第三十九回 井伏 鱒二――戦国武将の茶会(4)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

「鞆ノ津茶会記」

鞆津茶会記の序文

私は茶の湯の会のことは、現在の茶会のことも昔の茶会のことも全然智識が無い。茶会の作法や規則なども全く知らないが、自分の独り合点で鞆ノ津の城内や安国寺の茶席で茶の湯の会が催される話を仮想した。その茶会に出席する人物は多く架空の存在であると想定し、史上で見た安国寺恵瓊や武将や坊主の他は、すべて架空の人物といふことにした。その人たちの活躍した年月は、大体に於て天正十五、六年頃から少し後のことであつたと仮定して、その当時の茶会での雑談といふことにした。(21巻P550)

全集の解題に短文がある

鞆ノ津茶会記
一九八三(昭和五十八)年七月一日発行『海燕』合計一五回にわたって「鞆ノ津茶日記」の表題で連載
………
校訂覚書き
人名や年月日などの記述に誤りや混乱があるが、原則として底本のままにした。
初出との主な異同。
二九一・1~2間[削除]←これは備後鞆ノ津を中心に近傍の各所で書いた茶会記だが、茶会記といふものは他人の悪口や気になる噂は書かないのが普通だから、鞆ノ津茶会記でなくて鞆ノ津日記と題を改めた。人の噂や勝手な放言などたくさん書いてある。/文体は戦国末期の時文や候文など混つて、判読しにくいので現代の時文に改めた。たとへば「備後国三原の城里の近辺に山南(さんな)の郷と申す里がおぢやる。その里に菅野の十郎左衛門といふ農老がおぢやつた。畳の表を織ること天下無双で、この上に上手はおりなかつたと聞えた」といふやうな文章がある。/さうかと思ふと「御屋方様、お茶会の事。茶屋、深三畳、床なし、四寸炉、真緑真釜、与蓋、自在釣り、瀬戸茶碗に道具仕入れて。つるべ、めんつう、引切。先に薄茶、次に濃茶……」といふやうな文章がある。/それからまた、「花たちばなの軒ば近うあらば、吹く風も心ようあつた」といふやうな文章もある。(P586)

右のような原本では今の人には何のことか分らない。井伏の訳本は有難い。この茶会記は茶を飲みながらの無礼講、大いに酒を飲み政治や世相に気炎を擧げ、その上豪華なごちそうをパクつく。讀む人は面白、おかしく井伏史観の一端を知らされる。特に秀吉に対する筆誅は手きびしいではないか、溜飲を下げる人があるかも知れない。どの話もうまく出来ているが、今は天正十七、天正十九年のものをその例として拾ってみる。

天正十七年 安国寺茶会

亭主 有田蔵人介(安国寺恵瓊の影武者を一度勤めたことがあるために、傍の者から「影殿」と云はれてゐた武士。恵瓊は単身敵地へ赴くことが多いので、時に影武者を必要とする。風采、談話の仕方が恵瓊に似てゐる。)
客 梨田入道斎(安芸国梨田郷の出身)
村上左門(豊田郡大崎上島の出身)
宮地左衛門尉(備後国向島の出身)
栗屋四郎兵衛(備後国神辺、片山城の出身)
給仕の小姓二人
天正十七年三月十日の茶会
鞆ノ津、安国寺の庭園に面する茶席にて、夕暮になるより前から茶会
かつて足利尊氏の頃、毎国一寺の立願で建てられた備後安国寺である。もと安国寺恵瓊は鞆ノ津の小松寺に寄寓してゐたが、安国寺の庭園が修理されてからここに移つた。今、御屋方様(小早川隆景)は秀吉の命で出陣して博多の名島の浜にゐる。

露地のほとりの菜種畑が花盛りで、露地は打水されてゐる。頭上の八重桜は満開に近く、まだ夕暮に間があるが石灯籠に灯が入れてある。
茶席の屋根は槍皮葺になつてゐる。手水湯が出る。座敷は四畳半に一畳が鉤の手形に続き、その一畳の茶点口(ちゃたてぐち)の対面に刀掛がある。くぐりの上に突上げ窓、太い竹の中柱。一尺四寸の囲炉裡で、五徳に姥口釜。床に叭々鳥の絵の一軸、以前の所持主の判が紙の隅に捺してある。新出来の備前の筒花入に白椿の花。高麗茶碗に道具仕入れて。

初めに薄茶。白味噌と赤味噌の合せ味噌に赤貝のむきみ。志楽の大皿にけしであへた串鮑(くしあはび)。亭主役の「影殿」が「大いに食べて、大いに飲めや」とて茶碗酒が出る。山椒味噌の豆腐田楽

大皿へ山盛りにした鱧(はも)の五寸切(ごんぎり)。なます(だいこん、山椒、のり、白髪昆布、いか)香のもの、飯。
「有田蔵人介の御話――その要約」
御酒を召し上りながら「影殿」の御話。客一同、飲みながら食べながら聞く。茶の湯の作法など無視、飲み且つ腹いつぱいに食べるのであつた。
拙者、安国寺恵瓊殿の影武者として、なるべく他国の人に会はないやうにしてをるが、茶の湯道具の後片付けなどしてをるうちに、御屋方様の口癖を覚えるやうになった。茶の湯にはいろいろ流派というものがある。御屋方様の茶の湯の流派で秘伝として大事なことは、秘は秘なるによつて尊しと考へること。何かにつけて不足がちであるのが宜しいと考へること。そのことを考へない限り、茶の湯の会には出た甲斐がないと思へとな。今日このごろのやうに万朶の桜の咲く季節は、第一、茶の湯に桜は活けずであるからして、茶の湯に行くには桜の花は贈らぬこと。これは茶の湯をたしなむ人の習ひであるさうな。心得なくてはならん。桜は茶の湯には富貴にすぎるからして、桜は活けないものである。茶の湯の達人紹鷗は、蕪無(かぶなし)の茶入に桜の一房だけ浮かべて置いたげな。その心が大切とのことだ。御屋方様の口癖を聞いてをるうちに、そのやうなことなど覚えてしまつた。
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天正十九年 兵庫塚茶会

時、天正十九年十月廿九日
場所、備後国湯野村兵庫塚(鳥居浜庫頭方)にて茶会
座敷、五徳に霰釜。床の掛軸、杉原盛重遺愛の一遍上人筆「南無阿弥陀仏」の一軸。新しい伊部焼の掛花入に白菊。
当日の出席者

鳥居兵庫頭、九州征伐から帰つて来た有田蔵人介、鞆ノ津の小松寺庫裡で静養中の村上左門、向島浦水軍の武将宮地左衛門尉、東中条村小池城の金尾金右衛門尉、鞆ノ津安国寺の僧允然。
給仕は一宮村法道寺の雛僧二人。

先日、御屋方様の御本宅(毛利家)で輝元公が安芸国吉田から目出度く広島に御移りになつた。今年正月、ポルトガル印度総督にキリシタン禁教令を通達する。同時にフィリッピンへ入貢を促す。秀吉公は高麗出兵を命じ、征明軍が編成される。御屋方様、釜山に御上陸。
日本全国、士農工商の別に分けられ諸民の転業を禁じられる。
世の中が急速に変つて行く。今年の三月五日、桜山城趾で茶の湯があつたとき、宮地左衛門尉が云つた。
「豊臣秀吉が、千ノ利休を自刃させたといふ噂がある。たしかに利休は腹を切つたのだらうか。」
この噂を聞いた人たちは誰ひとりそれを信じなかつた。海の男の早耳で早とちりだらうと思つてゐた。ところが秀吉が高麗出兵を云ひ出す法外もないことが持ち上ると、それに関連して突拍子のないことが起ると思ふやうになつて来た。これは日頃から秀吉ぎらひの宮地左衛門尉の云ふことである。
「秀吉は千ノ利休に命じて、高麗の宮廷へ親書を持つて行かさうとしたらしい。その親書に理不尽なことがあつたとしたらどんなものだらう。日本へ貢物を持つて来い。高麗は日本の云ふままにしろ。そんなことが書いてあつたとしたらどうだらう。さすがの利休も腹を立て、秀吉に、理の当然なことを云つたらう。秀吉のことを痛い目に説き伏せる。それで秀吉が利休に腹を切らせたのだ。」

宮地左衛門尉は今度の茶会でもさう云つたので、それを信ずる人が半々ぐらゐだつた。
兵庫頭の御手前であつた。初めに薄茶と西条柿の熟柿が出て、次にコンニヤクの白あへと濃茶が出て、猪鍋が出て、濁酒のお代りが次から次に出た。油揚や豆腐も出た。最後は香のものが出た。一同、満腹した。湯野村の渡船場を通る大型の高瀬船は深更に至るまで待たして置いた。
猪鍋をつつき酒を飲みながらの話。(P340)

慶長四年 安国寺茶会

五月五日、安国寺茶席
茶席は三畳半。四寸の囲炉裏に霰釜、床柱の備前の花筒にコブシの花。床の掛軸は御屋方様より拝領の一遍上人筆「南無阿弥陀仏」。その墨跡の前に、御屋方様より村上左門へ届けられた書翰一通。
初めに薄茶、豆腐に茶碗酒、鯉の刺身、磯魚の醬油煮。おかちん、わかめ汁、茶漬飯、香のもの、うり。
…………

楢崎伊助の発言。
…………
しかるに高麗遠征十万の将兵は粉骨砕身、風雨にさらされ苦節を尽したが、御膝元に帰れば請負仕事で戦争してゐたかのやうに、恵まれるところが殆ど皆無であつた。太閤殿下の勧賞が思ひがけなく薄かつたのは、出征奉行の石田三成の讒言によるものだといふ考へに落着いて行つた。三成に恨みを晴らさずには措くべきかと、武将たちは発言吹聴して風雲急を呼ぶやうになつた。」
…………
三成にしてみると、福島正則一人だけ怒つても縮みあがつてしまふ。ましてや豪傑七人も八人も息巻くのだから物凄い。
…………
三成には家康が目の上のこぶのやうな存在だが、家康は気にしないやうな態度で応じてゐた。家康の謀臣本多正信は、暮夜ひそかに家康の寝所を訪ね、上様は治部(三成)のことを、日頃どのやうに思召しでせうか」と尋ねた。家康は「その儀については、思案しないでもない」と答へた。それを聞いて正信は「安心致した。もはや何事を申すべき」と云つて引き下つた。この主従の間のことは、謀略のすぐれない者には分らない。
…………
爾後、伏見城は家康の居城同然となつて、徳川の下臣すべてが伏見の城門の警備をするやうになつた。人望と政権が、ごろごろと家康の方へ転がつて行くやうに見える。(P368)

河盛好蔵に井伏鱒二随聞(新潮)の一冊がある。
要点だけ記す。
…………
それは田舎の鞆ノ津で茶の湯の会をするときに、帰ってくるんだ。安国寺恵瓊が田舎の人と一緒に。そのときに茶の湯をする。その日のことを書く。恵瓊は一同が平気でいるのを見て、秀吉が非常に悪いということをいう。みな悪いと言わないんだ。茶の湯では人の悪口は言わないことになっているのだそうだ。だけれども、書こうと思う。あれはいけないことだ。みんな黙っているんだから。
………
この間僕に「鞆ノ津茶会日記」は食べ物が多すぎると言う人がいた。
河盛 僕もそう思いましたけれどもね。茶の湯にしては食べ物が御馳走だと。
井伏 多すぎるという(笑)
河盛 そうですか。僕はまたこれは原文にそうあるのかと思った。
…………
河盛 茶の湯のときに彼らは機密の話をしたんですか。
井伏 茶葉ですよ。茶葉をいれるんですよ。茶葉をいれて挽くんですよ。隣の部屋でゴーゴーと音をさせれば、それが御馳走になる。このくらい(三十センチ)の茶臼がありまして、それでこう挽くんですよ。隣の部屋で挽かせる。
河盛 しゃべってもわからない……
………
井伏さんは歴史小説もお書きになるけれども、歴史上の人物を、何の先入観もなしに、現実の人間を見るのと同じ眼で見ることができるということ。それが偉い作家の目なんです。私たちには信長にしろ秀吉にしろ家康にしろ、自分の気のつかないうちに一種の先入観が出来上っている。ところが井伏さんは、彼等を何か町内のおやじさんみたいに見ておられる。井伏さんには歴史上の人物に敬意を払うようなことはあまりない。
井伏 僕は「うそ」を書くのが歴史。必ず「うそ」を書く。その人とおぼしきことで「うそ」を書く。本当のことを書けばいいが、空想で本当らしいことを書く。もっと歴史のことをよく知ってなきゃいけないけれども、よく知らないもんだからいい加減に書くんだな。

(おわり)

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