第二十四回 大岡昇平 ―― 武蔵野の茶畑

株式会社かねも 相談役 角替茂二

――― 「幼年」「少年」
大岡昇平は記憶力抜群の上調べ魔。(岩全16P176)幼年、少年の頃の追憶も極めて詳細に亘っている。こゝでは狭山茶に関する記憶のみあげてみる。多少重複の嫌いはあるが頁順に並べる。今の若い方々は道玄坂が挟山茶の栽培地であったなどと想像できるだろうか。
・・・・・・・・・・私の家のある路地の入口の向って左角は、「葉茶屋」(幕末から明治初年へかけて道玄坂は狭山茶の栽培地で、東海道線の開通によって、宇治茶、静岡茶が大量に流入するまで、東京の並茶の供給を引き受けていった。この「葉茶屋」はその名残である。)
(岩全11幼年P64)

・・・・・・・・・・今日の松濤町一帯は、もと紀州藩の下屋敷だったが、明治五年、鍋嶋藩が払い下げを受けて、大々的に挟山茶を栽培した。その時富ヶ谷の三田用水(下北沢で多摩川上水より取水、東北沢、駒場、代官山を経て、目黒、二本榎に到る。目黒川、渋谷川の灌漑用水であるが、やがてエビスビール、目黒の海軍火薬廠に給水したので水は豊富であった)から水を引いて、茶を育てた。「松濤園」はその茶園の名で、後東海道線開通によって、静岡茶、宇治茶が大量に東京に供給されるまでは、東京の銘茶の一つであった。
(岩全11幼年P164)

・・・・・・・・・・その左手の鍋島公園には、その頃から鍋島候爵が池をめぐって周遊道路をつけ、岸の斜面に芝を植えて公園の体裁が整っていた。池は遊水池で元来この野川の水源であるが、滝となって落ちていたのはその湧水ではない。滝がなくなってからも、水車跡と公園の間を上る坂に沿った溝を水があわただしくすべり落ちていた。
この溝は坂を上ってからも、ずっと道に沿っていて、水が豊かに流れていることがある。道の右側に鍋島候爵邸の長い生垣が続いている。この辺一帯はもと紀州藩の下屋敷だったが、明治五年鍋島家が新政府からただ同然で払下げを受けて、広大な敷地に挟山茶を育てたことが、『新修渋谷区史』によって知られる。「松濤園」がその茶の商品名で、東海道線開通によって、宇治茶、静岡茶が流通するまでは、東京の銘茶の一つだったという。
鍋島候爵家は、代々園芸趣味を持っていて、邸内に施設の園芸研究所を設けて品種改良を研究した。もとの茶畑はその頃は麦畑になっていたが、後に東京の富裕階級や縁故の者に分譲したのが松濤分譲地である。鍋島邸自体は大地中央に広い敷地を高いヒノキの生垣で囲んであった。(ほぼ現在の松濤中学の位置である)
(岩全11少年P204)

三田の用水と渋谷の水脈との関係については、これまで度々書いた。多摩川上流の羽鳥で取水して新宿の浄水場に至る玉川上水の枝上水で(むろん今日では両方とも廃止されている)下北沢で分流し、ほぼ渋谷の両方丘陵の稜線を走り続けて、三田二本榎に到っている。もとは両側の渋谷川、目黒川の流域に落して、米搗水車を廻し、田圃を灌漑したが、それらの水車が廃止になってからも、恵比寿のエビスビール、目黒の海軍火薬廠に給水するので、水量は常に豊かであった。

鍋島茶園の開発は、この用水の水をとることによって可能であった。その後身たる鍋島農園も鍋島公園の池も水車も、そこから大向小学校裏に到る大向田圃(これはむろん鍋島家の所有である)も、この用水の水で賄われていた。わが家の前を通る溝は、七一六番地一帯の傾斜地が、鍋島家の経営する茶畑であった頃の取水路でなかったか。茶畑はなくなったが溝は残った。
(岩全11少年P396)

付近で一番印象的な地域は、鍋嶋公園である。・・・・・・・・・
ここが紀州藩の下屋敷だった頃から、このように造園されていたかどうか。『渋谷の歴史の百人百話』によると、この池の端には、明治十四年まで一団の農民が住み付いていて、焙烙長屋と呼ばれていたという。「自分で作り自分で摘んだ茶も味えず、この長屋に持ち込んで手揉みしたり、手間賃稼ぎに鍋島の田や畑を小作していた」
長谷のあったのは多分土岐家の門の向い側の町屋のかたまっている」あたりだと思う。ここには八百屋、魚屋など、一応際勝必需品を売る店が並んでいて、ポストがあった。今日の団地のショッピング・センターの趣きを呈していた。焙烙長屋の農民がここを選んだのは、大向田圃の低地から小高くなっているからで、公園の池の水を汲むことができたからだろうと思われる。劃一的な住宅地化の中で、生活の必要の痕跡は、地形的に残っていたのである。
(岩全11少年P545)
道玄坂の葉茶屋はW店と推測される。
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――― 武蔵野夫人
大岡は「野火」と併行して「武蔵野夫人」を書き上げた。そのプロットの面白さは定評がある。こゝでは茶の木も含む武蔵野の風物の美しさを取り上げたい。年配者は國木田独歩を想い出すかもしれない。ハケについては教えられることが多い。以下武蔵野風景拾い書き。

樹の多いこの斜面でも一際高く聳える欅や樫の大木は古代武蔵原生林の残物でもあるが、「はけ」の長作の家もそういう欅の一本を持っていて、遠くからでもすぐわかる。斜面の裾を縫う道からその欅の横を石段で上る小さな高みが、一帯より少し出っ張っているとこから、「はけ」とは「鼻」の訛だとか、「端」の意味だとかいう人もあるが、どうやら「はけ」は即ち、「峡」にほかならず、長作の家よりはむしろ、その西から道に流れ出る水を遡って斜面深く喰い込んだ、ひとつの窪地を指すものらしい。

水は窪地の奥が次第に高まり、低い崖となって尽きるところから湧いている。武蔵野の表面を蔽う爐拇、つまり赤土の層の接した砂磯層が露出し、きれいな地下水が這い出るように湧き、すぐせせらぎを立てる流れとなって落ちて行く。長作の家では流れが下の道を横切るところに小さな溜りを作り、畠のものを洗ったりなぞする。
古代武蔵野が鬱蒼たる原生林に蔽われていた頃、また降っては広漠たる荒野と化して、乾いた旅人が斃死した頃も、斜面一帯はこの豊かな湧き水のために、常に人に住われていた。長作の先祖が初めここに住みついたのも、明らかにこの水のためであって、「はけの萩野」と呼ばれたのもそのためであろうが、今は鑿井技術が発達して到る処井戸があり、湧き水の必要は薄れたから、現在長作の家が建っている日当たりのいい高みが「はけ」だと人は思っているわけである。
(岩全3P3)

茶木垣に沿い、栗林を抜けて、彼が暫くその畠中の道に倦きた頃、「へけ」の斜面を蔽う喬木の群が目に入るところまで来た。
(岩全3P28)
彼はまず道を調べた。道は木戸から離れるとすぐに埋もれたが右手に斜面が木の枝で階段を作ってあるところでまた現われ、うねって緑先まで到っていた。見慣れぬ裏屋根の形は不思議な厳しさをもって、土地の斜面を支えるように、下に立ちふさがっていた。
何処の庭にもある無意味な径があるかなきかに左に分かれていた。従って行くと「はけ」の泉を蔽う崖の上に出ていた。
(岩全3P29)

やがて林が尽き広い畠が開けた。陸稲や野菜のよく育った間を、桑や茶の木の列が区切り、防風林で囲まれた農家が点在している。遠くの地平に何かのタンクが不吉な形を聳えさせていた。
武蔵野はそのゆるやかな起伏の中に次第に挟山へ向って上がっているらしく、電車は絶えず勾配の抵抗をモーターの音に感じさせながら走った。そしてやがて前方に眼路を蔽って、屏風のように連なる丘の線が見えて来た。
(全3P110)

道は時々ひどく水と離れるように思われたが、意外に深く喰い込んだ湖岸を迂廻するためであると知られた。湖は丘の懐に水を溜めたものであるから、自然の浸蝕を受けない丘の腹の気まぐれな輪郭によって、不自然に緑とられていたのである。
水は岸のロームを変質させる暇なく、その代赭を水際に沈ませていた。
外側にも同じような谷が深く入り、古い水田と茶畑と藁屋敷が侵入していた。南面したこの側は古来よく人に住まわれたところであり、暖かいその斜面には今は茶を産する。
(岩全3P113)

しかしその森と田圃はそれぞれ美しい秋の装いを凝らしていた。紅葉した落葉樹の間に梢の薄くなった欅が空を掃くように並び、一杯実の熟れた柿の木に黄立羽が群がっていた。少し黄色を帯びてすんなり垂れた竹は、やさしく風に揺れていた。一帯の紅と黄の間に一段と黒ずんで見える茶の木の低い列のあわいに、陸稲の稲架がそこここ、置き忘られたように立っていた。
(岩全3P196)

著者は以上のコマギレ的文章が、小説「武蔵野夫人」の興趣を妨げることのないように念じている。
又嘗て人間の井ヶ田嘉重朗氏が「茶畑だって適地を求めて動くよ」と云われた事を思い出したりしている。もはや武蔵野も東京の一部になってしまった感じの今日、落葉樹にかこまれた美しい茶畑、その産物でもある「生粋の狭山茶」の一体それはそうなって行くのか。静岡の呆け老人と云えども多少は気にかゝる。

――― 「野火」「俘虜記」「レイテ戰記」
一九四四年初夏、大岡は三十五歳のロートルで赤紙召集、フィリピンの戰争に参加させられた。戰後まもなく「野火」と「俘虜記」を書いたが、その衝撃的な内容で洛陽の紙価を高からしめた。そして後に綿密な孝証のもとに「レイテ戰記」を纒めた。いずれも大岡の魂、大岡の執念が込められているので、中年の応召兵はもとより、一般の人々からも戰争とは何か、兵隊とは何か、深く考えさせられる戰記となった。
この大岡は讀書家として知られ、スタンダールの「パルムの僧院」は二十回、漱石の「坊っちゃん」はその倍くらい讀んだ。(岩全14P343)とすれば戰争に生き残ったわれわれも「レイテ戰記」を三度くらい讀みなおすべきか。などと頭の中だけで考えてみる。戰後三十六年に亘って完成したこの一大叙事詩のエピローグは次の如くである。

レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遭うか示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聴こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。
(岩全レイテ戰記2P547)

フィリピンの山の中のこと、お茶は出てこない。それでも、俘虜になってサンホセの病院に収容されたくだりには

次の朝、依然食欲なし。食事を配った丈の高い衛生兵は「何故食べない。とても食べやすいぜ」といって無理に私に皿を取らせた。私は彼の親切を無にしたくなかったが、しかし与えられた乾燥卵の料理はどうしても喉を通らなかった。看護婦が「あなたはお茶が好きらしいからここにおいていく」といって大きなアルミの器に紅茶を入れてベッドの下に置いていった。
軍医がきて診察をした。そして大分いいようだから明日レイテの病院へ出発して貰おうかといって去った。
(岩全1P66)

然し、その後になって俘虜収容所に移送されてからは次の如くなる。

食事が支給された。日本人の炊事係が作ったコーンビーフ等を煮込んだ粥が缶詰の空缶に盛ってある。量は食べきれないほどあるが、米軍の中央料理場で調理された病院の食事とは比較にならぬまずさである。飲物は砂糖を入れない紅茶が石油缶で供された。それに各自喰べ終わった空缶を突込んで飲むのである。
(岩全1P153・193)

扨、大岡は内地の兵舎の事に就いて余り書かなかったが、大岡に續いて戦争を描いた野間宏は兵隊の兵舎生活を克明に追跡している。野間は大岡とは思想も作風も違うが、彼も大岡同様この戦争が敗北に終る事を予め知りつくしていた人(岩大江健三郎同時代集P6)であり、しかもフィリッピンの戦闘で病となりマニラの野戦病院に収容された古参兵の身の上、よく似た点があるので觸れてみる。
野間はその「眞空地帯」の中で初年兵教育のありようを描いている。そして屡お茶も一役買わされている。戦前平和な庶民の家庭での「お~いお茶」はいささか封建的な響をもった、亭主関白の声であったのだが、昭和戦争の兵舎の世界では古年次兵が初年兵に與える私的命令の一種であった。私的は私的でも命令は命令。そしてこの私的命令は時として往復ビンタよりも効果的な圧迫感があった。
又野間の病名はマラリヤと東洋毛様繊虫病であったので、フィリッピンの水質の悪さを頻繁に指摘している。矢張り水は日本に限るということか。その随想の一つに日本の水がある。
(野間作品集 岩全10P365)
ついでに記せば生の義兄の富士正明に「帝国軍隊における斈習」がある。 桂林攻略ほか中国転戦の兵の労苦を描く。

俘虜記には滑稽千万な叙述もある。

一方の窓際の一番医務室よりの端にいるのは前述の「班長」である。彼は十六師団の衛生伍長で、年は二十四、五歳であろうか、京都の或る古い茶問屋の息子であった。色白のいかにも京都風のおっとりとしたぼんち型の青年である。
彼は伊達の忠治と名乗ったが、通訳の二世に問い詰められて「伊達の忠治」という意味で伊達野と言い替えた。「伊達の」とは京都の市井語で「偽の」を意味するが、国定忠治を知っていた二世も流石に知らなかったので通用したのである。偽名は多くの日本の俘虜が採用したところであるが、こういう突飛な名前はちょっと珍しい。彼は日本軍がやがて比島を恢復して、収容所は開放されるであろうと信じていた。
(岩全1P171)

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