第四十回 永井荷風――讀書、瀹(ヤク)茶、煖(ダン)酒(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

―――戯作者荷風の風格
文化勲章受賞者である荷風には小説「腕くらべ」「雨瀟瀟(しょうしょう)」「濹東綺譚」ほか数々の名作があるが、その文化史的価値から云えば、いずれも「断腸亭日乗」の魅力には及ばない。筆者は大正六年から昭和三十四年に亘るこの読みごたえのある日記を中心に荷風の茶についての係わりを探ろうとした。然しその前に荷風の人となりや、文学について多くの批評がある事を忘れる訳にはゆかない。志賀直哉は「彼は立派な文学者だ」と云い、大江健三郎はその小説作法の美事さを激賞している。もとより人の意見はまちまちであるが、ここでは湯淺、遠藤両氏の対照的な言葉を借用してみた。いずれも全集月報掲載の日乗に就いての感想文の抜粋である。
湯淺芳子

荷風くらい徹底したエゴイストはなかった。彼は自由を愛したといわれるが、それは自己の自由をいうので他人のことなんぞ考えるひとではなかったからである。また彼には文学者・詩人としての高いプライドがあったかの如くであるけれども、実は人間としての真のプライド、人間の尊厳の自覚は欠いていたかに思われるふしが大いにある。………荷風はただ色情の対象として女を相手にし、倦きると忽ち捨てた。世話をしている女が荷風の浮気に苦しみヒステリーを起すと「女子の小人養いがたし」と片づけた。己れに甘く他人に厳しい点では常人の域を超えていた。これは女に対してばかりでなくあらゆる他人に対してである。人間への批評は辛辣だが自分自身には些かの反省もない。

遠藤周作
私はこの日記を荷風の書いた唯一の長編小説であり集大成と考える。本当の永井壮吉と日記中の芸術化された「余」とがどのように違うかは、たとえば奥野信太郎氏がいみじくも言われたように、「余」が病骨にして浪費家、怠惰、の姿勢を多くの場合とるにたいし、本当の荷風は「健康で律儀で倹約家」だったのである。
…………それでもかつての「余」の哀愁や情緒は次第に失われ、その代りに永井壮吉とよぶ一老人の死を前にしたむきだしの孤独が露出しているように私には思われる。私はひょっとすると荷風はこの時、自分が数十年にわたって守り続けてきた孤独の本当の姿、悲哀とか、寂寥とか名づけられる美名ではもはや許されない、地獄が顔を覗かせたのではないかとふと思うことがある。

――――お茶のもてなし 
良人には良人たるべき覺悟、妻には妻となるべき決心がなくてはならない。そこでわたくしは醇ゝとして女に向かつて講義を始める。此講義をきくとまづ大抵の女はびつくりして逃げてしまふ。別にむづかしい事を云ふのではないが、わたくしの説く所は現代の教育を受けた女には、甚だしく奇矯に聞えるらしい。わたくしの説は一家の主婦になるものは下女より毎朝半時間早く起き、寝る時には下女より半時間おそく寝る事。毎日金錢の出入は其の日の中に漏れなく帳面に記入する事。來客へ出すべき茶は必下女の手を待たず自分で入れる事。自分の部屋は自分にて掃除する事。家内の事は大小となく一應良人に相談した上でなければ親戚友人には語らぬ事。まづ此位の事であるが、正面から規則を見つけられると、大層窮屈に思はれると見え、御免を蒙る方が多い。わたくしは何事に限らず人に物事を強いるのを好まないので、わたくしの言ふことをきかないからとて決して其人を憎みはしない。縁談がまとまらなくてもその後長く交際のつゞいてゐたやうな例もある。 (全21P270)

家庭の主婦の心構えに就いて頗る立派な事を書いているが、夫について夫たるべき覚悟の内容については何も触れていない。これぞエゴイスト荷風の面目と云うものであろうか。来客に出す茶は心がこもらなければならないから、所謂る上流家庭といえども、すべて女中任せという訳にはゆかないから、この点に関する限り一家の主婦たる者が、窮屈を感ずる事はなかったろうに。

又鴎外の娘小堀杏奴や中河與一に対して、その書信にお茶も差し上げられずとしたゝめたり、敬慕する母親に対しても同じ趣旨の手紙を出している。侘住居の中でそれが変人としての社交辞令であつたとしても、茶が客を迎える必需の品である事を忘れてはいなかったにちがいない。
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―――― 文化勲章授章式のお茶
……… 食事終わり隣室にて珈琲と日本茶を喫して款語す新聞寫眞班の撮影ありて後、初めての応接間にてまた日本茶を喫すとある(全29P397)祝事にも日本茶はよく出る。尚この芽出度い日に荷風は毎日の記者に「私が文化勲章をもらふにふさわしい本があるとすれば、それは断腸亭日乘四巻かも知れませんよ。」と語っている。注意したい言葉である。(秋庭、考証P699)

―――― 茶の湯の稽古
谷崎潤一郎の「青春物語」に………
一体柳橋と云ふところはその頃の文人の詩情をそゝるものがあつたと見えて、帰朝後の永井荷風氏も茶の湯や清元の稽古に通はれた時代に矢張りあの町の小意気な家に世を侘びながら」と記すとともに。(全13P369)

「きのふけふ」の中で「壯年時代淺草の代地に僑(きょう)居しておられる頃は和服に前掛と云ふ姿で茶の湯や清元の稽古に通っておられたので屢々路上で見かけたものであった。」としている。(全13P443)

だが荷風の著述に清元の話は出てくるが、茶の湯の勉強については格別な触れ方はしていない。もつとも茶人であつた父禾原の生活ぶりを、幼時から眼のあたりにして育つた荷風の事である。習わずとも茶道の何たるかを知り、作法万端知悉していたにちがいない。

―――― 茶の湯と女性
わたくしは振袖をきて琴三味線をひき、茶を立て花をいけたりする姿ばかりが傳統の美を保持するものとは考へてゐません。それは日本刀をさしてゐるさへすれば古武士の面目は失はれないと思つたやうな誤解と變りがないでせう。
女性の日本的傳統美のゆかしさと懐かしさとは、その形ではなくしてその情操に因るのです。物の哀を知るに鋭く、あきらめを悟るに淺からぬことではありませんか。(全10P380秋の女)

――――茶の湯の師匠と花柳の女性
全身の姿の何處といふことなく、正業の女には見られない妖冶な趣が目につくやうになつた。この趣は譬へば茶の湯の師匠には平生の擧動にもおのづから常人と異つたところが見え、剣客の身體には如何にくつろいでゐる時にも隙がないのと同じやうなものであらう。女の方では別に誘ふ氣がなくても、男の心がおのづと亂れて誘ひ出されて來るのである。(全8P356つゆのあとさき)

―――花街の茶
荷風の小説は粋な情趣の世界を描くことが主であつたから文中に花柳界特有のことばがよく出てくる。
例えば上り花
……先生どうぞ上(アガ)り花(ハナ)でも召上つていらしつて下さい
……
……それぢや上花(アガリ)
鵜崎は上花を取り上げず、唯ぼんやり考へ込んだ。(全7P162おかめ笹)

上がり花(花は端(ハナ)の当て字。もと遊里や料理やでの言葉)煎じたばかりの茶、でばな、あがり、又一般に茶をもいう。(広辞苑)
又茶漬を掻き込む場面も少なくない。

小鈴は、立ち上がつて、羽織を脱いで、膳を取り出す、と、抱へ子の小〆(こしめ)は飯櫃(いゝびつ)を置炬燵の蒲團を捲(まく)つて、取り出して來て、差し出す茶碗を受取つて、お給仕に懸つた。
「〆ちゃん、ポッチリだよ、お腹が何んだかくちいから。」
と、輕(かる)く盛られた、御飯に、お茶を懸けて、銀の箸で、茶碗に響きを與へながら、さらさらと食べ了つて、ほんの體裁に、新漬(しんつけ)を一切挾んで、お茶を掻き囘しながら。
ぐつと呑んで、箸を措(を)いて了つた。
「アラ、もうお仕舞なの。」と小〆は眼を瞠(みは)つたが、これも手取早くお鉢を片附けて、膳を運んで、台所へ持つて行つた。(全28P364夜の芸者)

又芸事としての茶の湯の稽古もある。

其れから間もなく、娘に向つて、恁(か)う云った。
「喜イちゃん。お琴も最うぢき中(なか)ゆるしを取る時分になつたのだから、其の外に茶湯(おちゃ)でも習つたら可いでしやう。お茶の湯は本統に禮式が正しくつて、那様(あんな)奥ゆかしいものは有りませんからね。」
此れから、母娘(おやこ)は近所を捜して、唯(と)ある裏道の小家に、千家裏流、茶道指南と云ふ木札が、竹格子の出窓に掛つて居るのを見て、早速弟子入の束修(そくしゅう)を収めて、明る日から、連れ立つて、お茶のお稽古を始めたのである。

今迄は色々に出歩く工風を考へたものゝ、どうも世間體を憚つて、思ふやうには行かず、つい、家に引込んで氣を腐らして居たのが、今度は身體(からだ)が二ツあつても可い様に、琴と茶の湯のお稽古で、奥様は、一日、家には居られ無いやうになつた。茶の湯の師匠は、六十ばかりの切髪(きりかみ)のお婆さんであつたが、此れも、此の奥様を、大事の弟子と思つて、下にも置かぬ様にする。(全28P378後家の住居)

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