第十九回 木下杢太郎 十六世紀キリシタンの觀た茶の湯2

株式会社かねも 相談役 角替茂二

――― 京の都踊りと茶の湯
二つ三つの妙な光景を見た。君は予が京都でピエエル、ロチイ的の見方をするのを喜ばぬかも知れないが、京都というものの伝統から全く自由な予はどうしてもかくの如き、漫画派的、羅漫的に見ないわけにはゆかぬ。たとえば都踊の中の茶の湯なんかは実に此の見方から愉快の場所だ。殊に異人が此滑稽のアクサンを強くしてくれる。
‥‥‥‥‥‥‥
僕等には到底我慢の出来ない七面倒くさい儀式で茶が立てられた。身なり、動作に對  應せぬ童顔の小さい女達が茶を配るとき第一の大きな茶埦が最端の年とつた偉人の前に置かれた。
それに對した側には色斑らな上位及びスカアトの西洋婦人の一群が好奇の目を睜って「チャノユ」の珍妙の手續きを見て居たが、今第一の茶が同邦人の前に配せられた時一斉に手を叩いた。老いたる異人は顔を赤らめて快活に笑った。

兎に角女異人(その 照として黒の 束の男達も可いが)と舞子の郡は、その共にでこでこした濃厚の裝束で西班牙のスロアガガの畫もかくやと思はれる美しい畫面を形造るのである。それに蠟燭及び電燈の光が一種の雰圍氣を供給して居る。
一人の慾張りなばあさんが近隣のニ三の人から圑子の模様のついた素焼の菓子皿を貰ひ集めた。するとその近くの西洋人の一群が、自分のも皆んなそのばあさんにやらなければならぬと思つたと見えて、その方へ運びためたので、少時にしてばあさんの卓の上には十數個の皿や食ひ掛けの饅頭が集って、堂内は忽ちどつと一齊に笑聲の海となった。意味を解しない異人達は自らも赤い顔になって笑ったのである。
若し夫れ是等の雜沓中で、いやに通を振り廻す氣のきかない一大阪人を巧みに描寫したならば、確かに、膝栗毛以上のニュアンスの藝術を作り出すことが出夾るだろう。この餘りに粹でも意氣でもなかった大阪人は、大都會の人といふ自慢と、恣なる言行とで、屢多くの人の反感と嘲笑とを招いて居った。たとえば、茶の湯の方式に通じて居るとも見えない彼は、この雜然たる群衆及び小さい茶を配る女達から「禮式」を要求しようと欲するが如くであった。そして大聲で罵った。膝栗毛は方言及び細やかな動作の觀察がある故、今に貴いと思ふ。「京都に於ける大阪人」は、蓋し作者の綪緻なる理解、微妙なる関係を補足する機巧及びSense pour nuance(Taineの標準)に向つての好試金石であると思ふ。僕等はあまり多い粗削りの藝術に倦きて居る。もつと仕上鉋のかかつたものが欲しいのである。予が所詮自然派の作品のうちで徳田秋聲氏を犬も好むのも此純藝術家的の見地からである。

都踊と云ふものはもとより一向下らないものであった。ああいふ數でこなす藝術は目と耳とを勞らせるだけで土産話の種より外には役立たぬ。板をたたくやうな三味線とチヤンチヤンなる鐘、それに「ハアツ」とか「ヨオイイ」などといふ器機的の下方の拍子の間に、間のびの「つうきいかあげの……傾く方は……」つて云ふやうな悠長な歌で體操するのであるから面白くないに極まつて居るのである。(四月三日夜半、汽車中)
(全7P267京阪見聞録)

――― 名古屋の茶の湯
名古屋に就いての感想として
「城の他には茶の湯と西川の踊と特殊の方言とをあげて……茶の湯と踊とは僕の少しも知らぬことであるから語ることができぬ。」
(全12P137名古屋に就いての感想)
などと云いながら、次のように書いている。
僕は残念ながら未だに名古屋を看ていない。僕の生活の範圍は、名古屋と雖も地國者の間に過ぎない。即ち東京なり、西洋なりで集めて來た學術技術を此地で應用するだけのに仲間うちのことである。他日名古屋の内部に立ち入り、そこの固有の傅統、文化に薫染する機會が有るだろうと期待している。かの封建時代のこれほどの大城下であつて見れば、探して求め得ぬ寳の無い苦はない。

かう云う事を考えているうちに新榮町といふ町に來た。その時には――無論名古屋の古風な傅習などと云ふ聯想からであろう――茶の湯の事を考えていた。この地は茶の湯が今尚ほ流行している。
西洋に居る間所詮「茶の儀式」といふことに就て時々質問を受けたが、實は僕は詳しいことは知らなかった。茶と禪と能とは戰國時代からの第一位の教養となったものだから、之を知らなくては濟まないであらう。然し僕が一ニ度富人から受けた茶の饗應から判斷して、かの松花堂、蕪村、大雅などに附随すると同じやうな和臭がこれに有るのではないかと、私かに疑つているのである。茫邈たる宋元の文學藝術とは一寸味が違ふやうな氣がする。簡素らしい外貌の後ろのは富の誇が匿されているのではないか。若し總計百圓二百圓の道具で茶の湯をしたとしたら、決してあの莊重らしい威壓的な氣分はかもされ得ないであらう。實物は交址の玩器でも可い。然し一度千金の價したものでなければならぬ。乃至は家や庭に、權柄が附いていなければならぬ。永祿の茶の湯も、慶長の茶の湯も、おマジ要素を持つていることゝ僕は信じずる。そこで日本の茶、支那の茶、日本の禪、支那の禪、印度の禪の比較といふ思想が頭の中に湧く。とてもとても大問題だという諦めで、さっきからずつと續いていた聯想がここでぽきりと折られたのである。
(全12P153)

杢太郎の價値感はインターナショナルであったから、所謂る和臭に抵抗感があり、そして茶事が簡素らしい外觀の後ろに富の誇が匿されていると感じてしまう。致方のない話であろうか。又とてもとても大問題として諦めたとは言っているが杢太郎が「日本の茶と支那茶の比較に筆をのばせてくれれば好個の讀物になったに違いない。」
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――― 北京の喫茶   
今日は朝十時頃旅館を出で哈嗹門の仏蘭西人の 心舗で麺麭だの西洋菓子だのを買って、鼓楼や雍和宮や孔子廟などの見物に出掛けました。雍和宮はわたしは三度目でした。少し変な中食法ですが、國子鑑附近の或る茶店で茶を喫し、今日の臨時の行厨を開きました。本來こんな茶館は余り上等のものではありません。北京にも随分大きなのがありますが、皆労働者級の者が集まって居るのです。

わたくしは然し北京の茶館を愛します。日本でも近來カフェなどが出來ました。それは東京近來の植民地的生活に適應するまでですが、支那では之は伝統的に、能生活に根を張って居ます。支那の小話には、よく、茶間での事件が出ています。
今日入った茶館は小さい家で、主人自身が煉瓦を叩き割って、店の一部の模様がへをしています。
我我が入ると愛想よく迎へて、然し不思議さうに視察します。「我們要渇茶、 茶來(お茶が飲みたい、お茶を入れて來て下さい)」この位の「官話篇」の仕込の北京語ならすらすら出ます。

家の人が「茶葉は持って居ますか」と尋ねます。此質問はわたくしにはちょっと豫想外でしたが、直ぐ嘗つて同じ質問を受けたことのあるのに想倒し、「いや我我は持って來ない。一番好い茶を入れて來て下さい。」と答へました。
數個の茶埦が運ばれました。そして一個の紙包が渡されました。ボオル紙色の料紙を開くと、その中に尚一枚の黄色紙があり、その裡に茶葉が包まれてありました。
家の人がその葉を土瓶に入れます。(舊式に吾郎八茶埦に茶葉を入れる店もありますが、此では支那風の土瓶を用いました。)黄ろい紙には木板で綠色に龍芽仙品」と印刷されて居ました。
支那人は實に善く物品と貨幣とを大事にします。彼等のかう云ふ實質的な生活を見ては、吝薔だなと罵ることを難んずるやうになります。支那ではかう云ふ處でも、昔の日本の鰻食ひの通人がやったやうに、自分でお茶の葉を持って來て、湯だけで貰つて茶を立てる人があるのです。そして茶舗で一回入れるだけの茶葉を買ふことが少しも恥ずかしいことはないのです。
彼等はかう云ふ處で長い間話をしたり、時とすると鳥の鳴き合わせなどをします。幾許長く居たとて、主人はいやな顔をしません。
我我はそこで茶を喫して麺麭と西洋菓子とを食べました。木村君は北京に於ける支那人の質實な生活に就いて大に感嘆しています。そして滿州の植民地に於ける日本人の浮華な生活を罵りました。久しく滿州に棲んだわたくしもそれに同意を表さないわけには行きませんでした。
そして勘定しました。ニ箇枚(銅銭二枚)だと云ふのです。餘り氣の毒のやうに感じて五銭置きました。
(全11P259)

――― ついでにロンドンの喫茶店
今わたくしは大使館を訪ねた歸りに、ボンドストリイトの華潔な街衢を漫歩し、そして或る小ざっぱりとした喫茶店に憩ひました。そこは或建物の二階で、品よき老女が給仕して居ました。壁には支那でも見なかつたような、黑色の壁紙を張り、その表に仄かに丹綠の樓閣、池塘、楊柳及び人物が見られます。江南風物を鍾めた漆繪の趣味です。亞米利加ではボストン及び紐育に於て、やや閑靜な喫茶店の一二を見出すことが出來ましたが、其處は典雅の趣味を闕いていました。特殊の専門家を除いては、亞米利加では支那趣味を解する人などは全くありません。否一體に美術と云ふものも、亞米利加では否一體に美術と云ふものも、餘程特別のものです。
…………
倫敦でぼんやりと街街を見て歩き、にほひよき兩切煙草を吸ひ、銀座の加六めく居酒屋で上等のヰスキイの杯を嘗めていると「ぼんやり暮らす」といふことが此上もなく好い氣持になります。亞米利加できれいさつぱりと捨てて來た筈の江戸趣味や支那趣味が再び蘇生して來ます。(全11)

――― 茶道に就いて
茶道の如き、頃者一茶入に五万円の値がある位であるから其流行は之を知ることが出來る。果してどの位の深さに於て味はれているか、是れは門外漢たる我々には分らぬ所である。唯私は時事新報の高橋箒庵の茶道記の愛讀者である。是を以て憶測を逞しうすれば、近頃の茶會の如き珍奇骨董品購求の經驗談を語り合ふ無害の鬱散であるかに見える。
其他劍動禪動の如き、恐らく之と一般であらう。
甚だ考察の基礎が薄弱であるが、まづ是等のことから推論を下して見ると、現代の東洋趣味復興といふものの如きも、一は和洋混淆の不純藝術に對する様式上の反動であって、二には和洋現代の歐風器機文明の齎らした煩はしさから、舊袍戀々故人の意あるところのトラヂシヨナルの舊趣味の裡の安住の欲求である。孰にしても未だ深く背後の綪神に觸れて居る。而して後轉して東洋趣味に走ったとすれば、そこに習慣惰性に由って之に就く老成人趣を異にした所がなくてはならぬ。
而して又別に、彼等が東洋趣味に就いたことが、多少、國民的文化の自覺と云ふ根本問題に牴觸して然るのであること云ふことを考ふべき理由がある。
(全9P182新東洋趣味)

箒庵の茶会記を愛讀者であったといふ杢太郎が近頃の茶会を珍器骨董品購求の経驗談を語り合ふ、無害の鬱散と断じたのは、その道の人々から顰蹙を買つたにちがいないが、價値感の相違は理屈以前の問題、如何ともしがたい。
更に多少なりとも西欧文化の綪神に觸れた往時の靑年層が東洋趣味に走ったことを問題として取り上げている。それは国民的文化の自覚といふ根本的な課題として考察の対象とすべきものと述べられている。注目に値する言葉と思う。尚箒庵には「おらが茶の湯」と題する一文がある。(東洋文庫、日本の茶書2)林屋辰三郎氏の解説によれば
「……いわば箒庵は近代の代表的茶人であると同時に、最も大量に茶書を著した人物でもあった。
「おらが茶の湯」は、箒庵の晩年(昭和十二年没)に書かれたものである。その茶の湯觀をみるに恰好のもので、『茶道月報』昭和七年正月号に掲載された。箒庵がこの書において「茶の湯は趣味なり」と喝破したことは、長く茶の湯を綪神修養の具としてみなしてきた常識を一新する自由な見方であった。茶の湯がやかましい理屈から離れれば、そのおもむくところは、より耽美的な茶の世界であろう。箒庵ら財閥の茶が、名器、美食、趣向を楽しみとし、厖大な美術品蒐集に血道をあげたその遺産は、今日多くの私立美術館として残されている。」
とある。杢太郎をして無害の鬱散と云わしめた数々の名器を今の人々は私立の美術館で拜見することになった。数奇者茶道史の自然の流れと云うべきものであろうか。だが、例えばガラス戸越しに見るだけの茶埦にいかなる感慨を持ち得るのか。茶埦の運命は正に皮肉にみちみちているではないか。
又「おらが茶の湯」は当然の成行ではあるが、茶道経国を説く髙谷宗範から強烈な論爭を挑まれる事になった。それでもさすがは箒庵である。「茶事は趣味なり」として自説を譲る事は全くなかった。数奇者箒庵の面目躍如の感がある。然し現代における茶の湯愛好者と云えども次の文章を素直に受け止めることは出來ないであろうと思う。

近年茶の湯が流行するに就き、おらの友人中には、毎度おらに向かって「茶の湯も一度は遣って見たいが、高價の道具を買わなくてはならぬので、到底之を行う事が出來ぬ。何とか少し安い道具で茶の湯をする工夫はあるまいか」と云う者がある。処でおらは之に答えて「夫れは誠に結構である。茶の湯の道具は高価に限らぬ。使い方に依って鉛を金にする事も出來る。夫れが茶の湯の妙味である。」併し其ような事は、利休のような大茶人にして始めて之を行なう事が出來るので、不得道者が勧工場から茶道具を買って來て夫れで果たして面白い茶の湯が出來ると思ったらば、夫れ程間違った事はあるまい。本來茶の湯を倹約とのみ考えて居るのは大間違いである。利休の歌に、「釜一つあれば茶の湯はなるものを」と云うのがあるようだが、併し其の利休は、三千石を食んだばかりでなく、其の他の収入も多い大身代であった。其の証拠には、彼は彼の時代に於て巳に名物であった茶器を多数に所持して居たではないか。太閤様を相手にしてお茶をするのに、勧工場の道具で事が足りようと思うか。唯だ茶は、その身分に応じて、富者は富者、貧者は貧者、夫れぞれ其の境涯に応じて自分の茶味を発揮するのが肝腎なのである。「名器を使うのは茶人の不徳」と云うが如き見解は、おらの甚だ感服せざる所である。
(日本の茶書2P436東洋文庫おらが茶の湯)

箒庵の日本茶道史における位置、役割は、彼の「昭和茶道史一、ニ」の編者熊倉功夫氏によって明確に描き出されている。この熊倉氏の「近代茶道史の研究」は著者の如き茶道の門外漢にとっては教えられる事が多い書物であった。特に抹茶煎茶の史的發展の解釈などは一般茶業関係者にとっても大いに参考になるのではないか。又文中瀬石と西川一草亭との芸術門答の指摘の如き、示唆にとんだ恰好の讀物と云えるではないか。
尚 氏の著作には平明簡易な「昔の茶の湯、今の茶の湯」もあれば、利休研究の専門書「南方録を讀む」等もある。

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