第二十三回 石川淳(夷齊)―― 草人木の「ワビ」

株式会社かねも 相談役 角替茂二

お茶と文学者

第二十三回
石川淳(夷齊)―― 草人木の「ワビ」

――― 渡辺崋山
石川淳に「渡辺崋山」のエッセイがある。戦時中の作品で作者の意に副ったものでないらしく、後年次の如く述懐している。
・・・・・・・・当時すでにシナのいくさは泥沼に落ち、やがて太平洋に事あらとするまぎはにあたつて、國内では学問芸術をぶつつぶすためのたくらみが図に乗ってゐたころである。何を書かうにも、おもしろいはずがない。そして、わたしは崋山のひととなりに完全に感服しきってゐたわけではない。このひとさすがに土林第一等をもつて稱されただけあつて、行藏に間然するところはないが、じつはそのことがわたしはすこし気に入らなかった。どうも窮屈なひとのやうである。今でもさう思ふ。
と記している。

だが、石川淳は崋山を土林第一等の人物として、その立志、画業、儒斈、蘭学、政経の政策等、かなり詳細に調査し、武士は武士らしく四十九才の若さで自決する迄、その生涯を顧みる的確な筆致で追跡し多くの読者に感銘を与えた事は紛れもない事実である。大正アナーキズムに深い関心があったと云われるこの作家の視点は主として政治家崋山の貧困対策にあったように思われる。彼が書いた天保四年より同八年、大塩平八郎の乱に至る迄の飢饉について「この時、天下大いに餓えた。中にひとり餓える事を免れたものは、海道一の小藩、田原の三宅領であった。そしてそれを可能にしたのは崋山の尚歯会の力であり、崋山の友であつた農業経済の碩斈佐藤信淵の協力でもあった」としている。

前書が長くなったが、崋山は高野長英とちがって、その師松崎慊堂の上書によって、ようやく減刑、蟄居の身となっていた身の上、淳はこのことを次の如くのべている。
慊堂先生、松崎氏、諱復、字明復、通稱退蔵、慊堂はその號、また松下人其他の號がある。掛川藩の文學。もとより校勘の學に精しく、小學の校注もつとも世にきこえた。狩谷棭齋とならんで、近世シナ學の源流をひらき、餘澤なほ後代におよぶ。けだし江戸儒林第一等の人物である。天保己亥、先生六十九歳、病軀を塵網のうちにおこして、壮心凛冽、よく義を見、理を正し、精を暢べ、人を救つた。上書前文三千餘字、まさに貞珉に刻して傅へるにたるべく、古今アポロジイの文學中にあって未聞の盛儀である。

――― 田原幽居について
道中
・・・・・・・・・・・・・・・身近に迫る遮斷はきびしかった。げんに在所田原へ下るにさへ、崋山は道中氣息奄奄、檻の中にあへぐ身の上である。慊堂宛第二信の一節に記されるごとく、「正月十三日廢程候處、警固之者嚴敷錠付肩輿にて、兩便も其内にて相便し、候程の事故、疲勞益〃甚敷、箱根峠に至り候時は、風雪凛烈にて、忽腹痛雪鳴致し、下痢甚だしく、掛川止宿之日は、冷汗絶倒仕候。」ところで、この苦患の最中に、途上眼にふれた風景はちゃんと寫生帖に納められてゐる。病状も達筆に書き添えてある。かういふはたらきは、なにものも禁止できなかつたと見える。

幽居
清潔といふほかに取柄はないが、敷地は千五百坪ほどあつて、逍遙に適する。かたがた芋、茄子の類を栽ゑるによろしい。幽居通信の一節に、「申せば鳴寝入と申様にて、先昨今は畑イジリなどにてまぎれ居申候」とある。しかし鬱を外に散ずる道は開かれない。海まで出るには「途中十二里も有レ之處、番茶一盃可レ口所も無き田畑山道故、一度てこりく」である。町へ出るにも、表むきにひとを訪ふことはできない。唯寺参りのみ、これ以て町の裏を通參候時」にとどまる。家の周園は「隣と申せど半町一町もはなれ、垣傅ひに候隣唯一軒有レ之候のみ、親類は近き所にて半町一町もはなれ、坦傅ひに候隣唯一軒有レ之候のみ、親類共は近き所にて半町、遠きは四五町若くは十丁或は五里或は二里位、不都合千萬、御存の醫人とても六七町はなれ、老母の前へ申譯無レ之」である。さうはいつても、ここのしばらくの平和を領した。
さらに読む ↓

悪しき喜撰ぐらいの茶
さしあたり、幽居の日常は平穩である。「朝夕母を奉養致、子供をソダテ候て、一家和睦を相樂」しむ状を呈する。それに、活計のことでいへば、このへんは蔬菜類はただ同然で、「其上魚類安きこと膽を消し、又其味の美なること忘れがたく候」で、「米は最上で、茶も自家で摘めば「随分あしき喜撰位には出來申候」で、「酒は至つて宜しく一升百文より二百五十文位迄、一升百文の酒まことに美也」である。もつとも、無い品物は全然無く、高い品物はひどく高いが、要するに、「困窮は極困窮にて、今日半紙を買候事出來不レ不申位なれども、飢るの何のと申江戸如き大窮も無レ之、差迫リシ小さき事にこまり、飢寒のかたは忍能御座候」である。

果たして、どのような栽培でどのような製法であったか、現在の田畑茶の景況如何。尚熊倉功夫氏は崋山の茶について渡辺崋山も煎茶を好んだとして、其「会約」を示している。
一、茶は煎茶二番が之也、抹茶は面倒に候、菓子はいらぬもの、疊にこなのこぼれぬもの、茶碗は其度々水にて洗ふべし、茶にて洗ふはむさく候。
一、茶を煎じ候者、清らかなるわらは女、都合悪しく候はゞ、連中輪番
(近代茶道史P140)

―― 南画に煎茶
すぐれた南畫はかならずや有綠のひとを畫中の世界に招待する。しかるに、西洋人はどうも南畫はわかりにくいといふ。これは様式を解しえないのではなくて、おそらく前途のやうな風氣をさとりかねるのだらう。南畫といふことばを文人畫といふことばに置きかへても、その文人畫といふ概念に相當するものが西洋には無いやうである。西洋の畫家は、寫生旅行のために千里の道を乘物で行くかもしれないが、それが旅といふ生活ではあるまい。その千里の道と萬巻の書とが世界觀上に於て緊密にむすびつくといふ事情に至つては、すらすらと腑におちないにしても、無理はない。そのくせ、一方に於て西洋人は茶なんぞをよろこぶ傾向を示している。茶には茶室といふ建築があり、庭といふ造營があり、また茶室には装飾美術としての工藝品もあり、茶埦その他の細かい物質がそろってゐて、すくなくとも好奇心を満足させるために、一つ一つ手でたしかめることができるのだから、エトランジェはその間に身を置いて、むかしの燒物につがれた奇妙な植物性飲料をながめながら、これを呑みこむにしても、吐き出すにしても、一應のおもむきはまあわかつたといふことになるだらう。南畫は茶には關係しない。茶室の床の間では、禪坊主の書いた文字は珍重するが、南畫の幅は疎遠にされる。しかし、煎茶のはうならば、南畫といささか綠がありさうに見える。もしエトランジェをして南畫のおもむきをほんのりさとらせるために、これを煎茶の席に招待するとしたらばどうか。
(岩選14P250南画大体)

―― 小林如泥
夷齋は昭和三十年より諸国畸人伝を執筆、畸人十名を挙げ、そのトップバッターに不昩公の松江の小林如泥を選んでいる。
寛政九年(一七九七)二月、出雲國松江大工町に住む指物大工小林安左衛門は藩主松平氏七代治郷から剃髪を命ぜられ、如泥の號をさづけられた。ときに如泥四十五歳、治郷四十七歳。治郷はすなはち不昩である。
如泥がもつぱらつとめた業は指物であつた。もともと彫師ではないが、ときには木彫もこころみた。指物といつても尋常の道具のたぐひではない。おほむね治郷の意を體してつくつてゐるので、謂ふところの不昩ごのみである。逆に、如泥の作風が治郷のこのみに傾向をあたへたといふこともありうるだらう。この關係はもちつもたれつもやうである。
松江市のひとは日常よく茶をたしなむ。これは今日のことである。どこの家をたづねても、座敷にあがると、とたんに薄茶が出る。他の土地の煎茶番茶のたぐひと同様で、だまつているとつい代りが出る。毎日十杯あまりのむひともめづらしくないだらう。これをのむにはかならずしも禮法に係らず、あぐらでがぶがぶといふ略式もやかましくはとがめられない。そして、およそ茶のあるところまた庭あり、いかに狭くとも狭いなりに、石をあしらひ水をあしらひ、きちんと庭ができてゐる。たとへば市場の商店といふざつな表がまへでも、一あし奥にはひると、たちまち右のおもむきを呈する。今だに不昧の流にしたがつて、横町の溝にもさざなみは絶えないらしい。可憐である。この茶と庭との仕掛に於て、ひとは不昧文化の今日的内容を諒解させられるだらう。つまり、げんなりするほど薄茶をのまされるといふことになる。この薄茶の席で風雅なはなしのたねはといえば、焼物の權兵衛、塗物の将軍木菴、わけても道具は如泥にかぎる。

夷齋は今でも松江の人々が不昧公文化の流れの中で、如泥(ジョデイ)の人柄を愛し、折にふれて茶を嗜む姿を稍ユーモラスなトーンで描いている。要約すれば次の如きか。

一、不昧公から手厚い眷顧を受けた如泥は、そのさまざまなむつかしい注文をいつも機
を以て対応し公の意に十二分に沿った事。
一、如泥が酒を好み、金銭に淡泊であつた事。
一、如泥の人柄が依怙地で奇行が多かつたにも拘わらず、今でも市民が伝統的人物として
愛借している事
一、夷齋は今でも如泥作といわれる香合、欄間、煙草盆、書見台、炬火やぐら、刀掛、梯
子、蛙股など仔袖に検分した結果、如泥の仕事の眉目は糸すかしにあるとするものの
自ら好みは局物類だとしている事。
茶に関する話も少しある。
一、酒器をつくつたが、それがうすでで茶器に似ていたこと。
一、青竹の茶杓といふはなしがある。治郷は年頭の茶會に生竹の茶杓をつかふことを常と
した。茶杓は先を火にあぶつて曲げるものなので、その部分だけ青の色がそこなわれ
る。治郷は一枝みな青であるやうなものを欲した。ある年、如泥が差し出した茶杓は
かねて治郷の欲してゐたものにぴつたり符号した。如泥は竹やぶのおほい道筋を丹念
に見て歩いて、竹の曲りぶりのおのづからこれに適したものをえらみとって來たのだ
といふ。(中略)如泥の目が決して材料の質を見のがさなかつたといふことには符号
してゐる。
一、夷齋は観光客なみに菅田菴に行っている。地名にスガタ、菴はカンデンアン。茶人不
昧にゆかりの深い菴、ここの向月亭にのぼって雪月花茶箱を見た。如泥の作品と云われているが、格別の批評はなく、疲れたので朝からかぞえて何杯目かの薄茶をのんだと記している。
一、最後に夷齋は如泥が見たであろう穴道湖の荘巖な落日の景観を述べ、茶の街松江の美しさのポイントを巧に描写して余すところがない。

PAGE TOP