第二十七回 三好達治 ―茶の花十里(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

三好達治
岩波文庫に「三好達治詩集」がある。編者桑原武夫はその解説の冒頭、「三好達治が昭和を代表する最大の抒情詩人であった事を認めまいとする人は今日もはやいないであろうといささか変化球気味の球を投げている。そしてその理由として、詩の質の高さ、生産性の高さ、読者数の多さ等をあげている。又その処女作「測量船」の新鮮さが与えた快い衝撃は多少とも文学に心ひかれた人々にとって生涯忘れ得ぬところのものとも云っている。さて、われわれにとって問題の茶について詩人がどのような見識を持っていたかそれは何とも云えないが、その詩の中で描かれた茶の描写を見れば彼が如何に茶に親しみ、茶を愛していたか自ら明らかである。

牧の原「茶の花十里」
これは三好晩年の作品(昭三七)である。
文春正月号に掲載されて、今日でも牧の原の茶業者の間で愛誦されている。
もとより北原白秋の茶摘歌「チャッキリ節」は茶摘の歌として全国的に有名であるが、茶の花をうたった著名作家は三好と後段に記す室生犀星くらいのものではないだろうか。

茶の花十里(百たびののち)

  牧の原 茶の花十里
  露じもにぬれて咲く日は
  茶畑はもう用のすみし日のあと
  何を見んとて咲く花か
  刈りつめられし丘の波 その畝を出て
  また波に入る ちんちろ
  蕊(しべ)長く 花粉豊かに 葉がくれに
  牧の原 花の花十里
(詩全3P290)

茶の科学者
大石貞男氏は「茶の花十里」に関連して次の如く記されている。
さすがと云うしかない。
…………
芭蕉は、茶をなによりも花の香りとして表現した。
駿河路や 花たちばなも茶の匂ひ
筆者は、茶の花の咲く初秋に、何千という花のにおいをかいで歩いたことがある。その花のにおいは、いずれもまぎれもなく茶の花のにおいでありながら、一つとして同じではない。茶の花のにおいと、製茶の品質と関連があるのではないかということが調査のねらいであった。
茶の花は、ふつうは白色である。しかし、ごくわずかに桃色の花がある。これを紅花(べにばな)といって鑑賞に珍重している。この赤い色素は、アントシアンという色素であるが、紅花は新芽も根もすべて赤く、アントシアンが木全体に分布していることが特徴である。
(昭48.7)(茶業の周辺)

近頃は茶の花のサポニンほかの薬学的効用に注目する学者もある(京薬大吉川博士)
又別の箇所で次の如く記しているのも見逃せない。
昭和六十年頃の問題、大方の茶業者が熟知されていたのだが、果してどう対処すればよかったのか、又今でもどう対処すればよいのか、具体論は大いに難問である。

「牧之原やぶきた十里」の将来
詩人の三好達治は昭和四十年代に牧之原を訪れて「牧之原茶の花十里」とうたった。いま、目にうつる茶園は三好達治の見た茶園と同じものでありながら、同じものではない。それは昭和三十年代の半ばから起こった茶の品種の更新である。
こんにちの牧之原は三好達治の感慨よりさらに茶園のうね波は整いその幾何学な整形は美しさを感じさせる。美的な表現を欠くが、「牧之原やぶきた十里」である。
…………
まさに、その栽培製造の原点に立って、明治百年来、近代的茶業の先駆者的役割を果たした牧之原はその成果と将来への展望を示すべきではないかと思うのである。
(昭60.7)
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次の「お茶の木」は日本平の茶畑、いささか滑稽味があり、軽妙、酒脱快調である。

 お茶の木(百たびののち)
  お茶の木茶の木お茶畑
  日本平(にほんだひら)は海の上
  淸水港(しみづみなと)に白い船見えた
  ちゃつちゃと茶鋏茶摘み娘(こ)がならした
  茶鋏茶摘み唄茶摘み娘がうたつた
  お茶の木茶の木茶の木を摘んで
  茶坊主がそろつた
  茶畑
  茶畑
(詩全3P180)

三好達治全集(筑摩書房)の編集者石原八束氏によれば、三好は昭和二十八年より静岡新聞の入選詩欄の指導を担当、晩年追続けられたとある。そして三十年には浜名高校の校歌を作詞したりしている。校歌は柄でなく閉口と云いながらの事(全10P315)何か止むに止まれぬ事情があったのだろう。静岡新聞の詩に投稿された方々には三好の人となりを知る人も少なくないだろう。
三好の詩とは関係は何もないが、某月日経に掲載された栄西ゆかりの建仁寺の茶の花の写真(宮島康彦氏撮影)の添書に次の如くあった「京都の街が紅葉に染まる頃開花する茶の花の白さが紅葉の紅と相乗効果を発揮して華やいだ景観を見せる。

………茶の花は純白の中に更に白がこもっているような濃厚な白い花弁だ。京に初雪が降るような時期でも寒さに強いのかけなげに咲いている。……さりげない文章だが、茶の花の白さと香りを知っている者にはピンとくるだろう。清楚な茶の花は詩的と云うより俳句的である。そこには悟りの境地とか、暗示力のようなものがある。

私の空中ノート
― ヘリコプターで見る日本平 ― 

焼津の飛行場は雲雀の聲にうづまつてゐた。ゆつくり辨當をつかつて腰をのばす。さてもう一度三十キロばかり引返して、三保の松原を一周淸水港に出る。淸水港を振合ひに大茶園の日本平はやうやくにして見つかつた。この丘陵は見渡すかぎりの茶畑で、茶畑の緑はとりわけ厚手にどつしりと輝くやうに光澤があり、折から傾きかかつた陽ざしをうけて、陰翳をもつた具合がまことに美しい。この美しい絨毯の上を素足で歩いてみたいやうな空想が自づと生ずる。
…………

再び焼津飛行場を發して大井川を遡る。島田市を經て金谷町に入る頃にはやうやく暮色のせまるのが地上のものの影に見えはじめる。桶口君カメラをしまふ。
今度は不時着しまいが何やら心細げな感じである。一路三方ケ原に向ふ間、快い丘陵の起伏が續く。静岡縣下はおしなべて耕地が美しく、農家は裕福らしくどつしりと落ついて見えるのが、私ども空中旅行者にも見た眼に賴もしい。五時四十五分三方ケ原着。
                      (全12P183)
昭和十九年戦争まっ最中の詩集に「花筐(がたみ)」がある。「寒析」のような征戦のうたの中に、愛の詩であると云われる「花筐」があるのはいささか奇妙な感じがする。「寒析」は「千弋永言」「捷報いたる」などとともに戦争についての勇ましい詩ばかり、「花筐」は石原の解釈では、花に心を託した恋愛詩集であるとされている。又桑原はその対象は萩原朔太郎の妹アイであったが、同棲は半年しかなかったらしいと記している。戦争末期のことがいかにも慌ただしく、すべてが曖昧模糊。尚桑原の選んだ「三好達治詩集には戦いに関する詩は殆どオミットされている。選集だからと云えばそれ迄だがこれも少々変な感じがしないでもない。

  茶の花の(花筐(がたみ))

  茶の花のこぼるる垣根
  しづかなる町のうら路
  日は肩にあたたかけれど
  さだめなきさすらひごころ
 (詩全2P219)

  わが名をよびて(花筐)

  わが名をよびてたまはれ
  いとけなき日のよび名もてわが名をよびてたまはれ
  あはれいまひとたびわがいとけなき日の名をよびて
  たまはれ
  風のふく日のとほくよりわが名をよびてたまはれ
  庭のかたへに茶の花のさきのこる日の
 (詩全2P203)

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