第三十七回 井伏 鱒二 ――― 戦国武将の茶会(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

上田秋成の湯呑みと茶柄杓立て

三郎氏のお父さんは明治十何年ころ東京に遊学中、神田の古本屋さんで当人のまだ一度も聞いたこともない上田秋成著「雨月物語」を買つて来た。読んでみるといかにも面白いので秋成研究に没頭し、京都の磯谷扇を訪れたりしてから「雨月物語」を解説風の序文つきで翻刻出版した。そのころはまだ井原西鶴などのことも井原ニシズルといつてゐた時代で、秋成が再吟味されだしたのもそれからだといふことである。その「雨月物語」の原本も翻刻本も私は見せてもらつたが、翻刻本は明治二十一年発行、原本は木版刷りの初版本で奥附のところに土佐高知町の貸本屋の所蔵印がおしてあつた。

秋成自製の湯呑みや茶柄杓立てなど秋成晩年の道具類は、京都の西福寺といふ寺の物置にうつちやつてあつた。それを譲り受けて来たさうである。西福寺の和尚さんが晩年の秋成を畏敬してゐた関係から、西福寺を菩提寺にして生前使用の道具も納めたといふことで、三郎氏のお父さんが訪ねたときにはその和尚さんから数へて三代目の和尚さんになつてゐた。それでも三代目の和尚さんは秋成とは何者であるかちつとも知らなかつたさうである。後に秋成が問題にされだしてから西福寺では湯呑みや茶柄杓立ての写真を絵葉書にして売り出したが、その原品は三郎氏のところにある。

茶柄杓立ては色が古備前に似てひよろひよろの焼物の筒で、しかし備前焼の土ではなく祖悪な土を用いてある。湯呑みは生前の秋成が大津の画家文麗を訪ねたとき、その庭さきにあつた陶土をこねて秋成が造り文麗が菊の花の模様を描いてゐる記念品である。これは五つ揃つてゐる。陶器としてはお粗末なもので侘しげに見える品物だが晩年の秋成はこれをいつも座右に置いてお茶を飲んでいたさうである。ほかには何の湯のみ道具も持つていなかつたのだらう。秋成は貧乏で、偏屈で、怒りつぽくて、頭がつるつる坊主で、小男で、学者仲間からきらはれて、しかしながらも一大見識を持つて強く生きてゐた。

私は三郎氏所蔵の何十枚もの反古を見てゐるうちに、隷書で丁寧に書いた寒山詩が何枚もあるのに気がついて胸ををどらせた。それは一枚も持つてこようと思つたからではない。この寒山詩は、おそらく詫び住ひしらすために、しょんぼり机について書き耽つた名残の品だらうと考へたからである。

寒山詩は何枚も何枚も、みな丁寧sに隷書で書いてあつた。よくせき寒山村に心を寄せてゐたのにちがひない。強く生きた人の寂しさである。ますらをさびした人の寂しさである。(全9P515上田秋成のつづけ字)

茶店開店の挨拶

娘は開店の挨拶や言葉を、この主人に教へてもらつて暗誦してゐた。彼女はちやうど藩の学問所に入門したての子供が先輩に挨拶するときのやうに、ませて小僧らしいことを初々しく顔をあからめて言つた。
「今度から御当地に、この店を開きましてございます。せい一ぱいおつとめいたしまして、御酒に緑茶に出花、渋茶、渋い甘いはお天気ものの不束娘の私、出花と申すもおこがましい渋茶づらではございますが、どうかお引き立てをお願ひいたします・・・・・・・」
「いや、どうしてどうして、それが渋茶づらなら、われわれは出がらしの茶殻になりたいわさ。」
田野村氏といふ若ものがわざとそのころ流行の下司ばつた調子で娘の挨拶を混ぜ返した。
「われわれは出がらしの茶殻になる前に、一こん酒を飲むとしよう。それにしても異様な店の構へぢや。」
(全4おらんだ伝法金水P95)
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盗難事件

「万岳、すまないがお茶を入れてくれ。玉露がいい。お前はビールでも飲め。賊がみな飲んぢまつてゐたら、亀田やへ註文して来い。」
万岳は気をとりなほして、衣紋竹を隣の部屋に持つて行つた。さうして台所に行つて、お茶の支度にとりかかつた。

・・・・・・・・・万岳がお茶を注いで差出すと、春風先生は静香にお茶を飲んだ。この先生のお茶の飲みかたは、姿勢を正しくして肘を張り、抹茶を飲む作法で玉露を飲むのである。かういふ恰好でお茶を飲まないと、飲むとき先生はお茶の匂ひが痛く冴え渡らないやうだといふのである。

茶の湯の話

青柳はさきほどから骨董屋に茶の湯の道について話をしてゐたらしい。
「で、茶碗をこんな工合に持つのは、最も安全に、とり落さないやうに、お湯に鼻の息がかからないやうに持つためだ。」
茶埦を手にとつて仕草で示しながら説明するのである。
「つまり茶の規則は、あくまでも生理的であくまでも力学的だ。もし僕に庭をつくらせるとすれば、東京市内なら筧には水道の水を引くね。地質からいつて、市内の井戸の水は水道の水にはかなはない。お茶にして飲んでみて、これは水道の水のほうが質がいいから止むを得ない。」
私は骨董茶の湯の話などには、もともと興味がない。それで失礼して客間の一隅に置いてあるピアノの蓋をあけ、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レといふやうなのを演奏した。(全5露路と人P518)

多甚古村

先生は笑ひながら私を投げとばし、私がくたくたに疲れて気絶する一歩手前まで行かないと許してくれないのである。稽古がすむと先生は私とともに井戸端で汗を拭ひ、見はらしのよい離れに私を導いて玉露を御馳走してくれる。なんともいへぬ爽やかな味と香りのお茶である。いつも私はしみじみと目を閉ぢてそれを飲み、目をあけて美しいお茶の色を見て楽しむ。
(全8P322)

・・・・・・・・
山本君の奥さんは山本君の脱いだ寝んねこで女の子を負ぶり「寒いのにお疲れでせう、お茶でもいれますけに」と台所へ立つて、用意してあったお茶とお菓子を持つてきた。熱いお茶が喉に焦げつくやうで甚だ美味であつた。私と山本君が何ばいも何ばいもお代わりをしてゐるうちに、女の子が眠いと云つて泣き出したので私は家に帰つて来た。
私は豆タンを炻燵に入れて手足を暖めた。腹の底まで冷えきつてゐたやうだが、だんだんに暖まつて来るうちに眠くなつた。お茶を一ぱい飲んで寝たいと思つたが、わざわざ自分でお茶の支度にとりかかるのと、このまま眠るのといづれかが本壊だらうと妙に贅沢なことを考へてゐるうちに、そのまま炬燵にもたれて眠つてしまつた。

庭つくり
・・・・・・・・
もし先生に御都合がつきましたら、私どもの別荘の庭を先生にお願ひいたしたいので御座いますが、いかがで御座いませう。」
私は周章て答へました。
「庭のことは、私は素人です。まるで素人です。
愛山軒老人は、私を有能で謙虚な茶人と信じきつてゐたやうです。
「御謙遜なさいます。いづれにしましても、ちょつと私どもの別荘へお寄り願へませんでせうか。塩山の直ぐ近くで御座います。せつかくお近づきになりましたので、私の不調法なところで一ぷく差上げたいと思ひますが、さうしていただければ光栄です。」

私は薄茶の飲みかたも知らないのですが、知らなくても恥辱だとは思ひません。しかも愛山軒老人は並木の桜の幹を一本づつ数へ、そして幹についてゐる青苔にいちいち手を触れてみて、苔にも年齢があると思ふなどと問はず語りに云ふのでした。

バスで塩山まで行き、それからはイヤーで高い山の麓まで行きました。愛山軒老人の別荘は、その山の麓からだらだら坂を登り松の木にとりかこまれてゐる台地にありました。
・・・・・・
「あの大石は、夢見岩といふ名前です。私の家内の弟で俳句をつくるのがをりますが、それが夢見岩と名前をつけてくれました。」
いつの間にかわたしの前には、お茶やお菓子が運ばれてありました。私は上気してゐましたので女中がそれを運んで来たことに気がつかなかつたのです。
(全7P459)

・・・・・・・・・・・
「先生、いかがでせう?」
「落ち着きましたね。どつしるとしてゐます。」
「では、離れの茶席の方へご案内いたしませう。かうおいで下さいまし。」
御隠居立つて庭に座り降りました。そして由三郎に、
「みんなにも一ぷくさしてやれ」と云ひました。
私は御隠居の後について離れの方に行きながら、薄茶を飲むときこそ全然素人だといふ私の正体が暴露するだらうと覚悟を決めました。再疎開途上

鳥取県のプラットホームに
妻子と共に一夜ごろ寝する。
・・・・・・・
僕のここの駅長を知ってゐる
松江の駅から今年栄転した
別所忠雄といふ人だ
去年 僕が松江に行つたとき
別所忠雄は駅の防空演習をづらかつて
僕を骨薫屋に案内してくれた
ぼてぼて茶埦を買ふのだが、
七軒も骨薫屋を歴訪し
どの店でも薄茶を飲まされた
おかげで僕は吐きさうになつた

・・・・・・・・
(全9P78)
(岩文厄除け詩集P93)

文芸作品にボテボテ茶はよく出てくるが、その茶埦については井上靖の「初代権兵衛」がある。オチが稍落語的ではあるが。
(全5P135)

「神屋宗湛の残した日記」と「鞆ノ津茶記」

筑摩書房井伏鱒二全集第二十七巻に「神屋宗湛の残した日記」と「鞆ノ津茶記」
の二つが収められている。いずれも中編であるが、その有難みは戦国武将の茶の湯の有様を誰にも判り易い口語文にして呉れた事にある。あの時代の日本の歴史の推移については大方のよく知るところであるが、茶会に使われたお道具や御飾りなどの由緒、故事来歴にいたっては誰しも分かりかねるところがあるだろう。筆者ごときは「原色茶道大辞典」のお世話になりっぱなし。まことにお恥ずかしい。だが、茶の湯の歴史、物語りともなればなみの小説類とは訳がちがう。解らないなりに多少は時間をかけた考証が必要になってくる。さいわい後期の高齢者の多くの方々は時間的にゆとりのとれるご時世になってきた。辞書を片手に、忘れかけた歴史の一コマ一コマを思い浮かべるのも愉しい生き甲斐ではあるまいか。

右の二編、いずれも作家井伏の戦国時代についての史観がうかがえ、興味津々であるが、「鞆ノ津茶記」の方が作家的構想が色濃く、自由奔放に見える。新潮社の自選集に「宗湛の残した日記」はない。

以下の飲用文中、項数をあらわす数字はすべて筑摩の全集二十七巻の数字を示している。

「宗湛の残した日記」

この日記について次のような前書、添書がある。含羞の作家、と云われる井伏鱒二らしい。

私は「宗湛日記」を口語訳に書き直すことを思ひついた。但、宗湛の文章には茶道特有のわからない言葉が入ってくゐる。
だから不明なところ、訳しにくいところを省略し、気に入ったところだけ書きとめることにする。自分の独りよがりの一種の遊びである。(P205)

最初、筆者はこの日記を現代文に書き直すことについて、秀吉の言葉づかひだけは本文通りに写したいと云つた。秀吉は信長の言葉づかひをそつくり真似たと思はれる。それを知りたいためであつた。筆者が信長に興味を持つてゐる所以である。(P252)

宗湛は関白秀吉の口のきき方に興味を持つてゐたやうである。秀吉の言葉だけは、この場で聞いた通りに書いてゐる。おそらく秀吉の口の利きき方は、信長に召使はれてゐた頃に聞き覚えた言葉使ひであつたらう。たいていのことは信長の真似でなはいか。もともと信長も秀吉も、生まれは八丁味噌を生産するところであった。(P212)

宗湛は、秀吉の云つた言葉だけではその通りに書いてゐるやうだが、秀吉の心情については何も書いてゐない。茶の湯の会では、人の秘事を云はないこと、家庭の自慢をしないこと、他流の悪口を云はないこと、自流の自慢をしないこと、その他いろいろ慎しむべきことがあるとされてゐたのだらう。それにしても宗湛は秀吉についても世情についても主観を何一つ云はなすぎる。(P252)

宗湛は茶席で有名な武将や名匠に会ふのを喜びとしてゐたやうだ。日記に主観をいっさい入れないのは、当時の心がけある人の常識ではなかつたかと思はれる。松尾芭蕉と奥の細道の旅をした曾良の「奥の細道随行記」も、主観を入れることはいつさい殺してゐる。誰が見ても第三者に迷惑のかかるやうなことはない。鏡に映したやうに冷静に書いてゐる。(P212)

この日記は宗湛が書いて後から誰か書き直したものに違ひない。ここに登場する人達は、誰が読んでも迷惑のないやうに四方八方に心を配つて書かれてゐる。(P252)

(つづく)

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