


いざ子供はや茶をたてよ窓の下に釜のとひゞく湯は立ちぬらし
おもしろき山茶花もらひ其花を床にさしいれて茶をたてにけり
冬の日のあかつきおきにもらひたる山茶花いけて茶をたてにけり
宇治の茶をのめばしのばゆ宇治の里の茶つみ少女のふしよき歌を
山城の宇治の茶飲めは宇治の里の茶つみ少女の歌ししぬばゆ
庭を清め座敷を拂ひ床の間に掛物掛けて茶を飮みにけり
いにしへの竹の林に遊びけん人の畫掛けて茶を飲みにけり
飮みをはり僧問ひけらく此茶わにあなヽおもしろ何とふやきぞ
いにしへの人が燒きけんらく燒の手つくね茶碗色古りにけり
夜ふけて家に歸れば家人は皆いねにけり冷茶を飮みぬ
夜ふけて家に歸れば家の内の人皆寢ねて茶は冷えにけり
家人の皆眠りにし夜半にわれ厨に行きて例茶を飮みぬ
盆栽の松をおきたる窓の内に白髪の翁茶を飮みてあり
老いらくの老をたのしむ茶座敷の小窓の上に松の鉢あり
※茶 『日本』(33・1・22),『同附録週報』(同・1・23)の竹の里人「短歌愚考(三、四)」に、「ある日歌よみ某來りて、茶を好む、といふ。・・・茶を知る者と知らぬ者と共に茶を談じて終に席上に茶十首を作る」と記して、左千夫と推定される七首、および「短歌愚考(一)」に「歌二首並べて、後に「愚考」の字を冠せたるは、前の歌の意を取りて、我思ふままヽに作り直したるなり。」とある「愚考」を冠した③⑤⑦⑨⑪⑫⑭の七首を掲載した。『歌集』は③⑦⑨⑫⑭の五首を掲げた。本集は右の七首を一字下げて組み两者をあわせ載せることとした。
子規は「愚考」の趣意につき次のように説いている。
③「愚考は山茶花を第四句に置きて一首のすわりを善くしたるなり。」
⑤さしたる變りにはあらねど「しぬばゆ」を終りに置く方順當にして善きやうなり。」
⑦「愚考は第四句の掛物の畫様を細(くは)しく述べて趣を取りたるなり。」
⑨「斯の如く尋常に言ひ下さんにはさして氣の利きたる面白き歌にもあるまじけれど其代
りにまた甚だしき失敗もなかるべきか。」
⑪⑫「夜更けて家に歸れば」といふ初の句を活かさんとすれば「茶は冷えにけり」などヽ結びたく、「冷茶を飮みぬ」を活かさんとすれば「夜更けて家に歸れば」を改めたく思ふなり。いかヾや。」
⑭「白髪とも翁ともいはず只翁の境涯をおぼろにいはヾそれにて足りなん。」
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明治三十五年
●黒樂の埦
壬寅の春、樂道入の茶埦を得たり嬉しさ抑へがたく即ち作れる歌

いにしへゆ今にいたりて陶物の大きひじりの楽の道入ことわりのこちたき国にかつてなき物にしありけりこれの樂燒

註、「黒樂の埦」合評で岡麓が、“樂の茶埦、釜、勾玉などを愛玩のあまりに、歌い上げた歌は、前後に比すべき作家を見出さぬ。神代より只ひとりある陶つくりと極力称賛を惜しまぬ、その能牟許が二つまでもわが得しと喜んでいるのである。この喜びの声は独得の叫びであるから力強い。”と述べている通りと言へる。しかしこの道具類も文明によれば、財政整理をする時持ち出したのを見ると「余り工台がよくなかった」そうである。

●道入 京都樂家の三代目、通稱吉兵衛、剃髪して道入、俗稱「のんこう」という。

●釜の響
釜大なれども音かすかなり。波の遠音にも似たらむか
氷解けて水の流るる音すなり
これ故正岡大人が吾が所蔵の釜に題し給ひし所。今宵しも其釜をかけ、炉辺近く机すゑつつ、さ夜ふくるままに釜のひびきいやさやに耳立ち、ありし世のことどもそぞろに思ひいでて、感慨とどめあへずなむ

大み代のひじりの人と名に立てる大人がめでてし釜にしありけり
朝酔に思ひは絶えずしかすがにこの釜の音にしぬびかねつも
炉にかくれば時じくたぎる釜の音は聞かば聞くべし大人に逢ひがたき
釜の音にありし世を思へば其夜らのありのことごと眼に浮かびくも
さ夜ふけて釜の湯の音はいや細り命たゆかに心かなしも
註、「釜の響き」茶趣味の域にとどまらず、子規追慕の情が横溢している。過ぐる明治三十四年二月二十八日、左千夫は子規を訪ねて茶を点てているが、「墨汁一滴」に「左千夫、その釜に一首を題せよという。余問ふ、湯のたぎる音如何。左千夫という、釜大きけれ ど音かすかなり。波の遠音にも似たらんかと、すなわち」として、氷解けての句が録せられている。浪吉は「甘さに陷ちず事柄を語るが如くにしてその弊を見ず、靜に黙座する。作者の姿がうかがわれる」(「合評」)とする。

第五首目の「命たゆかに」は鹿兒島寿蔵の命たゆるがにと解する」があたっている。文明、今井邦子は特に第三種を買っているが賛成である。

明治三十八年
●無一塵庵歌帖
冬の夜のさ夜静まりて釜の煮えさやさや鳴るに心とまりぬ
炉に近く梅の鉢置けば釜の煮ゆる煙がかかるその梅が枝に
此釜の煮えをしきけば秋の夜の蚯蚓が鳴くに似てを偲ばゆ
赤楽の色の潤ひ言に言へず絵にもうつせぬ垸にしありけり
赤楽のゆたけき形の大き垸徳川の世の盛おもほゆ
註、「無一塵庵歌帖」左千夫の茶の湯の趣味から生まれた作中出色のものといわれる。一首一首茶の湯の心を生かそうとして、内に滲透してゆく趣があり、「あそび」の中に冴えたものが形成されているところが独自の境になっている。

●釜
五百とせの昔鳴りけむさながらに煮え鳴る釜し尊かりけり
群萌黄椎の若葉の下庵にかけばかなはむ与次郎の釜
註、自註に辻與次郎は豊公に仕えたる釜師なり、その作柄を見るに、調子強くして、しかも豊なり、故に一見壮快なる感を起さざることなし、予その趣を歌わむとしてあたわず、思ふに讀者はひとり合点なりとせむか。」とある。
・興次郎、近江の人、千利休の釜師で天下一と号した。

明治三十九年
●日知の釜
よき人の日頃用ゐ給へる釜とて世に伝はれるものに同形同種のいと古き釜を得ぬ。即ち嬉しき思を歌ふ
み仏につかへ楽しむ聖人すらも炉に親します時ありけらし
うつそみの眼に見る形のさながらに五百歳経たる釜にしありけり
いにしへの鎌倉人の心なhきありけむ知らる肩つきの釜
いにしへの煮えの音偲び一人居り聖さびすも梅かをる夜に
春雨に雪とけ流れ山川のあふれみなぎる思ひす吾は
現世の人の気絶えし真夜中に聖の釜の煮えの音を聞く
註、「日知りの釜」麓は作者が一筋ごころの一面を謳いあげたもので、一見深みのないようにも見えるが、この淡味に浸る喜びが特色である。この肩衝釜というのは、肩の丸くついている形のもので、茶碗では樂焼を喜んだのとおなじ心持で厚み、やわらかみを尊重したのがわかる。
「雪とけ流れ」は正岡先生の「氷解けて」という句から引いている(合評)と評しているのがあたっている。茂吉に子規一代中の傑作の一つだと僕も思うから、この作者に與えた俳句として尊い因縁を思はしめるが、左千夫先生はこの俳句をも非常に尊敬していた。(全)と附記している。この短冊は後に古泉千樫がもらった。そのとき、茂吉も歌の短冊をもらったが、俳句の方が欲しかったのでそれを取ろうとしたら、左千夫は「まあ千樫にやっておきたまえ」と云ったので譲ったのだと云う。茂吉が初めて左千夫居を訪れたのは三十九年で、茂吉二十五歳の時であった。
日知 徳高き神の如き人、聖

●無一塵庵歌帖
正月二十日夜 麓大人の家に招かる。茶碗は例の道入の黒樂なり。涙出でん許り嬉しく後に歌詠み送る。またかと眉寄する人もあらむか
小さかしきやからをいなむ樂焼きの碗の心を誰と語らむ
世のなかの愚が一人楽焼の茶埦を見ては涙こぼすも
註・・・・・三十九年一月の「馬酔木」には「茶の湯の手帳」が連載され始め、その冒頭に「茶
の湯の趣味を眞に共に楽しむべき友人が、ただ一人でもよいからほしい。絵を楽しむ人、歌を楽しむ人、俳句を楽しむ人、その他種々のことを楽しむ人、世間にいくらでもあるが、眞に茶を楽しむ人は実にすくない。絵や歌や俳句やで友を得るは何でもないが、茶の全趣味に至っては遂に一人を得るにむつかしい」と嘆じている。
筆者註、晩年、左千夫は野上弥生子を訪ねているが茶の友をもとめていたのかも知れない。
尚、左千夫の小説は「野菊の墓」「分家」「隣の嫁」等々随分沢山あるが、どれも農村の中農、小農の世界に題材をとり、長塚節に近いものがある。作品の中の茶はいづれも「いこいの茶」「もてなしの茶」であって、茶の湯の茶を想はせる描寫は見当らない。
(つのがえしげじ)

附記
喫茶研究家の山田新市氏の調査によれば江戸の俳諧史の中で茶の句の多かった著名俳人として次の如く記している。
一茶百四十五句、芭蕉五十七句、蕪村三十九句、そして明治では正岡子規百七十句がある。
(俳句から探る江戸の喫茶、日経、2,20文化欄)

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