第十八回 木下杢太郎 十六世紀キリシタンの觀た茶の湯1

株式会社かねも 相談役 角替茂二

静岡県伊東産のコスモポリタン木下杢太郎(太田正雄)は医学者であり、文学者であり、美術家であった。どの分野でも地味ではあるが持前の優れた才能を發揮された。北原白秋の詩集に比肩される「食後の唄」や随想「地下一尺集」や戯曲「和泉屋染物店」等文芸作品として著名なものが尠なくない。
そしてキリシタン文化の研究や大同石仏寺(木村莊八共緒)は西欧文化も中国文化もその背景にある世界觀を掘り下げる事の大切さを認識した結果であると云われている。その發想のユニークさに往時の多くのインテリが感銘した事は申す迄もない。

晩年の「百花譜」は科学者の眼と、詩人の魂がこもった画業であり、戰爭末期の荒廃した人心に深いやすらぎを與えながら同時に植物学上の知識を植えつけてくれた。
文芸評論家桑原武夫は詩人石川啄木についてその人物批判の鋭さと的確さを指摘している(啄木案内P72)が、その啄木は杢太郎を「大きくなくて、偉い人」「頭の中心に超人と云う守本尊を飾っている男」と評している。啄木と杢太郎は雑誌「スバル」時代の友であり、パンの会の仲間でもある。明治41・42年頃、交際が親密であった。詳細は啄木日記に。茶については残念乍ら余り多くを語っていないが、十六世紀のポルトガル宣教師の觀た茶の湯の研究の翻訳は当時代のヨーロッパ人が日本の歴史と文化をどのように觀察したかという点で極めて重要である。

尚高橋箒庵の「茶会記」についての感想や茶の湯の見方についても割り切っていて、いっそ痛快な感じである。啄木の言葉通り、偉い人であり独自の世界観の持主であったと云うべきか。

――― 新茶
杢太郎の作品の中でお茶を想わせるものは確かに尠ないのだが、それでも若い頃の詩集「食後の唄」の中では新茶の愉しみがうたわれている。
朝の新茶

櫻實(さくらんぼ)が熟し、草のかげが
重くざわざわして、間々露冷(つめた)く――
樫の花のしつこいかをり
煉瓦の壁に差す日の華やかさ、うひうひしさ。
かかる朝庭を歩み

草上に坐して新茶を啜れば、
五月の朝のはれやかな心の底に、
世界のいづく、草の葉の一(い)つにだに缺(か)けざる
かの一味(いちみ)の悲哀(かなしみ)の湧くをこそ覺ゆれ
              (28.V.1915)
              (全2P209)
              (食後の歌)
又、五月の題で

五月が來た。郊外を夕方歩けば
家々の表で藁(わら)を燃すにほひ、
林の檪(くぬぎ)に新茶が出、
葉茶屋に新茶
落日(いりひ)の金茶(きんちゃ)
伯爵家の別荘には罌粟(けし)が赤く咲いたげな
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・        (全3P208)
又、戯曲「実験時代」の台詞には

野崎夫人(茶を啜る)「まあ好い味だこと、若いのに感心ね。よく茶の味が分ってね。」とある。(全3P208)
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――― 紅茶
雨後の朝
湯が島にて夏の早朝非常に氣持よく、椎の木のかげにて、二匹の犬を正賓にした、俄づくりの木の食卓で紅茶をのんだ事あり。その時詩をつくりかけたりしが、遂に未成のまゝに手許に残り候。何でも「雨後の朝」といふ題にて半分ほど出來上り居り候。
薊(あざみ)の花の紫が
まだ露のまゝ、起きたまゝ。
露か、涙か、簪(かんざし)か、水銀珠(すゐぎんだま)か、重さうに。
で、私はあまりの氣持ちよさに、
粗末な食卓を庭の隅の――
渓流に臨んだ庭の靑草(あをぐさ)の上へ運ばせた。
聲高(こわだか)に、さも可笑(をか)しげに宿の女中が笑った。
それから主婦(かみさん)も、
牝鷄(めんどり)と、ひよつこも、
このさゝやかな奢(おごり)を見て、
白犬もまた愴惶(あわただ)しく驅けて來た。

ふるゝ、ふるゝと口笛を吹いて
そして紅茶の碗を取り上げた――。靜かに口許(くちもと)に。

何と綠の夏草(なつぐさ)の冷いことよ、
その中(うち)のたった一つの紫の薊(あざみ)の花が
かうゆらゆらと露を落すのを見やりながら
本郷の
五丁目の
青木堂(あおきどう)の金(きん)ちやんが送ってくれたLiptonの
お茶の香のよき、味のよさ
と子守歌のやうに唄ひながら、
私はふと茶碗の罅(ひゞ)を見付けたのだ。

既に日はまつ靑(さを)な
天城山(あまぎさん)の峰から顔を出した。
霧が多い朝の谷は、
穏かに、美しい光と音を以(もつ)て反響した。
之まで出來て居る。
右にて蝋燭の燈のやうに聯想の影も暗く相成候。少(すこし)く長過ぎ候。以上。(二月二十三日夜半)
                (全8P51明治四十五年「女子文壇」に掲載。)
作品の中の会話に
「一体台湾の茶は余り甘くないな、僕は矢つ張り錫倫のが一番好きだ。」とある。
                      (全24P486地下一尺集20号)
その他紅茶の出る場面もあるが頻度は尠ない。
序に珈琲の詩も一つ

珈琲

今しがた
啜って置いた
MOKKA(もか)のにほひがまた何處(どこ)やらに
残りゐるゆゑうら悲(がな)し。
曇った空に
時時(ときどき)は雨さへけぶる五月(ごぐわつ)の夜の冷(ひやこ)さに
黄(き)いろくにじむ華電気(はなでんき)、
酒宴(しゅえん)のあとの雑談の
やや狂ほしき情操(じょうさう)の、
さりとて別に是(これ)といふ故(ゆゑ)もなけれど
うら懐かしく、
何となく古き戀(こひ)など語らまほしく、
凝(じっと)として居るけだるさに、
當(あて)もなく見入れば白き食卓の
磁の花瓶(はながめ)にほのぼのと薄紅(うすくれなゐ)の牡丹(ぼたん)の花。

珈琲(かふえ)、珈琲(かふえ)、苦い珈琲(かふえ)。 (全2P207)

宝物拝観
―――明治四十四年グラザー夫妻の案内
部屋には茶の湯の道具が並べられてあった。G夫人は茶の湯に対する知識をさらけ出した。「テンモク、さうです茶の湯の道具です。美しい色ですね。」「あらまあ、奥さんは何でも知っていらっしゃる。中々えらいものですねぇ」老夫人が陽気に御世辞を云ふ。家扶の老人が「八橋」と銘の書いてある桐の凾から貧乏くさい天目を取り出してG夫人に見せる。お抱えの美術家が説明する。「是は日本でも有数の天目です。時價にしたら一萬円位のものです。初代□□の作です。」G夫人が妙な調子で言った。「是はハチハシでしょう」人々は何事だか分らぬ。                  (全6P110)
・・・・・・
可笑(おか)しなもんでしてね。仝じ人のものでも千円のと百円のとありますな。それと云ふのもお茶の湯から來たものです。利休、太閤が持ったなどと云ふと、それが詰(つま)り價(ね)になるのですな。持った人によつてまた違ふのですよ。
義滿とか、利休とか、家康公とかつて云ふ具合に。(全6P118)
・・・・・・
食後客は去って、私はG氏夫婦の室で冷いお茶によばれた。(全6P122)

冷たいお茶は無論もてなしの茶とは云えない。紅茶でも緑茶でも香気のない茶が茶と云えるかどうか。筆者ごときは香気は味に優先すると多年信じてきたせいか酷暑と云えども茶は熱くなくてははじまらない。同じ事を荷風も言っていたが、これは理屈ではなく感覚上の問題。

―――味覚について
明治四十五年四月一日發行の「女子文壇」に「食味の感想」といふ題目のアンケートに次のような感想文を寄せている。
味覚の外的要素
御葉書拜見仕候。小生は味覺に對しては些(さ)の自負も自身も無之候へども、奇妙なる御課題が、突然予の頭にいろいろの聨想を惹起(ひきおこ)し候ゆゑ、それを順序なく書きつけ申すべく候。
味(あじはひ)は調和といふやうの事を永井氏なども申し居候やうに覺え候。舌端の味、香ひの感覺、齒の觸覺などを味感の内的要素とすれば、食事の時の、その所の氣分や雰圍氣、心頭に浮動する輕き聯想などは、その外的要素とも名稱すべく候。而して食物通ならぬ小生には後のものこそ尤(もっと)もめでたきものに有之候。
茶を飲み分ける遊戯などはもはや趣味の隋落に有之候はんも、いまもなほ酒倉の多き灘伊丹などに、きき酒する古風の老人もあらんかなどゝ思へば、その地方を漫遊せむとする欲望むらむらと念頭を掠め候。(全8P48)
・・・・・・
小生は日本料理は丸花や中鐡(なかてつ)を二なきものと心得る位ゆゑ、てんで話にならず、酒も飲まぬゆゑ、曾は西洋料理でなければ御免の方に候。西洋料理屋にて藝者の椅子に腰をかけて三味線を引き、お酌が體操のやうな歌ざはぶりを踊る「パンの曾」は、その昔の蘭人接待の古画を思ひ出され、すきものの一つに有之候。
                     (全8P50)
味覚について外的要素や、雰圍気をとり上げているのは如何にも杢太郎らしい言種ではないか。

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