第二十六回 大岡昇平――武蔵野の茶畑

株式会社かねも 相談役 角替茂二

――― 「中原中也」
若き日の大岡にとって最も親しい友人の一人、詩人中原中也についての解説。
実証主義の大岡によって微に入り、細をうがつ正に至れり、つくせりの感がある。その全集六巻の編集に五年の歳月を要した。筆者は一九九〇年頃山口市湯田の中也記念館とその詩碑を訪ねた事があるが、係の女性の説明は大岡のそれと全く同じであった。但し中也の詩集「山羊の歌」の現在の所有者のすべてを熟知されているのには驚かされた。

大岡の調査の一例

われわれは八十七歳でまだお茶と書道を教えていられる母親の福さん、弟思郎氏、中原家の医業を継いでおられる呉郎氏などに多く質問をした。

福さんの茶のお流儀は表千家であった。キャリアーが長いのは裕福ではあっても中也支援の為もあったろう。昭和初期の恐慌時代に月額百円の送金を受けての遊学、日本のランボウの生産コストはチープだったとは云えない。その当時農民とともに生きた宮沢賢治とは全く趣がちがう。
福さんの述懐は次の通り、中也のお坊っちゃんぶりがよく解る。

福さんがはじめて中原の口から泰子のことを聞いたのは、昭和五年日本医大に入学した三男恰三といっしょに上京した時である。中原は中高井戸の借家に一人で暮らしていた。福さんとしてはこれが家を出た長男の住居を見る始めである。
「お母さん、ぼくは女に逃げられたところなんですよ」と中原がいったので、「そう、それはよかったじゃないか」と答え、乱雑な家の中を一日がかりで掃除したという。
又私は大正十三年立命館在学中の中原が泰子と同棲していることを、中原家で知っていたかどうかを質問した。
「さあ、或る年の正月に帰って来よりましたら、広島の幼稚園で、いっしょだった女の方に、大変世話になっている、なんかお礼をやってくれ、赤いジャケツがいいじゃろう、といいよりますので、持たしてやったことがありましたが」

立命館での中也は十七歳、女性は長谷川泰子、二十歳、グレタ・ガルボばりの美人だったと云う。もっとも彼女は大正十四年には小林秀雄のもとに逃げているが、泰子が中原の詩の中の唯一の女性であったことに渝(かわ)りはない。
中也の遺稿集の中の詩の推敲例に次のようなのがある。詩の話はむつかしい、くどい説明は避けたい。

二「冷酷の歌」は現行テクストの「4」の四四二行のみ。特に読点省略が著しい。第三・四行――
お茶を注ぐ、煙草を吹かす、薬鑵が物憂い唸りをあげる。
床や壁や柱が目に入る、そしてそれだけだ、それだけだ。
「それだけだ」の繰り返しを欠き、句読点が省略されて、次のようになる。
お茶を注ぐ煙草を吹かす薬鑵が物憂い唸りをあげる。
床や壁や柱が目に入るそしてそれだけだ
読点がないだけで、まったく違う詩のようにスピーディでしゃれたリズムを出している。同時になんとなく中原の古風な作風が浮かび上がってくるような具合なのだ。
(岩全、中原中也P594)
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大岡の親しい友人に村井康男がある。村井は歴史学者で富永太郎の詩集を編集した。現在多くの人に親しまれている。「茶の文学史」その他の著者のある村井康彦は康男の御令息にちがいない。と思って岩波に照会したがプライバシーにかゝわる事は答えられないと云う。学者の子は学者だと思っただけなのに。

―――「文学的ソヴィエト紀行」
一九六二年六月大岡は、ソ連作家同盟の招待を受け、モスクワその他に旅行している。前にも記したが、彼は実証家そのものであっただけにその記録も細部に亘っている。文中の芹沢氏とあるは芹沢光治郎。

………朝食は品物選ぶの面倒臭いから、芹沢氏と相談して、当分朝食はオムレツとキャビアと紅茶にする。銀の台つきのカップで呑む紅茶。ガラスがじかに口に当って熱く、飲みにくけれど、われわれの世代には昔なつかしいコップなり。十七歳の頃はわざと陶器の茶碗を避け、このコップから飲んだものである。多分築地小劇場チェホフ劇の舞台から広まった習慣なり。

―――「文学的中國紀行」
一九六四年広東行列車内で

一時出発。列車最後尾の展望車のいちばん奥に、馬蹄形にわれわれの席が作ってある。車中には香港から来たイギリス人らしいのもいるが、一番いい席に座るのは日本作家代表団であり、次で別の有色人種、イギリス人の順である。
これは西欧とは逆の順序である。幾度か中国を訪れた各種代表団が、すっかり御機嫌になって帰って来るのも無理はない。
髪を振り分けて結び、濃紺の制服を着た少女が、ビールのジョッキほどの大きさの陶器のカップに、お茶を注いでくれる(あやうくシナ茶と書くところであった)。
二十分おきぐらいに、四リットルは入りそうな花模様のついた魔法瓶を持って来て、注ぎ足してくれる。
………

この後、十八日間、われわれの接する範囲では、ホテルでも、レストランでも、劇場でも、博物館でも、人民公社でも、すべての中国人はいつも笑い顔を見せてくれるのだが、町に出ると、必ずしもそうではなかった。

われわれの存在に我慢しているという、その我慢の表情を、かくせない人達がいた。私の顔を見ないようにしながら、茶を注いで去るボーイも一人いた。その中には或いは親を殺され、妻を奪われた人達がいたかも知れない。その傷は、私が炮楼上の兵士の物語から受ける傷よりも、どれだけ大きいかわからない。
………
炮楼上の兵士の物語りは戦後の中国人作家の作品で、敗戦の日本兵が追いつめられて炮楼(炮は砲と同じ)の上でお互いに刺し合って自決した哀話、大岡には絶えず、日本の帝国主義、ナショナリズムについて反省の気持ちがあった。
大岡の中国旅行後二年茶業者有志による中国視察旅行があった。この旅行に就いては健筆家で知られる狭山の町田恒蔵氏に「世界茶どころめぐり」(狭山市民文庫)の好著がある。その一部を転記させて頂く。

訪中茶業視察団一行二九名は全国の主な茶業者に製茶機械業者を加えて昭和四一年八月二七日羽田発、九月一〇日帰国迄一五日間中國の主要都市を一巡した。その間各地の茶産地・茶工場・茶輸出公司・茶小売店といった関係筋を訪問し中国茶の実状把握に勉めた。
しかし、何分にも日本の二六倍の広大な地域で、製産は十三省にわたってのこと故一朝一夕にその全貌を知る事は無理なことであった。
しかもお国柄が全般的な茶業情勢や数字について発表を避け、視察希望地の案内は受け付けず不満足な視察であったが、日本の茶の祖先たる中国茶の一端に親しくふれ、共に茶業人たる喜びを分かちあうことによって、近い隣国でありながらよく分らぬ中国の実体を身を以って知ったことは大きな収穫というべきだと思う。
香港から広州・杭州・上海・北京・武漢と飛行機と汽車によって各地を歴訪し、丁度紅衛兵の歴史的文化大革命のさなかにとびこんだことは得がたい経験であった。

―――「龍井(ロンジン)茶の産地訪問」
私たちの訪問したのは浙江省杭州市西湖公社の梅家塢大隊という茶処であった。西湖からバスで一時間、山中の一部落で附近の山々は茶園でおゝわれ内地と少しも変わらぬ茶産地である。有名な緑茶の代表たる龍井茶の産地で廬鎮豪という隊長は日本人そっくりで、出来得る限りの便宜と愛情を示してくれた。
茶畑は山を拓いた茶園がつゞいて居て山からの生葉はケーブルによって運ばれている。茶園はどちらかというと美事な園ではなかった。
………

町田氏の著書は、所謂文化大革命や紅衛兵について、かなり具体的に書かれている。そして、茶については珍眉茶(グリ茶)製造の杭州茶再生工廠、各地の茉莉花茶や竜井茶を売る小売店、貿易茶の官庁である中国茶葉土産進出口公司の訪問等にも筆が及んでいる。
尚この旅行同行の諸氏の名を俄に思い出せないが、次の方々の行動はそれぞれ個性的でその風貌が印象に残っている。団長国会議員大石八治氏はじめ、宇治の林屋、埼玉の町田、神奈川の茶加藤、高山の尾崎、名古屋の田中、大阪の荒俣、静岡の丸善、和波、機械の落合等々の諸氏である。四十年以上の昔の話、懐しい。
尚私共も旅行中、屡々市中の中国人の嶮しい、鋭どい視線を浴びた。その趣は大岡昇平の叙述どおり。

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