第三十回 三好達治――茶の花十里(4)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

健吉の芭蕉評釈にも茶の煙が何たるかを示唆するものはないが、参考迄に要点を記してみる。主として杜牧の詩と関連についてである。

八月廿日過ぎ、まだ未明に宿を立つているのである。馬上でいきたびも眠りに落ちようとしたり、落馬しようとしたり、うとうとしているうちに、いつか中山の峠にかかつて、馬上の殘夢を覺まされた。するとその景は、杜牧の『早行詩』にすつかり嵌りこんだというわけだ。馬上にうつらくと暁の夢を追うて居る。と、空には有明の月が遠く浮かび、麓の日坂の宿驛あたり、朝茶を煮る煙が芭蕉の旅情を掻立てる。
………
言わば杜牧の詩の焼き直しから出發しているのであつて、その漢詩的外形が、内面化され、濾過されて、一つの俳句的結晶を得るまでの過程が、三段の俳句の變化のうちにうかがわれるのである。だから、最後に到つても、發想の中核をなす漢詩的なものは、モチーフとして内在しているのである。このような發想は、個性による獨創を重んずる近代のわれわれには、はなはだ飽き足りなく思われる。だがそれは、われわれには失われた歴史的意識を、芭蕉が持つていたからではあるまいか。過去の詩人に對する関係が、故意意識の強いわれわれよりは、はるかに密接なのである。芭蕉の詩的・言語的體驗は、そのような詩心の時間的交通の上に築かれているのだ。
…………
杜牧の詩にここで芭蕉が加えたものは、素材的には「茶の煙」だけである。「茶の煙」だけが、馬上で覺めて確かに認めたイメージなのであつて、あとは古人の詩による虚の世界から導き出されたものである。その虚と簣との交錯が、彼が最初から執着した「眠からんとして」という夢うつつの意識状態に、よく照應した表現をもたらしている。「馬に寢て」「殘夢」「月遠し」「茶の煙」の、四段に途切れた句の疊み重ねは、次第に眠りから覚めていく意識の推移でもある。「月遠し」は、「殘夢」よりも覺醒におけるイメージであるが、それでもまだ次第に遠ざかり、消え去つて行く虚の世界の殘照がただよつている。彼の朦朧たる意識のなかで、月が遠いのである。「茶の煙」に至つて、はじめて實の世界に、芭蕉ははっきりと目を開くのである。彼は驚き、我にかえるのだ。それは「世路平か」な現實の庶民生活のなつかしい匂いだからである。「高き屋に」(傅仁徳天皇)の御製以来、竈の煙は人の心に沁み入るものである。ついでに言えば、小夜の中山は、彼が夢寐にも忘れない西行きにゆかりの地であった。
漢詩的な佶屈をまだ充分脱していないとしても、この句には不思議な感銘がある。これは意識の深層において成立したものとは言えないが、ともかく意識の深層状態に、表現の動機を持つている。杜牧の詩と濱景とが、夢と現實とが、重なり合つた世界である。その意味で「茶の煙」を馬上に通りすがりに見た村里の煙という穎原説というより、いくらか重い解釋説に到達したわけなのである。

俳句研究家 山田新一氏
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馬に寝て殘夢月遠し茶のけぶり 芭蕉(甲子吟行)

芭蕉が遠江(静岡県)小夜の中山あたりで馬の鞍の上から見たこの「茶のけぶり」も家々で朝々の茶を煎じる煙の、軒から屋根へゆっくりと這い上がっていきさまだった。「馬に寝て」というきびしい旅の日々と、夢の名残と夜明けの月と、立ち上る家々の茶の煙と――

一幅の墨絵のような風景ではある。今は大茶園になっている牧之原台地(静岡県)は明治になってからの開拓として知られるが、その金谷側のはずれにこの句碑が建てられているのを見た人もいるかも知れない。

又別のところで

「茶のけぶり」は朝茶を沸かす煙である。馬の上から見たのだろう。前書の中の小夜の中山は西行の歌などにもある名どころで、静岡県掛川市の東にある山。東海道五三次では金谷と日坂の間にある。平安時代から東海道の難所の一つとされたところだ。杜牧は中国晩唐の詩人である。

響庭幸男氏

馬上に夢うつつでいると、有明の月が上って茶のけむりが村から立ちのぼっている。馬上の酔生夢死の一コマである。

句の解釈は人さまざまであるが、馬上の酔生夢死は如何なものか。

曽我修一氏(元静岡県茶業会議所事務局長)

未明から立ちのぼる茶小屋の煙を見て、茶揉みの苦労を察したものであろうか。そのころ、小夜の中山辺りに茶畑があったかどうか詳らかではないが、(中略)
…………
同書は、東海道五十三次の難所の一つであり、参勤交代の諸大名の格好の休息所として茶の需要も多かったに違いない。従って、寺内やその付近に茶畑が設けられていたことは想像できる。が、そのような詮議は別として、三百年の昔、芭蕉がふと詠んだ地が、日本一の茶産地になろうとは、思えば奇しき因縁である。(ふるさと百話)

中野孝次の選んだ随筆集には澁茶が出てくる。次のような按梅式である。

海辺の窓

破風(はふ)をもる煙かすかに
水をくむ音はをりふし
この庵(いお)に人はすめども
日もすがら窓をとざせり

自らこう歌った私の家の海に向った窓はその前に藤棚のたおれたのがいつまでもたおれたままで、それが新しく芽をふき蔓(つる)をのばし、白い花房が気ままに咲き乱れる時分になっても、めったに雨戸を操って開け放たれたことがない。けれどもこの案(いおり)にも人は住んでいるので、案の主(ある)じは終日籠居(りょうきょ)して、時にしばしば、人に語るすべもない物思いに耽っていることが多い。終日書を読み渋茶をすすり、物思いに耽っている初老の男は、夜もまたぽつねんとして、燈火(とうか)の下で墨など磨(す)っているのである。…………
(岩文随P109正覚坊)

又、
…………
天守閣のてっぺんからの眺望は、思ったほどの見晴らしではなかったが、さすがに悪くはなかった。お城は何も観光むきの展望台ではないのだから、と納得しながら、折からの新緑の鬱然(うつぜん)としてみずみずしいのに心をなかせっきりにして暫くの間私は徘徊(はいかい)した。
城を下ってもう一度お濠端に出て、腰を下ろして渋茶を一杯啜(すす)っていると、遠足らしい子供たちが観光バスから吐き出されて、私の前で列をつくった。
(全P152柘榴の花)

三好の詩歌鑑賞批判文は数多く、全集三文一と云ふ。ぶろん秀歌が多い。茶が出てくることもある。

吉井のうた

茶の香にも涙ぐまれぬ人の世のなさけに似たるものならなくに

「茶の香にも」は『殘雪』卷末の一風である。この歌人の心魂を、問はず語りに語り出たふりであらう。
(吉井勇)『寒行』

河上のうた

大いなる饅頭蒸してほほばりて茶をのむ時もやがて來るらむ

又、
旅人賊 として

春ともなれば鳥の聲
秋ともなれば蟲の歌
山路を行けば山路のやどに
海邊を行けば海邊のやどに
夏は涼風を漂はし
冬は爐火を燃して
一甌の茶
1架の書
(河上肇)

桑原、石原の年譜によれば、三好は昭和三十九年四月室生犀星全集第一巻叢刊の祝宴に出席、皈途深酒を重ねて深夜に及ぶ云々とある。そしてその数日後サヨナラとある。深酒こそが元凶であったと推測せざるを得ない。彼は酒はキライと称しながら詩作の為には酔って陶然、感慨深く、感情的になりたかったのだろうか。(岩文三好達治随筆集、P98)この随筆集の編者中野孝治は三好を孤独漂白の詩人として「閑窓一箋」のはじめの部分を記し、集の締め括りとしている。
酒仙の行年、六十三、いかにも若い。

閑窓一箋

憐れむべし糊口に穢れたれば
一盞(いっさん)はまづわが腸(はら)わたにそそぐべし
よき友らおほく地下に在り
時に彼らを憶ふ
また一盞をそそぐべし
 
最後にお茶とは関係ないが有名な二行詩「雪」(測量船)を記したい。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ
二郎を眠らせ、二郎の屋根に雪降りつむ

三好は校歌づくりを好んでいたわけではないが、東京工大をはじめ、三國高、大野高、浜名高、角館中、等の校歌をつくっている。いずれもそれ相応の行き掛かりがあったと考えられる。浜名の場合は鈴木周一の尽力によるもの。 氏が、三好に送った進物の礼状にお茶がしるしてあるのは嬉しい。

綿地御銘茶惠送下され忝けなく拜受。

又、
本日 川根産銘茶一かんありがたくいただきました。
早速頂戴 芳香苦味 甚だよろしいのに驚いてゐます。

又、
綿地 名産 叉々 御惠送を賜り 忝けなきことに
存じてゐます。

又、
松のみど里 さくさんいただきました。久しぶりにまた
格別結構に風尚致してをります。

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