第十七回 志賀直哉 ーー 茶は常識の最も洗練されたもの

株式会社かねも 相談役 角替茂二

志賀直哉はその風采や作品等から、お茶に親しみお茶をよく理解した作家だと思われていたのではあるまいか。直哉の全集や研究書を読み返し、気の付いた点を記してみる。参考書の中では阿川弘之氏の上下二冊の「志賀直哉」が最も解り易く有益であった。

阿川弘之は飲食物の研究者として有名であるが、直哉の嗜好を近くにあって十分観察しその傾向をよく心得ていた。食物の味については「志賀直哉御馳走帖」の文になかなか興味あることが記してある。直哉は食う事自体好きだったし、美味の探究にかけては美食家梅原龍三郎にも劣らなかった。後年、梅原が「近頃年のせいで昼も夜も洋食ではかなわなくなってきた。刺身とか湯豆腐とかいったものがしきりに食いたくなる。」と云うのを直哉が受けて「僕は洋食が一番続くな、洋食なら幾ら続いてもいいね。豆腐なんか全然興味がない。」と応じている。然しそれだからといって三度の食事すべて洋食だったわけではない。「志賀直哉御馳走帖」ではさまざまな和風食材も挙げている。だが矢張り基本は洋食だったのだろう。
茶をやらず、茶人とのつき合いが無かった為、茶席への出張料理を家業とする京の辻留とも縁は薄かったと云う事である。
このように洋食主体であったから、飲み物も紅茶が多かった。特に朝は大きな紅茶茶碗で紅茶を二、三杯飲む習慣であった。逝去された翌朝も三女寿々子の夫中江孝男の書いたものによれば、母は早く起きて、父の顔を何度も撫でながら、いつもの朝のように紅茶に牛乳と砂糖をたっぷり入れた、父専用の大きな白い紅茶茶碗を枕元の小机の上に置きました、と記している。

又直哉の後に日本ペンクラブ四代目会長川端康成と幹事長豊島與志雄とが志賀邸に挨拶に来た時、康子夫人が留守で、偶々阿川が居合わせたので接待の代行をしたのだが、その時のことを次のように書いている。直哉は気を使ってあれこれ指図した。志賀家では客に茶菓を供する時、コーヒーが出ることはまず無い。煎茶、ほうじ茶の類か紅茶である。暑い日で冷たい紅茶を出したと云う。
私の大学時代の先輩、後に慶応大学の美術部教授であった三輪福松氏は志賀家と近しかったが日常コーヒーは使った事がないと話された事がある。
次に茶道の茶について
昭和十年十一月創文社刊行「茶道全集」の宣伝文を次のように簡潔に書いている。そして「茶は常識の洗練されたもの」という副題がついていて、当時成る程なと思った事がある。

〇「茶道全集」推薦
私はお茶のことは知らないが、この頃自分の娘達が習ってゐるのを見ると、常識の非常に洗練されたものだと云ふ事を感じた。その手順に少しの無駄もなく、動作の一番良いもののエッセンスだと思った。文章の場合でも装飾的なものから次第に地味な必要なものだけに這入っていくやうに、茶もその意味で同様な経路をたどったのかもしれない。私は昔、茶のおてまへを見ながら王羲之の時を想い出した事がある。骨があって飾りけのない感じから言って、恰度そのやうなものだと思ったことがある。
茶はいろいろな形式を通り越して、はじめて自由に振る舞へるようになるのがその極致ではないか。(昭和十年)

尚、昭和十年の草稿に「今書かうと思ふ材料として、自伝、親、演説、茶、信条」とあって、茶について何か書くつもりだったと思われる。未定稿ではあるが、同十年に茶についてとして、二つの長い文章がある。未定稿216(全9、P652)及び未定稿218(全9、P653)がそれである。
ここでは昭和二十八年の正式文章を記してみる。(全7、P498)

〇茶について
私は茶道のことをいふ資格のないものであるが、二十何年の昔、奈良の上高畑といふ所に家を建てる時、大工が裏千家関係の数寄屋大工で、建物の何所かに茶席を造りたいといふので、私は書斎の裏の中庭に面した南向きに六畳の日本間を作って、友達が来た時、寝ころんで気軽に話をしたり、或いは将棋をさしたり出来る部屋を作ってくれと云ふと、大工は喜んでそれを忽ち本式の茶席に作って了った。結局、私の考へた用途にはならなかったが、家内と娘三人、興福寺の坊さんを師匠にその部屋で茶の稽古をする事になった。その前、京都にいた頃、私は茶でも習はうかな、と串戯半分に云ふと、友達はどういう理由からか、真顔でそれはよした方がいいといって止めた。私が柄杓を立てたり、茶筅をひねって眺めたりする姿を思ひ浮かべただけでもさういひたくなるかも知れぬと、後では自身も思った。以来、一度も自身で習ふことは考へなかったが、娘達が習ふのはいいやうに思って、毎週一度ではあるが、興福寺の多川さんに来て貰って、茶の稽古をさせる事にした。その日の掛け物と花とは大概、私が決めたが、茶はやらずとも、これだけでも一寸した楽しみにはなった。
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その頃、創元社から茶道全集が出版されるに就いて、その推薦文を頼まれ、私は「茶は常識の最も洗練されたもの」と書いたが、今もさう思ってゐる。点前といふのは一番無駄のない、順序ある動作で、私は毎朝の洗面にもこの点前といふものはあると思ってゐる。歯ブラシの掛けてある位置、歯磨き粉の置き場所、殊に私の場合、上下総入れ歯であると、それをみがくのに一番良い手順を決めて置かないと、同じ事を繰り返したり、まごまごする事がある。茶道はかういふ事を非常によく考へてゐる。それ故、茶を習ったら、茶の場合だけでなく、日常の生活にこれを応用することが大切で、私は茶は習はずとも、日常の生活ではさういふ事に多少の工夫をする方である。
茶の精神といふやうな事も云われてゐる。さういっていいやうな、禅などとも多少通ずるものが茶にはあるかと思ふ。然し、実際の場合として、精神とか禅とかいふ事とは凡そ縁もゆかりもない連中が茶人ですと、商売の宣伝にこれつとめてゐる有様を見ると、茶道そのものに対してまで、ある反感が起こってくる。私は茶道が今のやうな流行の仕方をしていいのかどうかを疑ふ。それで食ってゐる人が多すぎるのではないかと思ふ。茶は利休の昔から職業化してゐるやうであるが、さういふ職業茶人がゐなくなった時、却って本統の茶が生まれるのではないかといふやうな事も考へられる。
私は一面では茶道に反感を持ち、他の面で、いいところもおぼろげに感じてゐるので、以上のやうな考え方になるのかも知れない。

昭和九年、偶感として茶席で煎茶の御馳走になる、抹茶は知らないが、煎茶は尚知らず、三人教はりながら喫む(全3、P157)
又、同年竹條履信の事として、同じ事を次のように詳述している。
南禅寺の無隣庵に伏見の愚庵和尚の遺墨展覧があり、履信さんと清閑寺と三人連れで見に行った事がある。愚庵好みの蕎麦の馳走になり、席で淹茶だか煎茶だか飲まされた。あわて者の清閑寺を先発に立て、茶はそれを出す人に聴きながら飲んだ。(全7P226)
若年の頃はおてまえも習わず、自身茶席に出る事もなかった。

昭和十年十二月十一日
・・・・・・電話で問い合わせ山岡邸を一緒に訪問、茶、懐石を馳走になる。(全11P392)

昭和十一年九月二十七日
明日は京都の三千家の茶庭見物にその方の専門家達と出かける(全12P436)実石敏郎宛書信

昭和十六年
広間に並べられた面を見てから、別室で茶の御馳走になったが、年順で仕方なく正客の座について、出入りの道具屋のたてた茶を飲んだ。(全4P186、寂しき生涯)

日記書信の中の茶
昭和十一年九月二十七日 実石敏郎宛
明日は京都の三千家の茶庭見物にその方の専門家達と出掛け(全12、P436)

昭和二十年六月十二日 廉子宛
今、寿々子と三人で福井に行くところ、茶を賣っているといふので重くないものゆえ、買って皈らうと思ふ。(全13P86)

昭和二十一年六月九日 廉子宛 奈良より
町で黒楽の茶碗を一つ買った。百五十円(全13、P125)

昭和二十七年四月十七日
桃李境で柳と二人の送別会の茶会に出席、寒月庵にて茶(全11P855海外旅行)

昭和二十七年四月二十三日
紅茶茶碗三つ入りの荷を駅より持ってきてくれる(全11P859)

昭和二十七年七月十九日 ロンドンより 廉子宛
此方へ来ると矢張り日本の食物がうまい。繁子がよく乳や砂糖の入った紅茶を魔法ビンで持ってきてくれるが、昨日からは番茶、ほうじ茶にして貰った。(全13P440)

昭和二十八年四月二日 梅原龍三郎宛
それから九日、桃李境で茶の会があり、・・・・・・二十日午前中に来て貰へれば好都合だ。(全13、P478)

昭和三十年五月十一日
午後八窓庵で茶を御馳走になり・・・・・・

昭和三十年五月五日 廉子宛
今日町で支那の茶飲み茶碗を二十買った(全13P588)

尚、昭和三十年秋、軽井沢ゴルフ場で川端康成と一緒に写真に収まっている(新潮 日本文学アルバムP148)

昭和三十二年、川端は志賀に表千家茶会の招待状を送っているが、出席しなかったものと思はれる。

志賀は柳宗悦と少年時代より親しく交わり、後年その娘が柳家に嫁いだ関係もあり、柳の「茶の改革」は熟知していた。然し柳ほどのラディカルさはないが、正式な茶の湯の会には余り出席していない。出席したのは私的なものばかりである。
煎茶は藤枝静男氏から昭和三十三年以降、川根の茶、天竜の茶等数回送られている。その他宇治茶、宮崎の茶も入手しているがその好みを明確にする材料はない。

―― 最後に
〇弟直三の茶
直哉は茶の湯に特に親しんだ訳ではないが、弟の直三は宗偏流の宗匠で志賀幽筌と名乗っていた。敗戦翌年の春に駐日ソ連代表部のスターリン賞受賞作家のゴルバジョフに茶の湯の起源、哲学的な意味について解説をしたという。多芸多趣味、昭和二十八年「千ぐさ」といふ懐石の店を開いた。直哉より三年早く亡くなった。

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