第三十四回 中 勘助 ――伝えにくい手揉茶の秘訣(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

静岡市に在住の方なら新聞の中勘助文学記念館に脚を運ばれた事もあるだろう。そこには作家中勘助を偲ぶゆかりの品々が展示されているが、復元された杓子庵もなかなか素敵な建物である。
中氏の作品の中で有名なのは何と云っても、「銀の匙」。その解説には和辻哲郎のそれが最も適確。

和辻哲郎の解説
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その最初のまとまった作品がこの『銀の匙』の前篇なのである。それは明治四十四年の夏、信州野尻湖畔(のじりこはん)において書かれた。作者はその時二十七歳であった。
この作品の価値を最初に認めたのは夏目漱石である。漱石はこの作品が子供の世界の描写として未曾有(みぞう)のものであること、またその描写がきれいで細かいこと、文章に非常に彫琢(ちょうたく)があるにかかわらず不思議なほど真実を傷つけていないこと、文章の響きがよいこと、などを指摘して賞賛した。そうしてこの作品は翌年漱石の推薦によって東京朝日新聞に掲載せられた。当時この作品を漱石ほどに高く評価した人は多くはなかったであろう。しかし今にして思えば漱石の作品鑑識眼はまことに透徹していたのである。
『銀の匙』後篇は翌大正二年の夏叡山(えいざん)で書かれた。漱石はこれを前篇よりもいっそう高く評価した。これもやがて同じ新聞に掲載せられた。   (岩文)

東京のど真中神田で生れた「銀の匙」の主人公はその少年期を小石川の高台で過ごすこととなった。そこは閑静な屋敷街があり、随処に茶畑が点在していて、読む人は一世紀前の東京の茶畑風景をよく知らされる。そしてこの作家の書いた茶についての繊細優雅な趣に作者の先天的な詩人としての感受性の鋭さを知らされるにちがいない。
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小石川の茶園
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このへんのものはみな杉垣をめぐらした古い家に静に住んでいる。おおかた旧幕時代から代代住みつづけてる士族たちで、世がかわって零落はしたがまだその日に追われるほどみじめな有様にはならず、つつまやかにのどかな日をおくってる人たちであった。それに人家もすくない片田舎のことゆえ近処同士は顔ばかりか家のなかの様子まで知りあってお互に心やすくしている。朽ちたまま手をいれない杉垣のうちにはどこにも多少のあき地があって果樹など植えられ、屋敷と屋敷のあいだには畑がなくば茶畑があって子供や鳥の遊び場になっている。畑、生垣、茶畑、目にふれるものとして珍しく嬉しくないものはない。
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すこしばかりの茶畑を間にして南隣りに少林寺(しょうりんじ)という禅寺があった。……門から玄関まで二十間(けん)ばかりのあいだ二行に敷かれた石の両側が荒れた茶畑になって、ところどころ杉の木やなにか立っている。私はよくその茶の花をとってもらったが、枝にもろいその花はひとつとるとはばらばらといくつもいっしょに散って地に落ちた。また雨のあとなどには茶の木茶の木に雫がいっぱいたまってきらきらと光っている。なんの奇もないながらかすかなさびのある茶の花は稚(おさな)い折の思い出にふさわしい花である。円(まる)みをもった白い花弁がふっくらと黄色い蕊(しべ)をかこんで暗緑のちぢれた葉のかげに咲く。それをすっぽりと鼻へおしつけてかぐのが癖であった。左りての閼伽井(あかい)のそばの木犀(もくせい)は花がさけば甘い香を漂わせ、その井戸車の軋る音は静な茶畑をこえて私の家までもひびく。……

お國さんとかくれんぼのとき
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やっとの思いでそこを通りぬけて茶畑のほうへゆくと隣の乳牛が埒(らち)のうえから頸(くび)をのばして めえ という。それが怖いので茶畑のなかはいいかげんにしてお庭をさがす。大きな木が沢山あるのでなかなか見つからない。あたりを見まわしても誰もいないし、帰り路には牛と鵞鳥が待ちかまえてるし、心細くなって「もういいかーい」と
呼んでみる。   (岩文 銀の匙P59)

後の「しづかな流れ」に岩波百合子との会話がある。(全六P94)
………
その話しぶりやものごしがお母様ゆづりだといふことを私は最初の瞬間から見てとつた、茶の湯で練りあげたとでもいひたいやうな沈著ぶりも。それから百合ちやんの今の住居の話になつて、私は四十年も昔小石川の家が建つた頃の様子、杉垣や、野菜畑や、茶畑や、雉子(きじ)の声や……今の郊外には見られないのどかな有様を語つてきかせた。……
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少林寺の老僧

ある日のこと貞ちゃんの留守にひとりで遊んでたときに離れでれいの蜩(ひぐらし)の鈴が鳴った。が、折あしく茶の間には誰もいなかったので私は思いきって離れへいった。橋をわたったところのうす暗い部屋には衣桁(いこう)に輪袈裟(わげさ)や数珠がかかって香(こう)の薫(かおり)がすーんともれてくる。私はそこまでゆきはしたものの急に気おくれがしてためらっていた。耳の遠い老僧は足音がきこえなかったかまたからからと鈴を
鳴らした。私はようやく襖をあけて手をついた。彼方はなにげなく大きな茶托をさしだしたがふと顔をみて
「おお、これはこれは」
といった。私は瞼をふるわせながらお辞儀をして茶托をうけとり、はずかしいような、嬉しいような、大願成就したような気もちで茶の間へきて見おぼえたとおりそこにある番茶をいれてもっていった。橋が朽ちてゆらゆらするのでともすればこぼれそうになる。頭をさげて出したらまた
「おお、これはこれは」
といった。私は静に襖をたてほっとして橋をわたった。それからはときどき家の人のかわりにゆくことがあったが、私はいつも どうかして話をする機会を得たい とそればかり願っていながら前へでるとなにひとついい得ずに黙って茶碗をうけとり、黙って茶碗をさしだして帰ってくる。さきは梟(ふくろう)かなぞのように おおこれは をくりかえすばかりでちっとも言葉をかけない。黒塗りの茶托を手にうけて橋をわたるとき南天の実をくいにきたひよ鳥があわただしくたって茶をこぼさせたこともあった。月の夜なぞに白い花がほろほろと橋のうえに散ってたこともあった。 (岩文P182)

幼年の頃より、茶の花、茶畑を愛した詩人中勘助は戦時中静岡のはとりに疎開、戦後も暫らく滞在し続けたので、茶についての観察と理解が深く、多くのことを云っている。ここには主としてその詩、及び随筆小品、和歌、俳句などそのいくつかをあげてみる。

◇さ月はとり
さ月はとりは茶つみのさかり
山は蜜柑の花ざかり
風がさそへば里まで匂ふ
はとり娘の香ににほふ
みんなみな月田植ゑのさかり
野らは娘の花ざかり
つづやはたちは嫁入りざかり
つめやたんぽぽ蓮華草
刈れや鎌もつて大麦小麦
恋のひとすぢ矢羽根むぎ
かるは黄金ようゑるは緑
かはい白妙頬かむり    (全10P222)

◇はとりや茶どころ
ほとりや茶どこよ蜜柑どこ
山にや黄金の鈴がなる
ほんによいとこ酒もある
蕪に大根さつまのさかな
梅ぼし茶漬でざぶざぶと
うはばみみたいに飯もくふ  (全9P43)樟ヶ谷

◇茶籠
つんで山なす茶籠を背負つて
であふ管笠ぬしやたれ
角にイの字はお山のしるし
ももの花笑みあひじるし
声をかければふりむく笑顔
さつきあやめか燕子花(かきつばた)
(全10P234)

◇ほほじろ
とんで隣の柿の木に
とまつた頬白のいふことにや
一筆啓上
古歌に曰くぢやなけれども
ここはおそばの花ざかり
豌豆は実になり申そろ
田うゑ麦かりそのまへに
茶つみにせいだし申候
さつさ鞍おけ荷馬に車
茶箱まんまん町へ出せ
(全10P117)

◇茶の花
雨あがりの 納屋のかげに
ぶらりとさがる 支那瓜
柑子みかん 茶の花
ねぎの畑 藍のはた
藍の花 くれなゐにさき
そのそばに 黄菊さく
なきのこる 虫をききつつ
あひるの行水を みてゐれば
渡し舟に のりおくれて
おうおうと 岸によぶ人
雨ぐもは ひくくかかり
沼のなみ つめたくよる
ひとりたち しづかにおもふ
うれしくもわれは ここに来しかな
(全5沼のほとりP52)

◇小春の沼べ
雨あがり 茶ばたにむるる 赤とんぼ
篠きりて となりの茂平 とやつくる
帆の影も ほのぼのかすむ 小春びより
夢にきく うしろの岡の 頬白のこゑ
(全5沼のほとりP88)

◇番茶のかおり
山風や吹きおちぬらし
夏ながらしみる底びえ
心すみふけゆく宿に
かいなでんつま琴もなし
ぽつぽつとつまむ煎り豆
独り汲む番茶のかをり
うつせみの世をわび人に
たへがたき雨の音かな
(全6P142しづかな流れ)

◇番茶の茶漬
はたけ仕事にわしやくたびれて 湯あがり独酌二杯の麦酒
茄子の丸漬ばんちやの茶漬 調子はづれのおばこ節
四十ひとり者役なし苦なし 生きたかひもなし死にたくもなし
わろてたもるなお隣さんえ わしは大事は瓜かぼちや
(全5Pしづかな流れP244)

番茶のだしがら
十一時半になつた。まだすこしぬるいので簡単な昼飯にかかる。茶の間の火鉢に網をかけて半斤のパンをきりきりバタをつけてやきながらたべる。紅茶をいれるのが面倒なので朝の番茶のだしがらに熱い湯をさしてのむ。私はこれらのことをなにがなし踊躍の心をもつてやつてゐる。
(全5沼のほとりP26)

◇寒の凪
うらうらと寒の凪ぎ
野川で逢つた鶺鴒の句を案じつつ
小一里田圃をさまよつてもどれば
麦飯のたきたて
こんにやくの煮つけ
番茶の出花
梅の青漬もある
腹はへつたり
がうせいだぞ こりや
(全10P357)(羽鳥二)

(つづく)

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