第四十二回 永井 荷風―讀書、瀹(やく)茶、煖(だん)酒(3)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

―――紅茶の香味

前段にある通り荷風は夏でも冷たい珈琲、紅茶を飲まなかつたが、こゝに荷風とほぼ同時代(一九二八―三六)を東京で過ごしたイギリス外交官夫人の手記がある。今の人なら誰でも知っている内容だが、取り上げてみたい。

洋食は熱くなければいけないということを日本人の女中の頭にしっかりと植えつけるのには、かなりの時間がかかります。
そして一つだけどうしても駄目なことがあります。紅茶は沸騰しているお湯で入れるということです。
緑茶は少し冷ましたお湯で入れますし、熱いときに飲んでも冷めてから飲んでもよいのです。私たちが女中に「この紅茶は沸騰しているお湯で入れなかったでしょう」と文句をつけると、必ず「いいえ奥様、お湯はちゃんと沸騰させました。」という返事が返ってきます。確かに沸騰させたのでしょう。しかし、日本人は現在沸騰中ということと一度沸騰させたということを区別しませんし、さらに厄介なことに日本語には「沸騰中」と「熱い」を区別する単語がないのです。つまり日本人には沸騰中という概念がありません。伝達不可能なことを伝えようと頑張っても無駄です。紅茶は自分で入れるしかありません。

中国のウーロン茶は日本では髙いし、手に入りにくいし、みんなが好きというわけではないので、パーティーではよく知られたブランドの紅茶の中のどれかを使うことになります。日本に来て間もないイギリス人の女性が、大勢を招く茶会でどの紅茶を使ったらよいか日本人の給仕長に尋ねたところ、「リプトン(Ripton)」がよいでしょうといわれてショックを受けたということです。日本人はL(エル)の発音ができないので、英語の単語を変な風にして使っていますが、その中で一番よく耳にするのはおそらくトーマス・リプトン(Lipton)の卿のブランドの紅茶で「リプトン」は外国のお茶の総称にもなつています。

客を手厚くもてなしたい気持ちを特に示したい場合には日本茶を出すことになります。こうなるともう安心です。女中は話の邪魔をしないように静かにお茶を運んできて、茶碗に注ぎ、一人一人丁重に差し出します。緑茶は心身をさわやかにしますし、取手のない小さな茶碗や急須も素敵です。それにお茶を飲みながら客と話していると、日本にいて外国のやり方をやり通そうとする苦労などは忘れて、私もしばし日本という調和の世界に入っていくのです。
(キャサリン・サンソム東京に暮らす、岩文P22)

さて、珈琲、紅茶に較べ緑茶の香気は一層デリケートであるので水質はもとより湯温の適切さが求められる。嗅盲は文明の発達とともに増加する。(高木貞敬氏、嗅覚の話、岩新)と云われ、又匂いの好き嫌いは生活習慣の違い(栗原堅三、味と香りの話、岩新)とも云われているが冷温ではもともとの香気が出ないのだから話にはならない。お茶は適温でなくてはお茶にならない。同時に湯の量と茶の量のバランスも問題である事は申す迄もない。

―――エッセイ「紅茶の後」
「紅茶の後」とは靜な日の畫過ぎ、紙より薄い支那燒の器(うつは)に味(あじは)ふ暖國の茶の一杯に、いささかのコニヤツク酒をまぜ或はまた檸檬(シトロン)の實の一そそぎを浮(うか)べさせて、殊更(ことさら)に刺戟の薫(かを)りを強くし、まどろみ勝ちなる心を呼び覺して、とりとめも無きことを書くといふ意味である。篇中過去の追憶に關すること多きも此(これ)が爲である。

「紅茶の後」は森鴎外の推挽を得て慶応大学文学部教授に就任した時代の随筆である。雑誌「三田文学」の主筆としてさまざまな感想文を掲載し多くの人を魅了した。この序は後に籾山書店が胡蝶本として一冊に纏めた時の序文である。“あの人たち”“銀座”“巻怠”などの内容充実、とりとめもないなぞと云うものではない。荷風の大好きな紅茶の喫茶後の余情と感慨にみち、流石の思いがする。“銀座”の中には次の文章がある。

逢ふ海にいつも其の悠然たる貴族的態度の美と洗練された江戸風の性向とが、そゞろに藏前の旦那衆を想像せしむる我が敬愛する下町の俳人某子の豪邸は、圑一郎の旧宅と其広なる庭園を隣り合せにしてゐる。高い土塀と深い植込とに電車の響も自づと遠い嵐のやうに軟らげられてしまう。此の家の茶室に、自分は折曲げて坐る足の痛さをも厭はず、幾度か湯のたぎる茶釜の調を聞きながら、礼儀のない現代に対する反感を休めさせた。

――― 一茶す

日乗の記録に無暗に一茶すといふ記事が出てくる。無論、某々喫茶店で一服し、珈琲か紅茶の類を頼み、時には知友と閑談したと云う程度の意味合である。銀座では、風月、千疋屋、大牙、オリンピック、亞風、藻波、久辺留、万茶亭、さくらや、不二アイス、同地下室、等々。浅草通いの時代は森永、ハトヤ、カフエジヤポン等。又下町の茶店ではよく渋茶を飲んで江戸情緒を味わっていたものとみえる。芝口の佃煮や金兵衛では薄茶や好物の茶漬けを食べている。

荷風は銀座でも浅草その他の下町でも一種の顔であり通でもあったので、自然同好の士も多く、單に tea or coffee でもかなりの時間を娯しんだものと見える。後に述べる万茶亭やキユウペルはその一例である。又、昭和三十年頃は、有楽町フジアイス、浅草アリゾナ等の食事が多いがいずれも紅茶、珈琲を欠かしたことはなかったにちがいない。

なお荷風は茶漬が大好きであったので、関連した事を一言付言する。近藤弘氏は茶漬の楽しさを記述して、大谷三瑞師が「世界で一番おいしいのはたくわんに茶漬けだ」と云われたのをそれは音を楽しむ点が味覚上の大きな特色だとした上、松江のボテボテ茶もその好さは喫茶時の音であるとしている。興味深い発言だが、果たして如何なものであろうか。

―――万茶亭の場合

七月二十日。夕方銀座にて食事中神代君たづね來る。裏通りなるカツフヱーの間を歩み數寄屋橋際なる伯拉爾兒珈琲店萬茶亭といふに立寄り、街路樹の下に椅子を持出で凉を取らむとすれど、そよとの風もなし。萬茶亭の主人は多年サンパウロの農園に在りて珈琲を栽培せし由。生國は九州小倉なりと云ふ。南米植民地の事情を聞く中、神代君が知れるゴンドラの女給なにがし來り鮓を食はむとて南鍋町の三壽司といふ店に徃く。
夜は早くも十一時を過ぎたけれど風動かずますます蒸暑ければ、店の内に入らずこゝにても亦路端の木陰にに椅子卓志を運ばせて休む。銀座の表通はいつもよりも賑なるに、後を見返れば、横町の角なるサロン春の戸口には此店の女給里子といふ女米國活動寫眞の代役チヤプリンなる者に、愛せられ遠からずかの國に渡りて其妻となるべき由。今夕の新聞に出でたるが、早くも評判となりかくは人の出模屋の主人、裏通に住める市川壽若 壽美臓門人女形も來合わせ談笑漸く興を催す。(全21P148昭7)

万茶亭は珈琲自慢の安直な店であつた・荷風が珈琲通であつたことは、一般に知られてゐないが、荷風は珈琲のよしあしを人に教えたことがある。
(秋葉考証P431)
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―――キユウペル(久辺留)の場合
十銭のコーヒー、紅茶、日本茶を喫し何時間も憩ひ得た。キュウペルは二階の喫茶店で一階が店、当時酒は賣らず、レコードも掛けず、薄暗い静な店であつた。
(秋葉考証P443昭7)

―――茶店の澁茶の場合

四月十日・・・・・途次吉祥寺の門前を過ぐ、車窓より見るに門内の櫻花爛漫たり、電車を降り人力車を倩ひ瀧野川中里なる城官寺に至り舊幕府の醫官多紀氏の墳墓を見る、此のあたり人家既に建連なりて澀谷目黒あたりの光景と異る所なし、城官寺といふ寺は境内廣く堂宇も古めき樹木多く、こゝのみ昔の瀧野川らしき心地なり、本堂の傍に葭簣張の茶屋あり奉納の手拭をつるし老媼の澀茶を賣りゐたるは何よりもうれしき心地したり、境内に地蔵尊か何やらありて参詣の入絶えざるがためなるべし。
(全20P125昭5)

―――珈琲とシヨコラ

珈琲、シヨコラは茶ではないが、荷風の嗜好として見逃せない。長いけれど引用する。

珈琲の中でわたしの最も好むものは土耳古の珈琲であつた。トルコ珈琲のすこし酸いやうな澁い味ひは埃及煙草の香氣によく調和するばかりでない。佛欄西オリヤンタリズムの藝術をよろこび迎へるわたしにはゴーチヱーやロツチの文學ビゼやブリユノオが音樂を思出させるたよりとも成るからであつた。

いつ時分からわたしは珈琲を嗜み初めたか明らかに記憶してゐない。然し二十五歳の秋亞米利加へ行く汽船の食堂に於てわたしは既に英國風の紅茶よりも仏蘭西風の珈琲を喜んでゐたことを覺えてゐる。紐育に滯留して仏蘭西人の家に起臥すること三年、珈琲と葡萄酒とは歸國の後十幾年に及ぶ今日迄遂に全く廢する事のできぬものとなつた。

蜀山人が長崎の事を記した瓊浦又綴に珈琲のことをば豆を煎りたるもの焦臭くして食ふべからずとしてある。わたしは柳橋の小家に三味線をひいてゐた頃、又は新橋の妓家から手拭さげて朝湯に行つた頃―――かゝる放蕩の生涯が江戸戲作者風の著述をなすに必要であると信じてゐた頃にも、わたしはどうしても珈琲をやめることができなかつた。

各人日常の習慣とは凡そ三十代から四十前後にかけても定まるものである。中年の習慣は永く捨てがたいものである。捨て難い中年の習慣と嗜好とえお一生涯改めずに濟む人は幸福である。老境に入つて俄に半生慣れ親しまうとしても既にその氣力なく又時間もない。

珈琲と共にわたしはまた數年飲み慣れたシヨコラをも廢さばければならぬ。數年來わたしは獨居の生活の氣儘なるを喜んだ代り、炊事の不便に苦しみいつとはなく米飯を廢して麺麭のみを食してゐた。盬辛き味噌汁の代りに毎朝甘きシヨコラを啜つてゐた。歐洲戰凈の當時舶來の食料品の甚拂底であつた頃にも、わたしは百方手を盡して仏蘭西製のシヨコラを買つてゐたのである。

巴里の街の散歩を喜んだ人は皆知つてゐるのだあらう。あのシヨコラムニヱーと書いた卑俗な廣告は、セーヌ河を往復する河船の舷や町の辻々廣告塔に芝居や寄席の番組と共に張付けられてあつた。わたしは毎朝顔を洗ふ前に寝床の中で暖いシヨコラを啜らうと半身を起す時、枕元には昨夜讀みながら眠つた巴里の新聞や雜誌の投げ出されてあるのを見返りながら、折々われにもあらず十幾年昔の事を思出すのである。

巴里の宿屋に朝目をさましシヨコラを啜らうとて起き直る時窓外の裏町を角笛吹いて山羊の乳を賣行く女の聲。ソルボンの大時計の沈んだ音。またリヨンの下宿に朝な朝な耳にしたロオン河の水の音。これ等はすべて泡立つシヨコラの暖い煙につれて、今も尚あり~と思出されるものを。醫師の警告は今や飲食に關する凡ての快樂と追想とを奪ひ去つた。口に甘きものは和洋の別なくわたしの身には全く無用のものとなつた。
(砂糖、全15P22)

これは大正雑誌「國枠」の文章であるが、珈琲もシヨコラも健康上無用になつたなどと云っているのに、昭和二十年には砂糖一貫匆闇値四百五十円を仕入れたり、逝去の三十四年迄コーヒーの愛用が続いている。嗜好品の力は恐ろしい。

―――明治二十一年頃の珈琲紅茶の値段
荷風は「日乗」に日本における珈琲店のはじまりとして明治二十一年の珈琲茶館の広告を写している。(全23P39)その末尾にコーヒー代壱碗一銭五厘、同牛乳入り一碗二銭と記してある。珈琲研究科奥山儀八郎氏の「珈琲遍歴」によれば、当時ソバのもりもカケ八厘で、一杯の珈琲は二杯のそば代金と同じで決して安いとは思わなかったとし、更に同氏の文章では「ダイヤモンド珈琲店ではコツフイ御一名様三銭、牛乳入り五銭、紅茶は三銭の広告を出していた。だがそれが果してどんなものであつたか知れたもんではない」と結んでいる。しかしながら兎にも角にも、舶來の高級飲料であり需給の関係から云えば必ずしも高価とは云えないのではないか。

―――井戸の水の話
東京市内の人家で一般に水道の水をつかふようになつたのは、いつのころからであつたか、能く覺えてゐない。
明治二十七年の秋と云へば、丁度日淸戰爭の始つてから間もない時である。わたくしの家は飯田町(いひだまち)から、一番町へ引越したが、其頃家人は猶車井戸の水を汲んでゐた。數年の後更に大久保餘丁町(よちょうまち)へ移らうとする間際になつて、始めて臺所に水道が引かれた。明治三十五六年の頃である。
・・・・
江戸のむかし、上水は京橋、日本橋、兩國、神田あたりの繁華な町中を流れてゐたばかりで、邊鄙な山の手では、たとへば四谷また關口あたり、上水の通路になつている處でも、濫にこれを使ふことはできなかつた。それ故、おれは水道の水で産湯をつかつた男だと云へば江戸でも最繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に對して生粋な江戸ツ兒の誇りとなした所である。(むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言つたもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである。)
・・・・・・・
大久保の家の井戸端には棗と栗の老樹があつた。家の周圍(まはり)は杉と枳殻(からたち)の生垣(いけがき)で、其外(そのそと)には茶畠がつゞいてゐた。芋畠に芋の葉の波を打つてゐる處もあつた。いづれも三十年前のことで、その頃までは山の手の住宅には勝手口や、裏の空き地などにも捨てがたい一種の風致が残つてゐたのである。

(つづく)

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