第三十二回 太宰 治――不審庵(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

太宰 治

尚栄西禅師の茶の将来については三十年ほど前に書かれた村井康彦の指摘を忘れる訳にはゆかない。むろん太宰とは関係ないが大切な話だと思うので転訳する。

村井康彦「茶の花文化史」

…………栄西が茶を将来したことに関して、疑義がないわけではない。ことに帰朝したのが七月というのは太陽暦に直せば八月ないし九月で、これでは発芽力が弱く一夏過ぎると九十パーセント近くその力を失う(松下智『日本の伝来』)という茶の種子を持ち帰ることは困難であったはずだとし、このことから栄西将来説を否定する意見も出されている。これは通訳に対する根本的な批判といわねばならない。
しかし栄西将来説は否定し去られるのであろうか。

栄西将来説

栄西は二度目の入宋中、文治五(一一八九年)、道邃法師が天台山に植えたという菩堤樹の一株をとって南船に托し、「わが伝法中興の効を験(あらわ)さん」ために故国に送ったという。この菩堤樹は筑前香椎宮らの傍らに植えられ、のち東大寺、さらに建仁寺へ移植されている。これは茶の将来に関して参考にしてよいことだ。

栄西が持ち帰ったのは茶の種子(実)ではなく、茶の若木ではなかったか。茶の育種研究者や茶業者の見解では、根に土をくるんでおけば数ヶ月は十分維持することが可能であり、栄西が持ち帰ったとするならこの方法以外には考えられないという。とすれば、通説を否定するのに種子にこだわる新説も、結果としては同じあやまちを犯していることになる。自身茶道を著している栄西の将来説は、如上の修正を施した上でなら、あえて否定することはあるまいと考える。
…………

『喫茶養生記』
しかし考えてみるに、栄西による茶樹の将来がなぜ問題になるのであろうか。この時点では大内裏茶園は廃れていたと思われるが、旧仏教系寺院のなかには茶園を擁したものもあったはずである。栄西の将来した茶は主に禅宗寺院に植えられたが、しかし背振山(天台宗)や高山寺(華厳宗)の例もある。といって鎌倉後期に名を著す寺院茶園(後述)のすべてが栄西の茶を移植したものでもあるまい。

あれこれ勘案すれば、栄西の茶樹の将来と移植が、茶の栽培の普及上一つのきっかけとなり、はずみをつけたことは確かであるとしても、それが可能であったのは、あくまでも新しい茶法-抹茶のつくり方と飲みかた―の裏付けであってのものであろう。栄西の功もそこに求められるべきものである。そしてその新茶法を記述したのが『喫茶養成記』二巻に他ならない。
…………

『喫茶養成記』はわが国における最初の茶書であるが、その特徴は、書名にも示されているように茶の持つ実用性=茶徳を説くにあり、後世強調されているようになる「茶禅一味」といった意識のひとかけらもないということである。これには栄西自身が禅僧というより台密の僧として活躍したことも無関係ではないであろうが、この事実の確認は、これ以後の歴史を考える上で、是非とも必要なことである。

喫茶におけるこの「実用主義」から「精神主義」への変質過程を捨象もしくは無視した茶禅一味論がいちじるしく非歴史的であり、時に空疎であるのは決して理由のないことではない。
(岩新 茶の文学史P47)

茶事に就いて太宰の記したコミカルな文章。かなりくどくて、その未知の人士の顰蹙を買ったかも知れない。だが簡潔では太宰文学は成立しない。
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不審庵

拝啓。暑中の御見舞ひを兼ね、いささか老生日頃の愚衷など可申述候。老生すこしく思ふところ有之、近來ふたたび茶道の稽古にふけり居り候。ふららび、とは、唐突にしていかにも虚飾の言の如く思召し、れいの御賢明の苦笑など漏らし給はんと察せられ候も、何をか隠し申すべき、われ幼少の頃より茶道を好み、實父孫左衛門殿より手ほどきを受け、この道を傅授せらるる事數年に及び申候へども、悲しい哉、わが性鈍にしてその眞趣を究る能はず、しかのみならず、わが一擧手一投足はなはだ粗野にして見苦しく、われも實父も共に呆れ、孫左衛門殿逝去の後は、われその道を好むと雖の雜用やうやく繋ぐ、心ならずも次第にこの道より遠ざかり、父祖傅來の茶道具えおも、ぽつりぽつりと賣拂ひ、いまは全く茶道と絶縁の淺ましき境涯と相成申候ところ、近來すこしく深き所感も有之候まま、まことに數十年振りにて、ひそかに茶道の獨習を試み、いささかこの道の妙訣を感得仕り申候ものの如き實情に御座候。
・・・・・・・・・
近來いささかこの道に就きて修練仕り申候ところ、卒然としてその奥義を察知するにいたり、このよろこびをわれ一人の胸底に祕するも益なく惜しき事に御座候へば、明後日午後二時を期して老生日頃昵懇の若き朋友二、三人を招待仕り、ささやかなる茶會を開催致したく、貴殿も萬障操合せご出席然るべく無理におすすめ申上候。流水濁らず、奔湍腐らず、御心境日々に新たなる事こそ、貴殿の如き藝術家志望のものには望ましく被存候。茶會御出席に依り御心魂の新粧をも期し得べく、決してむだの事には無之、まづは欣然御應諾當然と心得申者に御座候。頓首。
ことしの夏、私は、このやうなお手紙を、れいの黄村先生から、いただいたのである。
…………
私は先生のお手紙を拜誦して、すぐさま外食し、近所の或る優雅な友人の家を訪ねた。
…………
「茶道讀本」とか「茶の湯客の心得」とか、そんな本を四冊も借りて私は家へ歸り、片隅から讀派した。
…………
聖戦下、 澤なことを望んではならぬ。先生に於いても、かならずやこの際、極端に質素な茶會を催し、以て私たち後輩にきびしい教訓を垂れて下さるおつもりに違ひない。私は懐石料理の作法に就いての勉強はいい加減にして、薄茶のいただき方だけを念いりに獨習して置いた。さうして私のそのやうな豫想は果して當つてゐたのであったが、それにしても、あまりに質素な茶會だつたので、どうにも、ひどい騒ぎになつてしまつた。
…………
黄村先生は、その日、庭に面した六疉間にふんどし一つのお姿で寢ころび、本を讀んで居られた。おそるおそる縁先に歩み寄る私たち三人を見つけて、むつくり起き上り、
「やあ、來たか。暑いぢやないか。あがり給へ。着てゐるものを脱いで、はだかになると涼しいよ。」茶會も何もお忘れになつてゐるやうにさへ見えた。
けれども私たちは油斷をしない。先生の御胸中にどのやうな計略があるのかわかつたものではない。私たちは縁先に立ち並び、無言でうやうやしくお辞儀をした。先生は一瞬けげんそうな顔をなさつたやうだが、私たちはそれにかまはず、順々に縁側に躙(にじ)り上がり、さて私は部屋を見廻したが、風爐も釜も無い。ふだんのままのお部屋である。私は少し狼狽した。頸を伸ばして隣の三疉間を覗くと、三疉間の隅にこはれかかつた七輪が置かれてあつて、その上に汚く煤けたアルミニュームの藥鑵がかけられてゐる。これだと思つた。そろそろと膝行して三疉間に進み、學生たちもおくれては一大事といふやうな緊張の面持でぴつたり私に附き添つて膝行する。わたしたちは七輪の前に列座して畳に两手をつき、つくづくとその七輪と藥鑵を眺めた。期せずして三人同時に、おのづから溜息が出た。「そんなものは、見なくたつていい。」先生は不機嫌さうな口調であつしゃつた。けれども先生には不機嫌さうな口調でおっしゃつた。けれども先生には、どのやうな深い魂膽があるのか、わかつたものでない。油斷がならぬ。
「この釜は、」と私はその由緒をお尋ねしようとしたが、なんと言つていいのか見當もつかない。「ずゐぶん使ひ古したものでせう。」まづい事を言つた。
「つまらん事を言ふなよ」先生はいよいよ不機嫌である。
「でもずいぶん時代が、―――」
「くだらんお世辭はやめ給へ。それは驛前の金物屋から四、五年前に二圓で買つて來たものだ。そんなものを褒める奴があるか。」
どうも勝手が違ふ。けれども私は、あくまでも「茶道讀本」で教へられた正しい作法えお守らうと思った。
・・・・・・・・
「それじや、はじめよう。」先生は立ち上つて隣の三疉間へ行き、襖をぴたりとしめてしまつた。
「これからどうなるんです」瀬尾君は小聲で私に尋ねた。
「朴にもよくわからないんですがね」何しろ、まるで勝手が違つてしまつたので私は不安でならなかつた。
「普通の茶會だつたら、これから炭手前の拜見とか、香合一覧の事などがあつて、それから、御馳走が出て、酒が出て、それから、―――」
「酒も出るのですか。」松野君はうれしさうな顔をした。
「いや、それは時節柄、省略するだらうと思ふけど、今に薄茶が出るでせる。まあ、これから一つ、先生の薄茶のお手前を拜見するといふ事になるんぢやないでせうか。」私もあまり自信が無い。
ぢやほぢやぼといふ奇怪な音が隣室から聞こえた。茶筅でお茶を掻き回してゐるやうな音でもあるが、どうにしても、それにしてはひどく乱暴な騒々しい音である。私は聞き耳を立て、
「おや、もうお手前がはじまつたのかしら。お手前は必ず拜見しなけらばならぬことになつてゐるのだけど」
氣が氣でなかった。襖はぴったりしめ切られてゐる。先生は一體、どんな事をやらかして居られるのか、ぢやぼぢやぼといふ音ばかり、絶えまなくかまびすしき聞こえて來て、時たま、ううむといふ先生の呻き聲さへ混じる有様になつて來たので、私たちは不安のあまり立ち上がつた。
「先生!」と私は襖をへだて呼びかけた。「お手前を拜見したいのですが」
「あ、あけちゃいけねえ。」といふ先生のひどく狼狽したやうな嗄れた御返辭が聞こえた。
「なぜですか。」
「いま、そつちにお茶を持つて行く。」さうしてまた一段と聲を大きくして、「襖をあけちゃ、駄目だぞ!」
「でも、なんだか唸つていらつしゃるぢゃありませんか。」私は襖をあけて隣室の模様を見とどけたかつた。襖をそつとあけようとしたけれども、陰で先生がしつかり抑えてゐるらしく、ちつとも襖は動かなかった。
「あきませんか。」海軍志願の松野君が進み出て、「僕がやつて見せませう。」
松野君は、うむと力んで襖を引いた。中の先生も必死のやうである。ちょつとあきかけても、またぴしやりとしまる。四、五度もみ合ってゐるうちに、がたりと襖ははづれて私達三人は襖と一緒にどつと三疉間に雪崩れ込んだ。先生は倒れる襖を避けて、さつと壁際に退いてその拍子に七輪を蹴飛ばした。藥鑵は顚倒して濛々たる湯氣が部屋に立ちこもり、先生は、
「あちちちち。」とさけんではだか踊りえお演じてゐる。それとばかりに私たちは、七輪からこぼれた火の始末をして、どうしたのです、先生、お怪我は、などと口々に尋ねた。先生は、六疉間の真ん中に、ふんどし一つで大あぐらをかき、ふうふう言つて、
「これはどうにもひどい茶會であつた。いつたい君たちは乱暴すぎる。無禮だ。」とさんざんのふきげんである。
私たちは三疉間を、片づけてから、おそるおそる先生の前に居並び、そろってお詫びを申し上げた。
「でも唸つていらつしゃつたものですから心配になつて。」と私がちょつと辯解しかけたら、先生は口をとがらせて、
「うむ、どうも私の茶道も未だいたつてをらんらんしい。いくら茶筅をでかきまはしても、うまい具合ひに泡が立たないのだ。五囘も六囘も、やり直したが、一つとして成功しなかつた。」

先生は、力のかぎりめちやくちやに茶筅でかきまはしたものらしく、三疉間は薄茶の飛沫だらけで、さうして、しくじつてはそれを洗面器にぶちまけてゐたものらしく、三疉間の真まん中に洗面器が置かれてあつて、それには緑の薄茶が一ぱいたまつてゐた。なるほど、このていたらくでは襖をとざして人目を避けなければならぬ筈であると、はじめて先生の苦衷のほどを察した。けれどもこんな心細い腕前で「主客共に淸雅の和藥を盡さん」と計るのも極めて無鐡砲な話であると思つた。所詮理想主義者は、その實行に嘗つてとかく不器用なもののやうであるが、黄村先生なやうに何事も志と違つて、具合ひが惡く、へまな失敗ばかり演ずるお方も少ない。案ずるには先生はこのたびの茶會に於いて、かの千利休の遦訓と稱せられる「矢の湯とはただ湯を沸かしてちゃをたてて、飲むばかりなるものと知るべし」といふ歌の心を實際に顯現して見せようと計ったものであらう。ふんどし一つのお姿も、利休七ヶ條の中の、
一、夏は涼しく
一、冬はあたたかに
などといふところから暗示を得て、殊更に涼しい形を裝つて見せたのかもしれないが、さまざまの手違ひから、大変な茶會になつてしまつてお氣の毒な事であつた。
茶の湯も何も要らぬ事にて、のどの渇き申候節は、すなはち臺所に走り、水甕の水を柄杓もてごくごくと牛飲仕るが一ばんにて、これ利休の茶道の奥義と得心に及び申候。
といふお手紙を、わたしはそれから數日後、黄村先生からいただいた。
(全6P359)

(つづく)

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