第三十六回 井伏 鱒二 戦国武将の茶会(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

常民作家 井伏鱒二

井伏鱒二は庶民の暮らしの中のユーモアをたっぷり描いた独創的な作家と云われている。加藤周一は庶民のかわりに柳田國男の云う常民という言葉を使っているが、井伏がマルクス主義文学に捲きこまれず、又戦争宣伝にもくみせず、一貫して自分自身の世界を堅持した事を高く評価している。

井伏の作品の多くは普通の人の生活の場であり、会話の中に出てくるお茶は屢々挨拶代りでもある。例えば「お茶でも飲もうじゃないか」とか「せめてお茶でも飲みませんか」とか「失礼お茶もまだ差し上げないで」とか、そういった塩梅式なのである。そしてその文章の中には、随所に葉茶屋、茶の湯、茶席、茶の師匠、煎茶、番茶、玉露、薄茶、濃茶、紅茶等々茶に絡んだ言葉が散見される。まことに人間の日常生活にはお茶がなくては始まらないではないかと云った気分にさせてくれる。だがお茶のもつ嗜好品としての価値や薬学的効用に迄は筆が及んでいない。いささか物足りない感じがしないでもない。

井伏が相当な酒豪であった事はその創作のはしばしにうかがえるが、日頃自宅での分筆活動にはお茶をたっぷり嗜んでいたのではあるまいか。全集二十六巻の口絵写真は和室書斎で、机上に大きな湯飲茶碗がある。撮影者は土門拳。さすがに美事と云うしかないが、井伏は井伏流で煎茶を愛していたにちがいない。尚又しても横道にそれるが、口絵写真には魚釣風景が断然多く次は将棋さし。御神酒独酌場面もないではないが多いとは云えない。いずれも磊落酒脱な人柄が偲ばれて、多くの人に親近感を持たれる所以であろう。

扨、井伏の傑作と云えば「夜ふけと梅の花」「山椒魚」「鯉」「屋根の上のサワン」etcの短編をあげ、そこに冷静なレアリスの眼を感ずると云う人(辻邦生)もあるが、他方には「厄除け詩集」のもつ漢詩と俳句の詩的世界のすばらしさを指摘する人(大岡信)もある。更に云えば「黒い雨」のもつ日本文学史上の価値をたたえる人(大江健三郎)もある。然し、さわさりながらである。われわれのごとく只管茶に関心を寄せる者としては、「神屋宗湛の残した日記」や「鞆の津茶会記」の強烈なインパクトを忘れる訳にはゆかない。
後段ではあるが、この二つの物語りにウエイトを置いてみたい。

岩田九一氏

井伏の作品には知友の風貌、姿勢を描いたものが少なくない。狭山の岩田九一氏の事は全集中三度も採り上げられている。みだしは「太宰治と岩田九一」(全24)「岩田九一君のこと」(全19)「岩田君のクロ」(全7)等。岩田九一氏は埼玉の狭山茶製造業者の次男坊、早稲田大学卒業後村役場に勤めたが、病を得て夭折された。なかなかに文才があり、諧謔も心得ていた人物らしい。井伏は岩田九一=ガンデンキュウイチは畜生と読めるとおふさげを紹介しながら「岩田君のこと」の中で「虫が好くと云ふのであろうか、私自身は彼の作品の最も熱心な読者の一人であると思ってゐる」と記している。所謂るべた惚れである。
岩田氏の作品の中では軍鶏に関する話が傑作と云われているがお茶のことも少しはある。

美校生の揉んだお茶
………
岩田君は「お袋の流儀だね」と云つて、お袋は何かにつけ不器用で、お茶を揉むのも器用ではないと云つた。(尤も女は茶を揉むものではない。)
狭山茶は粗末なものは機械で揉み、上等の茶は手で揉むが、器用と不器用では製品にずゐぶん優劣の差がつくさうだ。茶を揉むにも、五百人に一人、千人に一人ぐらゐ天才的な人がゐるさうだ。
「私が子供のとき、うちへ毎年のやうに美術学生の生徒が来てゐたがね、その美校生は確かに天才的な人でした。この人のは神技だね。」
と岩田君が云つた。

その美校生は、ある年の春、岩田君のうちで茶を揉んでゐると、ふらりとやつて来て「茶を揉む手伝ひさせてくれませんか。私は宇治の者です。少し経験がありますから」と云つた。揉まして見ると対した腕前であつた。しかも賃銀を呉れと云ふのではない。美術学校に入学したばかりの一年生で、日曜のことだから入間方面へ野外写生に来て、画材を物色して歩いてゐると製茶の匂ひがするので寄つてみたにすぎないさうであつた。よほど茶の匂ひが好きな学生であつたに違ひない。夜になると最寄の安宿に泊つて、また翌日やつて来て茶を揉んで、仕事に区切りがつくまで手伝つてゐた。しかし名前を聞いても云わなかつた。その翌年の春も、その学生はまた名なしの権兵衛としてやつてきて、その翌年も翌々年も来たが、みんな心待ちにしてゐたのに五年目からは姿をみせなかつた。「今ではもう一人前の画家になつてゐるでせう。一度、会つて見たいもんだがね。でも、名前を告げないんだから、仕様がないね。」     (全19P489)
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太宰治と岩田九一
…………
岩田君は朴訥な青年であつた。朴訥すぎるほど朴訥なので、言ふことがふとしてユーモラスでもあつた。日曜日には弁当持ちで小手指(こてさし)村から自転車で荻窪にやつて来て、小説の習作を太宰君に見せ、太宰君がそれを読んでゐる間に岩田君は太宰君の習作を読み、あとで互に批評する。お昼になると太宰君が食事をする間に岩田君は弁当を食べる。午後三時ごろになると岩田君は自転車で帰つて行く。
………
岩田君は病気になつてから「文芸首都」と「早稲田文学」に作品を同時に出して、朝日新聞で永川烈といふ月評家に二つとも激賞された。「早稲田文学」に出した短編は、戦後何年目かに新潮に「知られざる傑作」といふ見出しで再録された。
岩田君の習作の一つに、お母さんから結城の着物を買つてもらふことを材料にしたものがある。日ごろから結城の単衣がほしくてならなかつたので、お母さんの御機嫌をとるため、夕立が来ると庭に干してある麦を大急ぎで土間に入れる。てきぱきと家事の手伝ひをする。お母さんは伜を見直して、伜の言ふままに結城の着物を買つてくれる。岩田君は嬉しくて仕様がないので、それを着て東京へやつて来たが新宿で夕立にあつて、びしよ濡れの着物は結城の単衣だからスルメイカを焼いたやうに縮みあがつてしまふ。泣く泣く小手指村に帰つて行くと、東京の方角にあたつて空に美しい虹が立つてゐる。
さういう話になつてゐる短編である。無論、これも太宰君は原稿で読んだに違ひないが、この作品が雑誌に出ると、我がことのやうに喜んだ太宰君は、私のうちにやつて来てその作品の筋書を話した。愉快さうに笑ひながら話すのであつた。可笑しくてたまらないやうに、または絶え入るやうに笑つたりした。岩田君にとつて太宰君はいい読者であり、いい友達であつた。
(全24P446)

筆者も嘗て茶の流通業者の端くれであったから、岩田万蔵氏の御活躍は仄聞していた。だが九一氏については知るところがない。茶業界から出た逸材の夭折が惜しまれる。

釣名人佐藤垢石とお茶
…………
暫くすると、今度は土瓶や湯呑みをお盆に載せて持つて来た。土瓶の口も蓋も湯呑みもみんな少しづつ欠け、湯呑みは大きなのや小さいのや一つ一つ不揃ひであつた。この貧弱な湯呑み道具といひ、また老人の貧しげな服装といひ、その惨めさはあまりにも念入りに出来てゐた。
しかし老人はにこにこと笑ひながら云つた。
「どうか、お茶を飲んでおくれ。お前さんがた、塩茶の方がよかつたかね。それなら、俺は塩を持つて来るからね。」
「いや、これで結構。おぢいさん、では頂戴します。」
普久さんがさういつて先づ湯呑みを持つたので、私たちも老人の手から順々に湯呑みを受取つた。
私はぬるくなつてゐるお茶を一と息に飲んだ。垢石はぬるいお茶をいかにも熱さうにすすつたが、さすがにこれは苦労人でなくてはできない芸当である。彼は一と口づつゆつくり啜つてから。おぢいさんの耳元に口を近づけて云つた。
「御馳走さま。このお茶は、とてもうまいよ。」
「さうかね、それではもう一ぱい飲めよ。」
老人は垢石の湯呑みにお茶をつぎ、
「このお茶は、もらひものだよ。いつも俺の渡船に乗る女の子が、今年はこんなお茶を自分のうちで製造しましたと云つて、持つて来てくれたよ。女の子は男の子とちがつて、つきあひが派手だからね。こんなお茶を一斤も持つて来てくれたよ。」
垢石の顔には微笑が込みあげてゐた。普久さんの顔にも後藤さんの顔にも、微笑が浮かんでゐた。老人は私たちの手に持つてゐる湯呑みにお茶をつぎ、土瓶を河原の石ころの上に置いた。(全9P483西金の渡し舟番)

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