第四十一回 永井 荷風――讀書、瀹(やく)茶、煖(だん)酒(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

―――老後の清福

江戸の戯作の顰(ひそみ)に倣い、漢籍に詳しく、語彙豊富、荷風の文章は平成の若人にとってなじみにくい文章かも知れないが、概ね文意文脈は明快。閑雅の老人の心を十分に欣ばせてくれる。老後の愉しみについての左の一文、いかにも戯作風ではないか。

讀書、瀹(やく)茶、煖(だん)酒の三事は伴侶を待たずして独たのしむことを得るものなり。されば人一たび離羣索居の思に沈淪するにおよびて、その樂いよく深きを知るべし。人生老後の清福は貧富顕晦の別を問はず恐らくは此の三時に盡くるなるべし。

これは内容的に同じことを云つた文人も少なくないので格別怪しむに足りないが、今の世の中ではこの三事に清福を感じられるかどうか、疑問を感じられる老人も少なくない。

―――茶を煮る樂しみ

八重家(いえ)に來りてより、われはこの世の淸福限泣(せいふくかぎりな)き身とはなりにけり。人は老(おい)を嘆(たん)ずるが常なり。然るにわれは俄(にはか)に老の樂(たのしみ)の新(あらた)なるを誇らんとす。人生の哀樂(あいらく)唯其の人の心一ツによる。木枯(こがらし)さけぶ夜すがら手摺(す)れし火桶(ひをけ)かこみて影もおぼろなる塔火(とうくわ)の下に煮る茶の味(あじはい)は紅樓(こうろう)の綠酒にのみ酔ふものゝ知らざる所なり。
(全14P260矢はずぐさ)

―――八重とは藤陰静枝のこと
尚、秋庭太郎はその「考証」の中で「……いづくんぞ知らん、二月十日の夜八重は一通の手紙を殘して突如として荷風の下から去つた。謂ふところの清福も僅か半歳にして春の淡雪の如くに消え去つたのである……」とその儘のべている。しかし荷風の老後の清福はもともと家庭にあった訳でなく、葷斎漫筆は次のように続けられている。この小文こそ矛盾に満ちてはいるようだが、荷風の真骨頂と云うべきだろう。

妻妾の愛の如きは固より恃むに足るべきものならず。兒孫は却て優苦執著の發する源なりと觀じ來るや、身世うたゝ淒涼の思い絶えざるの時ひとり朋友故舊の情誼なるものゝありて、人はわずかに肝膽相照すのよろこびをなすことあるのみ。然れども夭寿は亦是天命のなすことなれば、親しき友と云へども、我より先に一たび去れば復還ることなし。こゝに於てか半夜寒橙の下、ひとり満腔の秋思を排せむとする時、人は唯案頭に一巻の書、炉辺に一壷の酒あるの外、亦他に求むるものなきを知るべし。
(殘念乍らこゝでは茶は出てこない!!)

今や老人大国日本では、多くの老人が男性も女性も、飲酒の樂しみを失い、新聞雑誌の如きも手にすることなく、静かに只管目前の自らの生を守っているかに見える。荷風の云うが如く瀹茶を以て老後の清福とされる人が多からんことを期待してやまない。だが現実の老人にとって、荷風の茶の話のごときは一場の春夢と云うしかない。

―――外祖父鷹津毅堂の茶
毅堂は嘉永五年、二十八才で結城藩時習館の教授となり、多く生徒に接した。授業の放課後、独茶を煮て、問座読書を娯んだ。(全15P358下谷叢書)荷風は親族の中でこの毅堂を最も尊敬していた。

毅堂はまた南宋の畫家と相會して書畫の品評をなした。この品評會は土曜日の午下半日の閒を消するので意で半閒社と名けられ、其の雅約は毅堂が之を草した。雅約の文を書き改めると次の如くである。

「社ヲ結ブ。五名ヲ以テ限リトス。毎月一次茗醼ヲ開ク。輪轉シテ主トナル。終レバ復始ム。午後二時ヲ以テ集リ八時を以テ散ズ。客ノ來ルヲ迎ヘズ。客ノ去ルヲ送ラズ。虚禮ヲ省イテ眞率ヲ尚ブ。名ヲ茗醼ニ託シテ浮世半日ノ間ヲ偸ム。社二名ル所以ナリ。」

「明窗淨几。一炷ノ香一缾ノ花。筆硯紙墨ハ必具フ。茗ハ甚シク精ナラザルモ亦以テ茗ヲ下スニ足ルベシ。鼎爐銚碗ハ古キモ亦可ナリ新シキモ亦可ナリ。惟其ノ有スル所、苟モ尤ヲ誘リ奇ヲ闘スノ意アレバ器物ニ役セラル。茶博士ニ陥ルニ非サレバ必骨董者流ニ陥ラン。是高人韻士ノ鄙シム所ナリ。」
「客既ニ集リ爐底火ハ活シ鼎腹沸沸トシテ乃茗聲アレバ乃茖ヲ瀹テ主客倶ニ啜ルコト一碗爾碗。腋間風生ズルニ至ツテ古人ノ書畫ヲ展ブ。或ハ主ノ藏スル所、或ハ客ノ携ル所、心ヲ潜テ以テ品賞ス。相菲薄セズ。相阿諛セズ。惟公論ヲ然リトナス。」
「興到レバ韻ヲ分ツテ詩ヲ賦シ、翰ヲ染メテ書晝ヲ作ル。倦メバ即或ハ座シ、或ハ臥シ、劇談一餉、善ク戯謼シテ而モ虐ヲナサズ。若シ時事ノ損失人物ノ之非ニ渉レバ輙チ厭フベキヲ覺ユ、痛ク是ヲ禁ズ可シ。」
「夕陽窗ニ在リ白鳴鐘五時ヲ報ズルヤ必酒飯ヲ供ス。山肴野蔬三種ヲ出デズ。酒モ亦兩三罎ヲ過サズ。薄醉ニ至ツテ飯ス。飯畢ツテ再ビ茗ヲ瀹ル。是醼ノ寬リトナス。蘇東坡云ク、物薄クシテ情厚シト。是會ノ準トナス所以ナリ。」
毅堂は壯年の頃より茗茶と菜蔬とを嗜んだ。毅堂の「聴水籍襍吟」の中に静中聴煮茶声、日興風爐訂好盟とある。
(下谷叢書全15P442)

今の世にも毅堂と同じ志の人々が少なくないのだろうが、その存在が天下に喧伝されるような事はない。
茶の嗜みはもともとそのようなものなのであろう。

―――茶人の性癖

若き日の作家荷風の小説アメリカ物語りに次の如くある。
私の父は、或人は知って居ませう、今では休職して了ひましたが、元は大審院の判事でした。維新以前の教育を受けた漢学者漢詩人其れに京都風の風流を学んだ茶人です。書画骨董を初め刀剣盆栽盆石の鑑賞家で、家中(いへちゅう)はまるで植木屋と古道具屋を一緒にしたやうでした。

毎日のやうに、何(いづ)れも眼鏡を掛けた禿頭(はげあたま)の古道具屋と、最(も)う今日(こんにち)では鳥渡(ちょっと)見られぬかと思ふ位な、妙な幇間肌(ほうかんはだ)の属官や裁判所の書記どもが詰め掛けて來て父の話相手酒の相手をして十二時過ぎで無ければ歸らない。其の給仕や酒の燗番をするのは誰あらう、母一人です。無論下女は中働(なかばたらき)に御飯焚(ごはんたき)と二人まで居たのですが、父は茶人の癖として非常に食物(しょくもつ)の喧(やかま)しい人だもので到底奉公人任(まか)せにしては置けない。母は三度(さんど)三度(さんど)自ら父の膳を作り酒の燗をつけ、時には飯(めし)までも焚(た)かれた事がありました。
其程にしてもまだ其の嗜好(しこう)には適しなかつたものと見えて、父は三度々々必ず食物(しょくもつ)の小言を云はずに箸を取つたことがない。

朝の味噌汁を啜(すす)る時からして三州(さんしう)味噌の香氣(にほい)がどうだ、此の澤庵漬(たくあん)の切方(きりかた)は見られぬ、此の鹽からを此様(こんな)皿に入れる頓馬(とんま)はない。此間買つた清水燒はどうした又破(こは)したのぢやないか、氣をつけてくれんと困るぞ…丁度落語家(はなしか)が眞以をする通り傍で聞いて居ても頭痛がする程小言を云はれる。

母の仕事は恁(か)く永遠に賞美されない料理人の外に、一寸觸つても破(こは)れさうな書畫骨董の注意と盆栽の手入(てい)れで、其れも時には禮の一ツも云はれゝばこそ、何時(いつ)も科理と同じやうに行届(ゆきとど)かぬ手抜(てぬ)かりを見付出(みつけだ)されては叱られて居た。ですから私が生れて第一に耳にしたものは、乃(すなは)ち皺枯(しはか)れた父の口小言、第一に目にしたものは何時も襷(たすき)を外(はず)した事のない母の姿で、無邪氣な幼心に父と云ふ考へが、何より先に浸渡りました。
(全3P172一月一日)

これは架空の小説とは云え、矢張り荷風の幼時の思い出であり、その父の茶人禾原久一郎の家庭の一面を描いたものであろう。然し平成の茶人や家族は小説だとしてもオーバーな話だと仰言るにちがいない。
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―――セントルイスの日本茶宣伝
昭和六年十一月三日尾張町四ツ角のライオン酒館、今年初夏の頃にや一時閉店せしが、この程に至り臺灣喫茶店の後を改装し以前の如くカフヱーを開業したり、臺灣喫茶店にいづこに移りしにや知らず、此店の主婦は若き頃、新橋の妓にて、明治卌七年頃米國に在り、博覧會開催の時、日本賣店の内茶業組合の賣店に雇はれたてゐたり、同行の藝者數名あり、其中一名は電車に轢殺されたり、余その頃米國に在り、博覧會には三個月ほど遊びゐたりし故これ等の事を知れるなり、茶業組合は其年の末博覧會閉場と共に茶汲の藝者を本國に送還したり、銀座臺喫茶店は余が在米中にできたるものなれば開店の事は委しく知らず、明治四十一年に至り余は偶然銀座の店頭にて其の主婦に逢ひ、始めて米國博覧會當時の事を語り聞かされたり、守田勘彌の姉玉三郎といふ女優も當時渡米せしが急病にて客死せし由、此も喫茶店の主婦より其時聞きし話なり、臺灣喫茶店の最繁昌せしは明治四十三年頃なるべし、茶及の女七八名、いづれも美人にて、ライオン酒店の女ボーイと云ひしなり、カツフヱーの名も猶耳馴れず、多くはビヤホールと云ひしなり。

毎時三十七年頃には大谷嘉兵衛の並々ならむ活躍によって茶の関税は撤廃されていたが、てごわい相手のインド、セイロン、中国等の追いあげを受け、何としても販路拡張の為の宣伝事業の展開が、日本の貿易上の緊要な施策となっていた。勿論アメリカには、シカゴ、ニューヨーク、サンフランシスコ、セントルイスで万国博覧会が開催されたので、その一環として日本茶の喫茶宣伝が行はれたのである。サービスは佐数の芸者が担当した。

荷風の西遊日記抄の十月八日に「セントルイス万国博覧会に赴かんとして愴惶旅装をとゝのへ、タコマを去る。」とある。
又十一月荷風はタコマに移ったが、セントルイスの賑やかな夜を思い出すにつけ、当時に長く止まることを欲しません、との手紙を友人に出している。セントルイスが当時既に大都市であった事は申す迄もない。輸出茶の歴史については輸出茶百年史(日本茶輸出組合發行)が最も信頼に足る参考書の一つである。

―――夏でも熱い茶か珈琲
わたくしは炎暑の時節いかに渇する時と雖、氷を入れた淡水の外冷いものは一切(いっさい)口にしない。冷水も成るべく之を避け夏も冬と變わりなく熱い茶か珈琲(コーヒー)を飲む。アイスクリームの如きは歸朝以來今日まで一度も口にした事がないので、若し銀座を歩く人の中で銀座のアイスクリームを知らない人があるとしたなら、それは恐らくわたくし一人(いちにん)のみであらう。扇がわたくしを蔓茶亭に案内したのも亦これが爲であつた。

銀座通のカフヱーで夏になつて熱い茶と珈琲とをつくる店は殆ど無い。西洋料理店の中でも熱い珈琲をつくらない店さへある。紅茶と珈琲とはその味(あじはい)の半は香氣に在るので、若し水で冷却すれば香氣は全く消え失せてしまふ。然るに現代の東京人は冷却して香氣のないものでなければ之を口にしない。わたくしの如き舊弊人にはこれが甚だ奇風に思はれる。この奇風は大正の初にはまだ一般には行き渡つてゐなかつた。

紅茶も珈琲も共に洋人の持ち來つたもので、洋人は今日(こんにち)と雖(いへど)もその冷却せられたものを飲まない、これを以て見れば紅茶珈琲の本來の特性は暖きにあるや明である。今之を邦俗に從つて冷却するのは本來の特性を破損するものでそれは恰も外國の小説演劇を邦語に譯す時土地人物の名を法化するものと相似てゐる。わたくしは何事によらず物の本性(ほんせい)を傷つけることを悲しむ傾があるから、外國の文學は外國のものとして之を邦俗に從つて冷却するのは本來の特性を破損するもので、それは恰も外國の小説演説を邦語に譯す時土地人物の名を邦化するものと相似てゐる。わたくしは何事によらず物の本姓を傷つけることを悲しむ傾があるから、外國の文學は外國のものとして之を鑑賞したいと思ふやうに、其飲食物の如きも亦邦人の手によつて鹽梅(あんばい)せられたものを好まないのである。

萬茶亭は多年南米の植民地に働いてゐた九州人が珈琲を賣るために開いた店だといふ事で、夏でも暖かい珈琲を賣つてゐた。然し其主人(あるじ)は帚葉扇と前後して世を去り、其店も亦閉(とざ)されて、今はない。
(全9P193濹東奇譚)

銀座のカフェーに憩う
予は酷暑の時節にも冷きものを口にせざるを以て広東茶を命ず
(全16P345歌舞伎座の稽古)

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