第三十五回 中 勘助 伝えにくい手揉茶の秘訣(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

中氏の家族に対する愛情の濃やかは大方のよく知るところであるが、ここに兄嫁と兄に対する気持をあらわした詩や文章がある。

病床の姉をおもう

昭和十七年一月
十五日

番茶をいる

三十年の病苦
四十年の涙
あたしはもう生きがひがないよ
死んだほうがよつぽどらくだ
と気の毒な姉はいふ
それはほんとにさうだけれど
川むかうでは手がとどかない
ならばこちらにひきとめて
らくがさせたい してもらひたい
さう思ひつつ夜寒の茶の間に
たちぎえの火をおこして
病床の姉のために
がさがさと番茶をいる   (全8P8)

亡き兄をおもう

遺品
……その頃兄はもう重い鮎竿を使へないくらゐ老衰し、大抵は竿をもたずに、それでも釣師らしいいでたちだけはして釣りの景況を見物にいつた。
癈人となつて三十年、天気と健康のゆるすかぎり、終に体が堪へられなくなるまで存分に好きな釣りをすることができたのは不幸中の幸ひであつた。
実に大きな幸ひであつた。これなくば兄も周囲の者もまつ黒に落ちかかつてくる日日の重圧に押し潰されてしまつただらう。……

次にはちやうど両手のなかにはひつてしまふくらゐ小さな急須(きふす)である。本来は水入れだらうがそれを急須に使ふやうに姉が見つけてきたので、物に当つて壊れないために細かく編んだチョコレート色の網袋で包んである。
こんなところにも親切に行き届いた姉の骨身を惜まぬ世話が偲ばれる。
兄は七つ道具ともいふべき鉤、糸、てぐす、おもり、鋏、餌箱、鎌などといつしよにこの急須を小判型の小桶にいれ肩にかけて出かけてゆく。
……たなごのしゆん……急須は自慢の創意で弁当をつかふときに魔法瓶の湯をさして茶を入れるためである。兄は味にかまはずよく茶をのむはうだつた。
そこからこんな思ひつきも生れたのである。釣り場でお仲間に茶を入れてあげたら喜んだなぞいつて得意だつた。
自園銘茶と朱印のあるどこかの店の袋を切つて拵へたままごとめいた茶袋も残つてゐる。
袋をはつた人も茶を入れた人もあと先にいつてしまつた。
兄は今頃三途の川で茶のないのをかこちながら釣りをしてるのだらうか。 (全11兄さんどこにゐる)

兄さんどこにゐる
はやく釣りにいらつしやい
ここははとりの藁科川
鮎もゐます うぐひもゐる
忘れていつた急須もある
茶を入れてあげませう
はとり名物の新茶
あなたがくれば私は
いつでも喜んで迎へます    (全8P293)

新茶
………
新茶をいれてきてくれた。うまい。幾杯ものむ。茶はまた腹の底から吸收されて、五體をめぐつて、睡後のげだるさを指先の神經からまでも追ひだしてしまふ。その神經の末端までが潑刺と目ざめてゆく氣もちよさをおぼえる。
茶後そとへでる。西風がふいてゐる。
 (沼のほとり全5P37)

玉露のやうな話
………
誰か玉露のやうな話をしてくれる人はないものか。しみじみと味ひながらききたいと思ふ。
 (全6P213しづかな流(2))

茶をたてる
………
つぎの日粥。たべたあとがまだ痛い。徹底的に養生したいのだがそれができない。そのうち兄が茶をたててくれといひだした。ことだ。
兄は昔すこしはやつたこともあつたやうだけれど私は時世もちがふし、東西にごろつき歩いて茶筅なぞもつをりもなかつた。
が、そんなことはいつてゐられないので祖仏共殺と度胸をすゑてやをら掻きまはす。茶のはうでつきあつてくれてどうにか泡がたつた。
兄貴感心?してのむ。でお調子づいて自分も一服のむ。   (全6P175しづかな流(2))

病後の茶
………
私は元気が恢復したためにかなりな空腹と、そして午睡ののちにたびたびある糖分と興奮性の飲みものに対する渇望を覚えた。そこへちやうど誂へむきにおばさんが茶と菓子をもつてきてくれた。私はそれを貪り食って悉く平げ、茶も湯のありつたけのみほした。
これは舌の感ずる味ではなくて胃袋の感ずるうまみである。私は病気のなほつたことを喜ぶと同時に病気によつて幸に否応なしに齎されたところの落ちつきと楽易とを失ふことを惜んだ。   (全5沼のほとりP262)

茶摘の風景
………
忘れ庵から見わたせば農園は茶つみで賑つてゐる。茶畑の緑のなかに菅笠があちらこちらに見える。その笠が仰向くと笠の下はどれもお馴染みの顔である。五月の風が爽に吹いて日光がうららかに農園に降りそそいでゐる。今日は昼食後二時頃までうたた寝をしてしまつて来るのが遅かつた。で、帰りも遅れて後ろの山の影が傾斜地の畑に大きく蔽ひかかるじぶんだつた。が、茶つみの人たちはまだやめない。台所へいつたら奥さんだけ先に戻つて夜食の支度をしてゐた。沢庵をもらふ。好物であり、久しぶりでもある。
…………
早ひるをすまして山へ。茶つみで家はがらんだうだつた。風呂場で水の音がしたので見ればいつもの後ろ結びに手拭を被つた豊子さんが洗濯をしてゐる。挨拶をして裏へ出たら木から木へわたした竿に和子ちやんの著物が三つかかつてゐた。  (全10P223)
…………
苗代には籾がまかれ、人びとはあとの仕事を案山子にまかせて岡へ茶つみにあがつた。高いところの茶原――茶畑をこのへんではさういふ――に小さくちらほらとあねさんかぶりの手拭がみえる。道でゆきあふ者もみな茶つみの籠を背負つてゐる。けれどもこの茶どこの茶つみには唄がない。私ははじめそれを戦時下の遠慮かと思ひ、また手づみが鋏づみになつたせいかとも思つた。――因に私ども都会人が錦絵などで見なれた手づみといふしかたは今ではとびきり高級品のためだけのもので、普通鋏づみが行なはれる。茶つみ鋏はざつと植木屋の刈込み鋏に袋をとりつけたやうなもの、私は勝手にペリカンと名づけてゐる。
それはペリカンが大きな嘴で魚をだぶだぶの袋にくはへこむみたいに刈りとつた茶の葉がだん袋へおちるしかけになつてるからで、ただペリカンの嘴は上下に開閉するのにこれのは左右にするだけのちがひがある。手づみと鋏づみのあひだには細かい利害損失があるとはいへ鋏づみのほうが八九倍も能率があがる。――しかしきいてみるともともと唄はあまりうたはなかつたらしい。茶つみばかりか田うゑにも蜜柑つみにも唄はない。
一般に唄は人びとの勤労の舞台から急速にきえさりつつあるやうにみえる。それは人手にかはる機械が唄を駆逐したといふよりは生産が人間を駆使しだしたからであらう。人びとはもはや気分的にも時間的にも勤労のかたはら唄をうたふ余裕をもたない。営営として生産に励む彼らは利潤を喜ぶけれど自分の仕事を楽しむことがなくなつた。そこからいろいろの禍が生ずる。勤労の舞台から唄がきえさることは芸術的感傷をおいても我われの社会にとつて由由しい問題を含んでゐる。   (全9P109)
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短歌

茶の花

わがうゑし芽ばえ茶の花さきにけりあらかはいお茶のこの花 (全5Pしづかな流れP259)

樟ヶ谷
山里の茶の花さきぬ露ながらさびしき人の魂にそなへん  ⑨24
籾をまき茶つみ麦かり初夏のはとりはせはし筵おる音   ⑨113⑭藁
藁科や若葉かがよふ初夏のはとりはうれし新茶のかをり  ⑨113
奥ふかく暗き家なみつばくらめさ月茶町は焙炉のかをり  ⑨152⑭藁

俳句

桐の花茶つみの人眠げなり   ⑩57
若葉して命めでたき新茶かな  ⑩57
うの花とふりこめられて侘茶かな ⑩58
琴の音もそふや手越の茶つみ唄  ⑩75
うの花や宇治芦久保の茶のかおり ⑪35
山姥の茶せようの花ほととぎす  ⑬61
京ちかき日野はめでたき茶つみ哉 ⑫32
ゆめちさし妹がはとりの茶つみ笠 ⑪111
松風もききえぬ老の侘茶かな   ⑪57
  (和歌・俳句いづれも一覧表による全14巻末)

手揉のお茶
中勘助氏は、戦時中の疎開先である羽鳥の石上誠一翁の手揉のお茶の談話に深い関心を寄せ、それを一本に纏める事に執念を持っていた。この事は当時の知人諸氏宛の書信に明らかである。本稿は昭和二十二年に筆を起こされ二十八年に脱稿されている。しかしその出版については小宮豊隆氏の奔走にも拘わらずついに日の目を見るにいたらなかった。過般の事情について次の如く述べられている。

『手揉のお茶』前書

病気と戦争がもたらした思ひがけぬ御縁で私は戦時から戦後へかけ約四年半、当時の静岡在服織村で専ら石上数雄氏に非常なお世話になつた。初めの転地静養がそれなり疎開になり、終戦直前に東京の家が戦災をうけて帰る所がなくなつたためである。私はこの二度とない、あつてはならぬ生活の記念となる事を何かしたいと思つてたところ、たまたま数雄氏の本家石上誠一翁が年来の製茶の苦心談を記録しておきたい希望がある由を数雄氏からきき、また勧められて、いはゆる一石二鳥式に翁の談話を筆記することになつた。その筆記を読みやすくわかりやすくするため多少の手を入れたものが「石上誠一翁の談話」である。しかし原稿は出来たものの発表の機会を得ないうちに誠一翁は亡くなり、最近数雄氏も亡くなつた。その数日前和雄氏は静岡県製茶手揉技術保存協会会長佐藤英雄氏に上記の筆記がある旨を話されたさうで、同氏から私にそれを協会で印刷させたいといふ交渉があつた。私としてもそれによつて何程か誠一翁と数雄氏の遺志にそへるのはまことに仕合せな次第である。
昭和三十五年七月十三日 (全14P314)

以上の経緯をへて中氏の「手揉のお茶」の刊行は手揉保存協会(会長佐藤英雄)の手によって行われる事になった。本書は四十二頁の小著ではあるが多くの生産家、技術者にとって恰好なテキストであったばかりでなく今でも製茶のプリンシプルを説いた書として高い評価を受けている。現在手揉の技術は手揉保存協会のメンバーによって伝承され、その並々ならぬ御精進に大いに敬意を表する者であるが、欲を云えば一般の消費者が飲んで直に手揉茶のすぐれた香味を感知出来れば大変結構であると思う。
尚佐藤英雄は筆者の岳父であった関係で、東京中野の中氏邸訪問の際にお伴をさせて頂いた。氏は端正風雅の人に見受けられ、印象深かった。
又氏はその翌年は朝日文化賞を受けられたので、お祝に掛川小夜の中山の茶を差し上げたが中山に足を運ばれた事もないのに、さすが文学者この地の歴史上の事実にも明るい方であった。
終りにお茶とは関係ないが、中さんに辞世の句といわれている句がある。

圑栗(どんぐり)の落ちるばかりぞ泣くな人

なかなかになかせてくれるなかさんか。

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