お茶と文学者 第三十一回 太宰 治 ―不審庵(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

太宰 治
昭和の敗戦直後の虚脱した世相の中で、太宰治の小説には中年の男女ファンがわんさと群れ犇めいた。と云っても一時代前の著名作家、例えば志賀直哉の如きは彼の人間的資質を疑問視するかの如くであった。平成時代の人はこれをどうとらえているのだろうか。

六版の広辞苑によれば「屈折した罪悪意識を道化と笑いでつゝんだ秀作が多く、第二次大戦後は虚無的、頽廃的な社会感覚を作品化した」とある。文例として「斜陽」「人間失格」「晩年」などが挙げられている。
彼は三十九才の若さで人生にサヨナラした。女性とともに玉川上水に入水自殺。既に自殺未遂の経歴はあったが、場所が場所であっただけに、都民の非難の声が喧しかった。

さて、太宰の文章にお酒は頻発するが、お茶の方はサッパリである。それでも僅かな例外として、「右大臣実朝」の中で栄西禅師の「喫茶養生記」の話がある。むろん彼の頭の中にお茶の功徳についての智識はあったかも知れないが、そもそも「延齢」とか「養生」とかいった事の大切さ、有難さなど微塵もなかったのではないか。逆説的に云えば、こんな筆法の中に太宰文学の存在価値があったと云えなくもない。
そして茶席を戯画化した「不審庵」の一文はいわば太宰的手法のサンプルのようなものである。適切とも思えないが、これを首題とした。

実朝と栄西
太宰の「右大臣実朝」は長編の力作なのだが、彼の多くの著作中の失敗作であると評する人もある。その史観の浅さをついているのだろうか。それは兎も角、栄西さんの「喫茶養生記」に触れている箇所がある。
お茶の効用のプロパガンダーと解釈して取りあげてみるが、その行分のコンポジジョンは実朝の傍用人の立場で組立てられ、まことに巧妙な仕掛けになっている。なみなみならぬ文才と云うべきか。

右大臣実朝
…………
いやしくも征夷大將軍、武門の總本家のお方が、武藝を怠り和歌にのみ熱中し、わけもない御酒宴をおひらきになり婦女子にたはむれていらつしやる時には、御身分が御身分でもあり、ひどく目立つ事でもございますから、やつぱり御耽溺と申し上げなければならぬやうな結果になり、私たちお傍の者も、終始變らず將軍様を御信頼申し、お慕ひ申してゐながら、それでも、時たま、ふいと何とも知れず心細くなる事がございました。

あくる健保二年のお正月には、れいの二所詣に御進發になり、私たちもお供を致しましたが、二月三日には、ご一行無事に鎌倉へ御歸着に相成り、その夜はお供の者のこらず御ところに參候して御盃酒を賜り、たいへん結構の御馳走ばかりつぎつぎと出て、夜の更けるにつれて飲めや歌への大騒ぎになり、將軍家も夜明け近くまで皆におつき合ひ下され、その時ばかりは、さすがに御正座も困難に見受けられたほどにいたくお醉ひの御様子でございました。

さうして、その翌る日は、お床におつきになられたきりで、ひどくお苦しみの御模様に拜され、大勢の御家人たちが續々とお見舞ひに駆けつけて、御ところにただならぬ不安の氣がただよひ、けれどもその折ちやうど御加持に伺候して居られた葉上僧正さまが、その御様態の御宿醉に過ぎざる事を見てとり、お寺から或る種の名薬を取りよせて一盞獻じましたところが、たちまち御惱も薄らぎ、僧正さまは頗る面目をほどこしましたが、その名薬といふのは、ただのお茶でございましたさうで、もつともその頃は、鎌倉に於いてお茶といふものは未だほとんど用いられてゐなかったし、全く、珍しかつた時代でございまして、僧正さまは、その場に於いて、その名薬のお茶である事をお明し申し、お茶の德をほめたたへるところの書一卷をついでに獻上なさいました。

それは僧正さまが御坐禪の餘暇に御自身でお書きになつた御本だとか、めづらしい本をお書きになつたものだと、けげんさうにお首を傾けて居られたお方もございました。この葉上僧正榮西さまは、御承知のとほり、天平のころからの二大宗教、すなはち傳敎大師このかたの天台宗と弘法大使を御祖師とする眞言宗と、この二つが、だんだんと御開祖のお氣持から離れて御加持御祈禱専門の俗宗になつてしまつたのにあきたらず思召され、再度の御渡宋より御歸朝以來、達磨宗すなはち禪宗といふ新宗派を御開立しようとなされて諸方を奔走し、一方、黒谷の御上人が念佛宗すなはち凈土宗を稱へられたのもその頃の事でございましたが、兩宗派ともそれぞれ上下の信仰を得て、たうとう南都北嶺の嫉視を招き、共にさまざまの迫害を受けられたやうでございまして、榮西さまは、鎌倉へのがれてまゐり、壽福寺を御草創なされ、健保三年六月に痢病でおなくなりなさるまで、ほとんどそこに居られまして、往年に新宗派を稱へ、新智識を以て片端から論敵を説破なされた御元氣は、その御晩年には、片鱗だも見受けられず、さらに大きくお悟りになつたところでもあつたのでございませうか、別段、御宗派にこだはるやうなところも無く、御加持御祈禱もすすんでなさいましたし、おひまの折には、お茶のお德をほめたたへる御本などと、珍奇なものまでお書きあらはしになるくらゐでございましたから、私たちの眼には、ただおずるいやうな飄逸の僧正さまとしか見えませんでした。(全6P41)

全集七巻に「右大臣実朝」のPR文章として「鉄面皮」と云ふ短文がある。その中で太宰は実朝を書く心構えとして次のように述べている。
…………
べつに、いいところだから抜書きしたといふわけではない。だいたこんな調子で書いてゐるのだといふ事を、具體的にお知らせしたかつたのである。貫朝(貫にうかんむり)の死と共に出家して山奥に隠れ住んでゐるのを訪ねて行つて、いろいろと貫朝に就いての思ひ出話を聞くといふ趣向だ。史貫(貫にうかんむり)はおもに吾妻鏡に據つた。でたらめばかり書いてゐるんぢやないかと思はれてもいけないから、吾妻鏡の本文を少し抜萃しては作品の要所々々に挿入して置いた。物語は必ずしも吾妻鏡の本文のとほりではない。そんなとき兩者を比較して多少の興を覚えるやうに案配したわけである、などと、これではまるで大道の藥賣りの口上にまさる露骨な廣告だ。
………
ついでに吾妻鑑の一部を掲げる。
健保二年甲戌。二月大。一日、丙申、晴、亥刻地震。四日、己亥晴、將軍家聊か御病惱、諸人奔走す、但し殊なる御事無し、是若し去夜御淵醉の餘氣か、爰に葉上僧正御加持に侯するの處、此事を聞き、良藥と稱して、本寺より茶一蓋を召進ず、而して一卷の書を相副へ、之を獻ぜしむ。茶德を譽むる所の書なり、將軍家御感悦に及ぶと云々。七日、壬寅、

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