第二十回 木下杢太郎 十六世紀キリシタンの觀た茶の湯3

株式会社かねも 相談役 角替茂二

――― 十六世紀の外人の觀た茶
関白秀吉がキリシタンに茶を勧めたこと
ルイス・フロイスの「大阪城の秀吉」 杢太郎訳 
關白殿の前には十三ばかりの美服したる一少女前み、殿の長衣及び刀を持したり。この城に於ては、男子は召しつかはるゝことなく、専ら女子にこれに當り、その數三百ばかり、皆貴人の女なり。其他なほ多數の待女あり。三四階を登りたる後、殿は我らを顧み、皆々疲勞せられたるなるべし、少し茶を飲みたまへと言ひたまひき。茶は最も優雅なる壺より注がれ、最上の品なり。城の最上廥に登り、暫くそこに止り、殿と共に風景を俯瞰したり。城の下には六萬の人々勞作してあり。彼等は今殿のかくうちとけて喜ばしげなる様を看て、いたくも驚きてありき。(さて城摟を降りてのち、殿は座に就かれ、我らはそのまはりに坐したり。その時殿の言はれけるは、南方の諸國をば之を配つことに決したり。その國主よりは幾分づゝ割くべし。若し敢て従はざる者あらば、大軍を提げて之を破らむのみと。かく言ひまたいろいろのことを語りたまふ間、殿の顔容には喜悦と眞情との影浮び、我等を疑ふが如き、けはひは少しも見えざりき。)(この時、嘗て都に於て、ぱあでれ・ルイジ・フロエス及び日本人伊留滿ロンレツオの、信長の面前に於て、日乘上人と稱する佛儈と討論し、佛儈の己れ負けたりと見るや、大に憤怒し、信長の刀を取って伊留滿ロンレツオを殺せむとせしことを想起し、言ひたまふやう、かの時は、我も恰もその座に在りて、御身の説を尤もと思ひたり。かく言ひ、立ち上がりて、既に甚だ年老いたる伊留滿ロンレツオに近づき、その手を彼が頭に置きて言ひたまへり。わが今語りしことはこの者こそよく知りつれ。何故にさは默してあるぞと。又日ひたまひけるは、かくの如き事の若しわが代に行はれむか、その不敬は死を以て償はるべしと。)後われ等をば納戸のうちに坐せしめ、神父たちに會ひに來れる二人の女を去らしめ、更に主なるきりしたん貴女の名をさし、その座に來らしめたり。即ち嚮に述べたるマダレナ及びドンナ・ジヨワンナなり。後者は内裏の親戚なるZonqueの妻なり。再び飮料勸められき。即ち二人の奉敎人たる貴女は茶埦を齎らし來り、殿は手づから之を取って、第一に副官區長神父、そのあとにて他の神父たち及び、伊留滿たちに勸められたり。殿の此時爲されたる款侍の樣は未曾有の事なりしとぞ。殿に見参する諸侯に對しても、この三分一の厚遇も與へられざるが常なり。
(全21P157)

フロイスの文章は、一五八六~九六頃のものである。杢太郎訳はこの他に“伴天連書翰に現はれたる「關白秀次の行状と死と」”や「日本年報一五九○」「日本書簡一五九一~九二」などがある。
岡田章雄氏に「外国人の見た茶の湯」(淡交社)の好著があるが、フロイスの訳注本としては「ヨーロッパ文化と日本文化」(岩文P92)がある。日本人の食事と喫茶その他文化一般にいて西欧人との対比の形で述べられ、平易で解りやすい。こゝでは茶についての文章を転記させて頂く。

○われわれの間では従僕が食卓を片付ける。日本では食事をした貴人が、自分で自分の食卓を片付けることが多い。
註、茶席の作法について記しているのであろう。一例を挙げれば『茶道早合点』に「一、喰ヒ仕廻テ、椀皿の類きれいにして膳の内へ組入レ置ク事、正客の通りにしてよし。……一、亭主膳を取に出、正客渡ス時中座より、我膳を勝手口の方へ出し置クべし。」

○われわれの間では日常飲む水は冷たく澄んだものでなくてはならない。日本人の心は熱く、そして茶の粉を入れて竹の刷毛で攪拌することが必要とされる。
註、竹の刷毛というのは茶筅のことで、抹茶を飲む風習について述べたものである。
○われわれの間では招待をうけたものが招待したものに礼を述べる。日本では招待したものが招待されたものに礼を述べる。
註、対照のための誇張もあるが、茶席の作法について述べたものと思われる。
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――― 茶室
又家屋、建築、庭園、および果実についての項目に茶室に関して次のように述べられている。いづれも誇張はあるが觀察は鋭い。

●われわれの部屋は立派に加工され、磨き上げられた木材でつくられている。彼等の茶の湯chanoyuの部屋は、自然を模して、森からもつてきたような木材で作られている。
註、ロドリーゲスの「日本協会史」(第三十三章)には、茶室のことを記して、「藁や茅で葺き、森から採つてきたままのような加工を施さない材木で作った小さな小屋」と云っている。

●われわれの部屋には一般に光を多く採る窓がある。茶の湯chanoyuの座敷Zaxigis
には窓が無く、暗い。

●われわれは宝石や金、銀の片を宝とする。日本人は古い釜や、古いヒビ割れした陶器、土製の器等を宝物とする。
註、茶の湯の道具類(茶釜、茶、壺、茶埦など)が貴重だとされてきわめて高價であったことは奇異の感を與えたようで、当時の宣教師の報告にはたびたびその事が書かれている。

●われわれの(部屋)は綴織の壁布、ゴドメシス、フランドルの布で飾られる。日本のは
鍍金または黒い墨で描かれた紙の屏風Beobusで飾られている。
註、ゴドメシスは、ゴドメシン山羊の皮をなめしたもの、フランドルの布とはオランダ製のコブラン織のことであろう。いづれも壁に飾ったのであろう。日本の金屏風、および墨絵の屏風をこれと対比させている。           (第十一章P148)

●われわれは何か貴重な品に手を觸れるために手を洗ふ、日本人は茶の湯chanoyuの道具dongusを見るために洗ふ。
(第十四章P184)

――― グルワチエリの觀た茶の湯
イタリーグルワチエリ著木下杢太郎訳に「日本遣欧使者」がある。原作は一五八五年で其時代の日本の習慣などを記している。こゝでは日本の茶の湯について述べてある箇所を書き寫してみる。
食事の終には、夏冬に拘らず必ず一碗の熱き湯を飲む。極めて意を注ぎて唯少しずつ飲み下す。
烹炊の法、調味の法はまた歐羅巴に於けると大に異なり、之を譬ふること難しとする。また人の甚だ重じて、日本の財寳の主となす者も亦極めて奇で、之を語らば我國の人は必ず嘲笑しやう。かの國に於ては に説くが如く湯を飮む習有るが、之には茶と稱する藥艸の粉末を混じる。これぞ甚だ珍重せらるる飲料で、貴人の家に在つては特にその爲めに造った別室を有せざるはない。而して人皆之を加減好く煮る稽古をする。客を招いて鄭重なもてなしを爲さうといふ時には、己が手に之を煮るのである。而して水がかく高價なばかりではなく、その爲めに選ばれる道具類、粉にしたる茶の葉を貯ふる壺、湯を沸す鐵の鍋、その五徳、茶を飮む爲めの陶碗の如きも亦頗る高價である。それ等の道具は新しければ値がない。我等に於けると反對である。其價値は全く古への名工によつて作られたといふに存する。之を鑑定する眼識、嗜好、堪能のほどは、恰も我等に在つて、金工を商ふものの、能く寶玉の善悪を判定するに堪へると同じである。されば道具の古いものは、想像しがたき高價である。一具にして四千、六千ヅカチの價を有するものがある。かくして豊後の國王は、一つの小さき陶壺の爲めに四萬ヅカチを吝まず、また堺の市の富める一奉教人は、幸にも二三箇處に修理の迹ある五徳一つの爲めに千四百ヅカチを拂つた。また一鳥一木を墨で書いた紙片でも、若しそれが古への大匠の手になつたとなると、人皆大金を吝まずして之を求める。時としては一片の書幀を購はむが爲めに、三人の人々醵金して六千スクヂを拂ふが如きこともあった。
杢太郎の茶道觀はポルトガル人やイタリー人の見た往時の茶の湯觀にかなり影響を受けたかもなどと思う。

――― 日記(五巻)の中の茶
明治三十八年四月二十八日 石上君来り新茶を貰ふ
昭和十年 十一月廿六日 火 晴

Le 2 Dec. 1935  Vision
茶壷が光ってゐる。
奇なる蝶が飛來した。
石屋の庭にもちの枝が光つた。
まひるに石をうつ響がものうく響いた。
養女があとから生まれた小さい娘を打つた。
そして親達が怒つた。
養はれた女が年頃になってその親にあだを返した。
それも既にこの世の無臺から去つた後である。
そして理學士は色斑な蛾を眺めた。
かういふヰジオンの湧いたのは物の幾分であつたかははっきり分らぬ。
主人は竹のさゝらで茶をかきまはしてゐる。
そして理學士は結核といふ病のことを思った。
暗い夜道の遠屋

尚昭和十一年一月十六日
今年になって初めて、今夜ひとりごとのような日記をつくった。否この日記を思いついたのは他の目的があったからである。それは三つの詩の企図が心に浮んだからである。三つの内の(二)として、
友人が茶を立て、振舞ってゐる最中座敷へ蛾が入ってきた。客の一人の動物学者はその新しい種らしいのに気をとられて、お茶をだめにした話。茶壷に夕日が光る。
―――
昭和十二年八月四日、昨夜よき茶のみ、そのたたりてよく眠れず今日一日ねむたかりき、回診

昭和十二年九月廿六日 晴
再び夏の如くあつし。午前十時寧子(ナミツレル)と植物園にゆき、三十四枚スケッチ。それからひとりにて上野に二科會を見、
丸善で Louis Reymond;Le Romantisme(28f.=4:75) を求む。一時半に家に帰り昼食。三時半東片町の緒方規雄を尋ねる。
岡田淸三四郎氏夫人來。それから曙町の荒井さん(荒井事務局長の姉)といふ女の師匠(四十四五歳。 流茶道にゆく)先客、―――及び河合氏(浅草の若旦那)あり、あとから荒井氏夫人來。
客附。「松風の音だに秋はさびしきに衣うつなりたまがはの里」(源俊賴朝臣、千載集)
あいさつに來る。庭にかゞみ、障子をあけ、すぐしかめへる。―――氏先導。手洗(叡山ごけ)、三畳半。板、床、夕がほ。
會席。
飯、シル(ミソ。百合の根)スノモノ シホヤキ ナスとユバ 栗フクマセと・・・(ノ一鹽也)
一度寄附ノヘヤにカヘル
―――
再び茶室に入る。
釣生(いもの子。)

昭和十三年
二月廿日 快晴喧暖
十一時緒方規雄君を訪ねそれより岡田夫人同車にて浅草雷門壹丁目三番地河合忠兵衛氏宅茶會に参ず。他に鈴木老刀目、  氏。紫地 園畫狸賛定藩(?)皮肉骨髄、付了這般瞠是眼睛萬〃入于  雨除山色  色
牡丹。盆信三幅、
備前水差
正客。詰、
よい景色でございます。
備前、
一入、樂、薄茶々碗 馬上

四月六日
十時中川夫婦、緒方夫婦、岡田夫人と裏千家を訪ねる。茶道より商蕒主義の印象を與ふ。神社の内のやうにてむしろがさつにて閑寂の感なし。わかきけいこの娘茶を立てる。湯滅法熱くして、まま事あり、
〔欄外〕咄〃齋、玄〃齋
茶室、建築としては面白し。隣室にて老女菓子のことにて聲高にいふ
今日菴、懈怠比久不知明日、故に今日菴と名づく、二疊也、
又隠菴
以上のように昭和の初期には茶の湯にも多少の関心があった。だが外國文化、異國情趣に慣れ親しんだ杢太郎の事である。いかに多芸多才であっても茶の湯や緑茶に迠緻密な考察が及ばなかったのだと思いたいのだが。

百花譜について
杢太郎の「百花譜」は八七二葉の植物寫眞図譜であるが、その内「茶」は、昭和十八年十一月二日伊東市で一葉を寫生し、他は昭和十九年八月七日(雨)同じく伊東市で描いたものである。
学者の余技といふ程度のものではなく、才人杢太郎でしか描けなかった画業と云ふべきもの

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