第三十八回 井伏 鱒二 戦国武将の茶会(3)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

宗湛にまつわる伝説

天文二十二年正月、神屋宗湛は博多を代表する大町人の家に生れた。幼名は善四郎、貞清と号した。博多の町は豊後の大友家と肥前の竜造寺家との争奪戦で廃趾となつたので、神谷家は唐津の町に避難した。後になって博多に還ってきた。(p205)

宗湛は天正十年六月、まだ二十歳代のとき織田信長に招かれて上洛し、折から本能寺を足だまりにしてゐた信長を訪ね、たまたま明智光秀の乱に遭つた。信長が宗湛に「お前は博多の田舎に居たのだから、ろくな絵は見てゐないだらう。明日は、ゆつくり掛軸や道具を見せてやる」と云つた、その直後のことであつた。明智光秀の謀反だと注進があつたとき、信長は「是非もない」と云つたさうだ。宗湛はぐつすり眠つてゐたところ、時ならぬ矢たけびの声と銃声で目をさました。すぐ動乱だとわかつたので、床の間の掛軸を取りはづし、ぐるぐる巻いて腰に差し、南蛮寺に辿る道を逃げて行つた。信長の下僕、弥助といふアフリカ生れの黒人が道案内をしてくれた。本能寺から南蛮寺は僅か二町だが、光秀の軍勢は辺りもことを忘れ、本能寺に向つて犇めいてゐた。

宗湛が本能寺から持ち出した掛軸は、好事家の間では、牧谿筆の「遠蒲帰帆」であつたとも云ひ、「煙寺晩鐘」であつたとも云はれてゐたさうだ。本当は「遠蒲帰帆」を持つて来て、自分の所蔵にしてゐたやうだ。宗湛の絵を見る眼力も然りながら、急場の起点は只ならぬものがある。

名護屋城内には、「瀟湘夜雨」の図もあつた。これは秀吉が博多の宗湛の邸に寄つて茶を飲んだとき、宗湛がそれを秀吉に献上した。そのときの宗湛は本能寺から持つて来た牧谿の「遠浦帰帆」の軸も秀吉のお目にかけた。秀吉は宗湛に向つて、「この一幅のためにも、九尺幅の床をつけた新しい茶席を経てよ。かういふことは利休でも教へてくれないだらう。」と云つたさうだ。その「遠蒲帰帆」がどこをどう巡つたか、家康のところへ秀吉の形見として行つた。(P204)

この伝承は好事家ならずとも茶の間の関係者のよく知るところであるが、井伏は次のように指摘している。

信長は本能寺の変があつた当日、博多の宗湛を本能寺に呼び寄せてゐたと云はれてゐた。宗湛は騒ぎの起こつてゐる最中、床の間の掛軸を懐中にして脱走したといふ。宗湛自身の日記はそれに触れてゐない。(p235)

又、「原色茶道大辞典」には貞清は博多の豪商、鳥井宗室に従って上洛中本能寺の変に際会し、信長の「遠蒲帰蒲絵」を携えて、ともに本能寺を脱出したといわれるがこの上洛は疑わしい。とされている。スリルに富んだ話、完全否定ではない。

宗湛の茶席

宗湛が出席した茶会は何千回もあったのだろうが、天正五年大阪城中の茶湯大会は彼にとっては最も栄光に満ちた歴史的な茶会であった。続いて利休のお茶席があり、其后天正十五年の山里曲輸の茶席、北野大茶席、衆落第の茶会等、いづれも興趣つきない内容であるがここでは大阪城と北野の大茶会に就いて転記する。

大阪城中の茶湯大会

註 場所、大阪城中の広座
時、天正十五年正月三日の朝六時頃から。
人物、神屋宗湛(三十七歳)千ノ宗易(六十五歳)
関白秀吉(五十二歳)津田宗及の他、
堺衆数名、秀吉麾下の大名小名多勢、
石田三成、小姓衆など。

・・・・・・・・・そこで境衆がみんな広座から椽側に出て行かれた。宗湛一人だけ拝見することになつたので、一応、椽側に出た後で御餝(おかざり)を拝見してゐると、また関白様の御諚で、
「大人数になるほどに、四十石の茶ばかりにては足らまいほどに、その撫子と松花の茶を、今ひかせて各々に呑ませよ。」
仰せによつて、すぐ松花の御壷を宗易が、また撫子の御壷を宗及が床から取り下し、御茶を出してから元のやうに直された。次に、御前が出た。そのとき、私どもの隣の高座に下がつてゐたが、関白様の御声で、「筑紫の坊主に、飯を食はせよ」と仰せになつたので、御前に り出て、大名衆と一緒に誤馳走を頂くことになつた。大人数のため、御座が混み合ふのでこの宗湛は今井宗久と背中合わせに坐つた。他には、京・堺の衆は一人も御前には居らず、ただ御通ひの人だけたくさん居つた。石田治部もまた御通ひで、宗短の前に御馳走を出して下された。

註 当時、茶会では先づ薄茶か濃茶が出て、次に御馳走が出されてゐるうちに、

他の部屋で御茶を挽く音がして、
次にまた御茶が出ることになつてゐたやうだ。

一、御茶になるとき、関白様がお立ちになつて、
「大人数なるほどに、一服を三人づつ飲めや。さらば籤とりて、次第を定(さ)めよ。」
さう仰せ出されたので、やがて、長さ三寸、幅一寸ほどの板に書いた名札を小姓衆が持つて来た。この札を関白様が御前(ごぜん)に投げ出されると、座中の大名衆が奪ひ取りにして、誰それは誰と誰だ、と各自に差し寄られ、さうして御茶をきこしめされるのであつた。
やがて関白様が「筑紫の坊主には、四十石の茶をとつくり飲ませよや」と仰せになつて、宗易の御手前一服巣下された。井戸茶埦であつた。ぬるく点てられてゐた。そこでまた、「新田肩衝を手に取りて見せよ」との御諚で、拝見させられたのは宗湛一人。(P214)

宗湛は最初から特別扱ひである。筑柴の坊主、坊主と呼びすてされてゐるが、利休や宗及たちの前で手厚い待遇を受けてゐる。茶人の誇りを満喫させられてゐる。秀吉は今にも島津征伐の兵を繰出さうとして、麾下の大名たちを大阪城に集めてゐる。先づ博多の実力者を支配下に入れて、家来のやうに自在に扱はなければならぬ。秀吉は殺し文句が上手な人物である。武将とは勝手なものである。(P13)
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北野大茶会

天正十五年十月一日
先に云つたやうに、北野の茶湯大会は(天正十五年)十月朔日から向う十日間にわたつて催される予定であつた。関白秀吉の権勢に一際(ひときわ)弾みがついてゐるときのことで、思ひきり派手な茶会であつた。侘茶の趣旨による庶民向きの茶会であると触れながら、怖るべき高価な茶道具や名物など展示して、街頭の高札に出た沙汰書には、茶の湯の好きな者は茶器の事など気にせず茶会に繰出して来いとの御諚が述べられてゐた。頭ごなしに触れてゐるやうなところがあつた。
茶会の当日は、関白秀吉を初めとして諸大名たちが、北野の松原にて建てた数寄屋に秘蔵の名物を飾り、百姓たちを混つて建て並べた家が百数十件に及んだ。北野の松梅院から御堂のところまで、空地が一つも無くなつたほどである。

関白様が北野で大茶会をお開きになるにつき、この宗湛に上洛するやうにとの御朱印つきの書状が来た。宗及老からの取次ぎで、飛脚の到着したのが九月十七日であつた。但し、九州から上洛するのは只宗湛一人に限られるので、必ず参上するやうにとの御手書である。取敢ず上洛することにした。
折から博多の屋敷では草を削り、暫く仮屋を掛けたところであつた。とても上洛できかねる時が来てゐたが、至上の命令であるによつて、二十二日、何事にも吉といふ天赦の日を遊び、博多を発つて十月四日に大阪に着いた。運悪く土砂降りの雨つづきで、是非に及ばず八日に上洛して聚落第についた。この日、関白様が大津から還御遊ばされたので、午後に聚落第内の宗及老の屋敷で関白様に対面した。宗及老の御取合せである。そこで関白様の御掟で「河哀いや、遅く上りたるよな。やがて茶を飲ませうずよ。」と仰せられた。忝けなしと申し上げた。

宗湛が大茶道の会に遅参して聚落第で秀吉に対面したとき、「河哀いや、遅く上りたるよな・・・・・」と云つたといふのは事実だらう。見え透いた殺し文句で、その通りの言葉づかひをしたに違ひない。宗湛は内心ぞつと寒気がしたのではなかつたらうか。秀吉の凄さも頭の廻転の早さも、もうすつかりわかつてゐた筈だ。
(P212)

註 北野大茶湯の会は十月一日から十日間興行の予定になつてゐたが、佐々成政の所領肥後国に一揆が勃発したとの報が大坂に達したので、予定を変更して大茶湯の会は一日で終了した。
(p250)

宗湛の政治的役割

註 天正十五年、島津義久は秀吉に降状した。博多の町はそれより前、大内、毛利の合戦、打ちつづく戦乱で荒廃し、神屋宗湛一家は難を避け唐津に疎開して、海外との交易で商売を続けてゐた。このたび秀吉は薩摩へ兵を繰出すにつき、宗湛に軍備の用を幾らか受持たせる一方、博多の町割の図面を側近に渡すとき、町割奉行に向つて朝鮮出兵の構想を語つてゐたと云はれてゐる。通貨を一定にするために、天正通宝の鋳造を急がせてゐた。
(P203)

茶会の大衆化

桃山初期までの茶は、何か一点でも名物品を持たなければ茶人の仲間入りが出来なかつたといふが、宗湛が堺で出席した茶の会には、名物品のないことがたびたびあつた。茶人のつながりは精神的なものばかりでなく、政治的から社交的につながり営利的につながつて、大衆的な流行となつて行くやうであつた。
(P211)

(つづく)

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