第25回 大岡昇平 ―武蔵野の茶畑

株式会社かねも 相談役 角替茂二

――― 「事件」
「事件」は戦後の代表的な推理小説、一九七八年日本推理作家協会賞受賞。として高名であるが、NHKテレビドラマ(若山富三郎、石田あゆみ)などによって一層多くの人に親しまれた。
戦後に喧しくなったお茶汲み、裁判所内ではどうか。

野口が机の上に鞄をおくのを合図のように、事務官の女の子が、お茶を持ってきたが、こもお茶だって、誰が汲むと、きまっているわけではなかった。
裁判所にも世間並みに労働組合はあるので、一朝順法闘争ということになれば、このお菓子のようにきれいな女の子は、勤務規定にないのを楯に取り、お茶なんて持って来なくなるのである。
最近ある民間の会社では、自覚した女子社員が結束して、午前十時と三時、全社員の机にお茶を配る悪習を拒絶したということである。会社ではそのために二人のお茶汲み婆さんを雇わねばならなくなったそうだが、裁判所ではむろんそんな融通は聞きはしない。お茶を持ってこなければ、飲まずに過ごすだけのことである。この点、裁判官は民間人よりも、はるかに質素で、ストイックである。
矢野判事補は、そんな時、ささと湯沸し所へ行き、二人の先輩の分まで、お茶をいれて来て先輩を驚かした。裁判官は自己の良心に従って、法の正義を行う神聖な職にある者であって、お茶など汲むべきではない、というのが谷本判事の意見だったからである。
判事は矢野が机の上に置いた茶碗を、じろりと横目で見ただけで、全然手をつけなかった。それがこの老判事の無言の叱咤と、抵抗であると思うと、野口は下を向いて笑いをこらえるのに骨を折った。
と同時に、自分なら、どんな事態になってもお茶を汲む気にはならなかったろうと思い、自分にも特権意識があったのに気がついたのであった。
(岩全6P32)

一町二、三反持ちの中農ばかりのこの辺の農家では、それぞれ縁先に、ちょっとした庭を造ってある。右手の本道の方の高みを利用して、相模川上流から運んだ岩をおき、刈り込んだ槇など、庭木を配してある。
そのうしろには静岡から送らせた茶の木も植えてあって、大体家で飲む量はまかなっている。現に花井が飲んでいる煎じ茶もそれである。茶だけではない。金田町の住民で、野菜、卵、牛乳などを、店で買うものはいない。魚屋と肉屋が町にある唯一の食料品店である。(岩全6P144)

小説の中で金田町は神奈川県高座郡金田町としてある。
(岩全6P144)
神奈川県北部の農家でも茶の自家製栽培はすくなかったのは日本農業の自然の成行と云うべきか。

現在の公民館は婦人会、未亡人など主として女性の集会に利用されることの方が多い。従ってこんどの現場検証の一行が、証人を尋問する場所に選んだというのは、公民館として大事件であった。
職員達は十人以上のお偉方に茶葉を出すのに緊張していた。もっとも裁判官は「茶」は飲むが、「菓」には手を付けないのが原則で、予め事務官からその旨申入れがあったのだが、折角用意したものだから、一応テーブルの上に並べられる。
(岩全6P431)
法の番人にとってもお茶はただ。
さらに読む ↓

 ――― 「展中組」
「平将門」ほか好んで敗戦の兵を書いた大岡に「天誅組がある。土佐の歴史、経済、はじめの風物、人物など、綿密な探求は興味深い。
・・・・・・・・
そこにはこの地方で「茶堂」と呼ばれる、小さな祠のような小屋がある。時候のいい時なら、ここには誰か一人、村人が詰めていて、この道を通る旅人を接客する習慣がある。
津野山は紙の原料の楮草のほかに、茶も植える。日陰の谷の斜面を切り開き、流れの水際まで、ぎっしりと茶の木の植わった珍しい眺めを、昔の人は見ることが出来た。

品質は宇治茶のように洗練されていないが、山国では、白湯でじゃなく、茶を出されること自身ありがたい。この山道を四万川の奥、或は伊予の国境を越えて来る旅人を接待しながら、珍しい他国の話を聞く。
茶堂は津野山の住民にとって、唯一のニュースに接触するところであり、いわば村のアンテナであった。そして大洲や宇和島から、ここを通って須崎へ抜ける旅人は、今日よりずっと多かったから、檮原や北川は、平地よりも、案外文化的に開発されていた。この地方が当時、時代の先端を行く勤王志士を多く生んだのは、そういう土地柄と関係があるといわれる。
(岩全7P240)

土佐においても商品生産が進みつゝあった。
・・・・・・・・

長山氏が番人を勤めた力石の番所は、後、芳生野北方の上ノ滝に移され、さらに伊予国境に近い天狗岩に移された。天保十五年(一八四四年)この関所で領外売りを許されていた品目がわかっているから、次に列挙する。
(「東津野村史」稿本に拠る)
煎茶、楮草、蜂蜜、真綿、芋柄、梨、柿、炉灰、棕櫚毛、竹の皮、蕨粉、煙草、紙。
(岩全7P246)

然しこれら商品の取引について。
・・・・・

むろん藩庁がただで許すはずはなく、番所で移出量を記帳して、数量の多いもの(例えば紙)には、口銀をかけて来るのであるが、とにかく今日われわれが想像する以上に、商業が行われていたのである。
(岩全7P247)

そして日本の貿易政策は

しかし鎖港という政治的遇挙には、経済的な理由があった。貿易は文久三年まで順調に伸びていた。幕府は関税徴収によって利益を得ていたが、横浜に集まってくる各地の商品のすべてを掌握出来なくなっていた。
生糸、茶などの主な輸出品を江戸在住の商人を潤すことによって、自ら地位を強化しようとする生産は、それらの商人を素通りしはじめる。
零細農民まで茶、桑を植えるようになり、在郷商人の数が増える。製品はこれら小商人によって、江戸の問屋の仲介料をさけて、直接横浜に持ち込まれる。「五品江戸差廻し令」は主輸出品目たる生糸に限って励行されないことになった。そして励行されない法律を敷いているのは、支配者の恥辱であり、権威失墜となる。
現実にはこれらの統制外の輸出品を横浜に廻すのは、薩摩などで西南雄藩で、横浜貿易は反幕勢力を潤すことになったのである。幕府の横浜鎖港は、こういう経済的理由なしでは考えられない。それは体制維持の再整備のための瑠流通統制、物価対策であった」。ただそれがイギリスを敵に廻してしまう、という決定的不利を招いた点で、政治的には失敗だった。
(岩全7P466)

吉村虎太郎等、勤王の志士の活躍した京の都について、大岡は滝沢馬琴の言葉を記している。

『八犬伝』の著者滝沢馬琴は享和二年、(一八○二年)、京大阪に旅行したが、「凡そ洛中半ばは皆妓院なり」と驚いている。「京の大なる人気にて、かく多き遊び(遊女)のそれぞれ世わたりすること、京一のふしぎなり。客は、春、他国の人三分の二、他の人三分の一なり。秋より冬のうは、地の人三分の二、旅人三分の一なりという」

又馬琴は次の如く加える。

京によきもの三ツ。女子、加茂川の水、寺社。あしきもの三ツ。人気の吝薔、料理、舟便。たしきもの五ツ。魚類、物もらい、よきせんじ茶、よきたばこ、実ある妓女。

大岡の「天誅組」に関連し、安岡章太郎の「流離譚」が面白い。安岡家の先祖筋の安岡嘉助が武市瑞山(半兵太)の命を受け同志二名とともに吉田東洋を斬殺し、領外の脱藩、京の都で勤王の志士として活躍した物語り、竜馬の名前も出てくる。むろん茶畑の出てくる風景もある。土佐の歴史を山内家の家中の侍、掛川衆(上士)と地元の侍(下士)の対立から筆をおこし、後の公武合体論にいたる土佐の姿を巧みに描いている。平明で読みやすい。
(岩全二冊)
土佐茶について太田義十氏は墓石の生産実態に触れるとともに、高知県高地の地質学的優位を説いている。
(茶路の旅P259)
又仁淀川流域の奥地茶園の素晴らしさを指摘している。
(狭山茶のあゆみP76)

尚大石貞男氏は土佐茶の種類、生産、流通、等について解説、中で次が眼をひく。

文政(一八一八~一八三○)の作とされる『南路志』の著作武藤致和は、これらの状況を次のように書いている。「中国筋其外島々あるいは九州に至るまで、土佐茶を用いざる所なし。誠に無量の名産地」と。また、平尾道雄によれば、山内一豊が長宗我部に代わって土佐の領主になると、茶の採取に関する指令を出した。慶長七年(一六○二)のことで、土佐郡、長岡郡、香我美群の所々庄屋、百章中のものに採茶を命じているのである。この採茶というのは、茶園ではなくヤマチャをとる意味であろう。採茶作配は、茶師棒蔵主という役で、製茶は大部分は上方へ送られたらしい。・・・・・・・・・・・
明治六年八月二日の高地新聞によれば、・・・・・・・・・
土佐物産の多き中にも、桑、茶、楮、漆は世に最高美のものにして殊に茶は山中自生の品、連綿殆ど四〇里間に蕃植するものあり(中略)
(日本作業技術発達史P253)
大岡昇平は津野山は山内家が代々に亘って切畑による新開地の開墾をすすめ、楮草(後に三椏)とともに茶の木を植えさせた事を取り上げている。
(岩全7P245)

PAGE TOP