第四十三回 永井荷風 ―― 讀書、瀹(ヤク)茶、煖(ダン)酒(4)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

――― 柳湾と館信
荷風は「葷斎漫筆」の中で、太田南畝や為永春水の伝記を綴つているが、同時に館柳湾の経歴についてもその関心の程を語っている。
「予こゝに柳湾が伝を詳にせむことを欲すれども、未之を能くする事を得ず。」などと記してはいるものゝ、北越詩話などを参照し、その閲歴を簡潔ながらも明確に描いている。そして柳湾の人となりについて「清濁温雅の風に至りては他人の追随を許さざるものあり」と譽めちぎっている。尚、終りに「館柳湾の一族の墳墓今猶牛込の長源寺にあり、されど子孫の來って香花を捧ぐる者なしと云ふ」と結んでいる。

さてこの一文を眼にした入沢達吉博士は荷風宛に書信を送り、自身の館信との縁を認めた上、館家が新潟で茶業を営む豪商であった事をしるすと共に、末尾に館信に長源寺の墓を清掃するよう注意すると述べている。お茶の豪商館信が、柳湾のような偉い人物と深い関係があった事は茶に多少なりとも携った者として一種の感懐を覚えざるを得ない。

――― 俳句 荷風には珊瑚集のようなフランス近代抒情詩の翻訳書はあるけれども、詩、漢詩、などの類はまことに乏しい。こゝでは茶に縁のある俳句数句をあげるにとどめる。

柳島画賛
紅梅に雪の降る日なり茶の稽古   (昭10岩波自選百句)

紅梅に雪の降る日や茶のけいこ   (昭10)

九段坂上の茶屋にて
初東風や富士見る茶屋つゞき    (昭10自選百句)
樓上の茶の湯の会やはるの雨     (明33)

岩楓小姓茶を運ぶ長廊下       (明33)

葉櫻や茶屋の娘のとつぎたる     (明33)

――― 戦争の中の荷風の暮らし
文化勲章受賞者である荷風には小説「腕くらべ」「雨瀟瀟(しょうしょう)」「濹東綺譚」ほか数々の名作があるが、その文化史的価値から云えば、いずれも「断腸亭日乗」の魅力には及ばない。筆者は大正六年から昭和三十四年に亘るこの読みごたえのある日記を中心に荷風の茶とのかゝわりを探りたかったが、結果的には戦中の荷風の生活の僅かな部分しか分らなかった。少々残念。

吉野俊彦氏はその著「断腸亭の経済学」の中で生活者としての荷風が戦中、戦後の経済生活、特に衣類、食品、野菜等の日用の必需品の価格の推移を丹念に記述している事を高く評価している。もっとも茶について格別の事は何もないが、こゝに戦争中のものをいくつか転記してみる。
さらに読む ↓

昭和十五年一月七日………
ウーロン茶は三四斤位たくはへあり

昭和十六年九月八日………
日本の食事にお茶漬に香の物を味ふことは昔の夢とはなりにけり。

昭和十六年十二月初六晴………
海苔屋、葉茶屋、乾物屋の店先はいずこも買手行列をなせり

昭和十八年六月初三………
リプトン紅茶残りもすくなし

昭和十八年十二月念四………
來客の一人葡萄酒、羊羹を携來りしかば飯後薄茶を喫し、款語夜十一時に至る

昭和十九年九月十五日陰………
また台所の塵埃も便所の物と同じく、穴を掘りて埋める由、曽て茶殻は豚の飼に必要なれば隅に捨つべからずとの御觸ありしは何の訳ありてにや、滑稽笑止の沙汰なりと。其あたりに住む人の噂なり。煙草依然品切刻煙草もなし。

昭和十九年十一月二十九日………
家に入り、炭火を吹きおこして茶を喫せむとする時、警報あり。雨また降り來る。砲声爆音轟然として窓の硝子をゆする。

昭和二十年二月二十五日………
鄰人雪を踏んで來り、午後一時半米国飛行機何台とやら襲來する筈なれば用心せよと告げて去れり、心何となく落つかねば食後秘藏せし、珈琲をわかし、砂糖惜し気なく入れ、パイプにこれも秘藏の西洋莨をつめ、徐に煙を喫す。もしもの場合にも此世に思い殘すこと無からしめむとてなり。

―――― 終りに
荷風の茶についてとりとめもなく写し書いた。当初は「讀書、瀹茶、煖酒の三事は伴侶を待たずして、独たのしむ事を得るなり」に大いに感服、敬意を表して本稿の主題にしたかったのだが、行文必ずしも意の如くならず、書かずもがなの事に終始したような感じである。思うに実生活の中の荷風が独り愉しんだのは矢張り古今東西の書籍であって銘茶や美酒ではなかったのだろう。

彼は瀹茶の愉しみを説きながら、他方では珈琲、ショコラへのはげしい思慕をうたっている。この辺にも戯作者荷風の荷風らしさを窺い知るべきなのであろうか。荷風を知るのはむつかしいが、荷風の人となりや、文学について多くの批評がある。志賀直哉は「彼は立派な文学者だ」と云い、大江健三郎はその小説作法の美事さを激賞している。もとより人の意見はまちまちであるが、ここでは湯浅、遠藤両氏の対照的な言葉を借用してみた。いずれも全集月報掲載の日乗に就いての感想文の抜粋である。

湯浅芳子
荷風くらい徹底したエゴイストはなかった。彼は自由を愛したといわれるが、それは自己の自由をいうので他人のことなんぞ考えるひとではなかったからである。また彼には文学者・詩人としての高いプライドがあったかの如くであるけれども、実は人間としての真のプライド、人間の尊厳の自覚は欠いていたかに思われるふしが大いにある。

………荷風はだた色情の対象として女を相手にし、倦きると忽ち捨てた。世話をしている女が荷風の浮気に苦しみヒステリーを起すと「女子と小人養いがたし」と片づけた。己れに甘く他人に厳しい点では常人の域を超えていた。これは女に対してばかりでなくあらゆる他人に対してである。人間への批評は辛辣だが自分自身には些かの反省もない。

遠藤周作
私はこの日記を荷風の書いた唯一の長編小説であり集大成と考える。本当の永井壮吉と日記中の芸術化された「余」とがどのように違うかは、たとえば奥野信太郎氏がいみじくも言われたように、「余」が病骨にして浪費家、怠惰、の姿勢を多くとるにたいし、本当の荷風は「健康で律儀で倹約家」だったのである。

……それでもかつての「余」の哀愁や情緒は次第に失われ、その代りに永井壮吉とよぶ一老人の死を前にしたむきだしの孤独が露出しているように私には思われる。私はひょっとすると荷風はこの時、自分が数十年にわたって守り続けてきた孤独の本当の姿、悲哀とか、寂寥とか名づけられる美名ではもはや許されない、地獄が顔を覗かせたのではないかとふと思うことがある。

補 吉野俊彦―――永井荷風と河上肇
この二人の生き方を示すいくつかの著作物は、方面こそ異なれ空前のベストセラーとなって多くの人々に大きな影響を与えたが、それに伴って増加した収入を、荷風は「挙ぐるに遑あら」ざるほどの女性遍歴に注ぎこみ、次の名作を生み出すためのコストに充当する一方、河上肇は自らの理論に忠実たるべく、実践運動に寄付してしまった。

太平洋戦争末期の空襲で自宅と蔵書の総てを焼失した荷風は、戦後の荷風ブームの到来により立派な家屋を再建しようと思えば容易にそれが可能であったのに、みすぼらしい小屋の自炊生活に甘んじ、孤独な死をとげた部屋には鴎外全集、荷風全集とフランス語の原書がおかれていただけであった。
遺体の側に投げ出されたボストンバッグの中の預金通帳は、彼の文学の収支決算がネットの黒字だったことを示し、他人の世話を受けようと思えば出来ないわけではないのだがと言わんばかりで、それが無物主義の反面の形態でもあった。河上肇も党への寄付で蓄債資金のほとんどすべてを失い、また出獄後の保護観察処分下で保有の経済学書をすべて没収され、終戦直後京都の借家で家族にみとられて永眠した際は、やがて膨大な全集の源となる著作権は別として、金目の物は何一つ残されていなかった。

二人がこの世を去ってからすでに数十年、現在の日本では思い切ってモノを捨てる技術を身につけなければ暮らしていけないほどモノが余って困っている家庭が多くなっている。二十一世紀に生きていくためには、ベストセラーになった『捨てる技術』を読まなければならない時代であるが、荷風も河上肇も共に無物主義の下に死んで行ったので、この「捨てる技術」を活用した先達だったと言える。  (NHK出版)

PAGE TOP