第四十四回 谷崎潤一郎―― 味覚の表現(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

谷崎潤一郎は生粋の江戸っ子であったが、後年関西文化特にその食生活に憧れて京都に定住した。谷崎の美食家ぶりは多くの人が語る通りであるが、晩年その血圧が上一九〇下一一〇位であっても「僕は少くとも三日に一遍は美食しないと、とても仕事が手につかない。美食は僕の日常生活に必須条件となつてゐるのだ。」(上方の食ひもの、全22P156)と述べている。だが「春琴抄」「細雪」はじめ多くの名作を書き、執筆の合間に絶えず銘茶を飲んでいたと思われる谷崎がお茶の効能について言及されなかったのは遺憾千万という感じがする。しかし、そうは云っても谷崎の「陰影礼讃」はじめ日本料理についての感覚の表現の中には、すごくまっとうで首肯させられる言葉が多いので、そうした言葉のしばしを拾いながら茶についての嗜好を窺ってみたい。

尚美食については伊吹和子、高峰秀子等が面白いが、渡辺たをりの「花は櫻、魚は鯛」(中公)は最も身近な人であっただけに忘れる訳にはゆかない。

―――茶園
大和國添上郡柳生の里
殊に私の眼をうっとりさせたものは、至る處の傾斜面にある茶畑であった。それらの傾斜は、女性的な柔和な圓みを持つ丘で、その丘の腹にある茶畑は、何と云う日光の魔法であらう!孰れも此れも金色に光る“びろうど”の玉だった。私は全く、何のために歩いてゐるのかを忘れた。一日此の道を行き暮らしても疲れを知らぬ心地がした。(全10P466)

白川の茶畑
銀閣寺の庭に盛ってある白川砂と云ふあの美しい白い砂は、この川の川床に産するのである。川の水はきれいに透き通ってゐるけれども、魚は棲んでゐない。川上の方に含有量の濃厚なラヂウム鑛泉が湧き出てゐるからであると云ふ。こゝの花賣女たちはそれらの花々の束を擔いで京都の市中を賣り歩く。所謂白川女(しらかはめ)と云ふのがそれで、姿は大原女(おゝはらめ)に似てゐるけれども、手甲(てっかふ)の掛けかたが大原女と違ってゐる。茶畑もたくさんあると見えて、茶の時分には摘み取られた茶が路の至るところに乾してある。正月の輪飾り、衹園會(ぎをんえ)の粽(ちまき)なども多く此の里の人々が作り出すのであるが、働き手は主に女なので、昔から女天下の土地になってゐると云ふ。(全17P412老後の春)
もっとも昭和三十七年頃には既に近代化が進んだとも書かれている。(全21P480)

現在では路上の日乾番茶などあり得ないにちがいない。

―――― 小説戯曲の中の茶
谷崎の作品に出てくるお茶の場面は決して少なくないのだが、その描写は極めて簡潔である。緑茶も紅茶も同様。
「お茶を入れる」「お茶を運ぶ」「お茶を御馳走する」「お茶漬けをかきこむやうにさらさら」等々あるが、作者の嗜好を思わせるものはない。
やはり、日常茶飯の茶はとりたてて、書きようがないのだろう。兎に角小説、戯曲、随筆などから茶に関連する事柄を気のつく儘に記してみる。

―――― 家庭のお点前
関西では茶事はごくありふれた嗜みごとであるが渡辺たをりは祖父潤一郎と母千万子とが下鴨の潺湲(センカン)亭で初めて顔を合わせ、その時母千万子は頼まれてお点前をした……と述べている。(花は櫻、魚は鯛P192中公)谷崎家では無論、家庭内の事で儀式ばったものでないがお茶のお点前がしばしばあったにちがいない。

――― 狂言でのお茶席
お茶を一服差上げますからと云ふことで先づお茶席へ請(しやう)ぜられ、山内母堂の點前(てまえ)で薄茶の饗應があり、そこへ千作翁や千五郎氏が挨拶に見えた。山内母堂の言葉を引けば、今日は「南禪寺村の住人」だけの寄合であるからそのおつもりでお気樂にと云ふことであったが、狂言師の方は千作翁、千五郎氏、同夫人、千之丞氏など殆ど茂山一家が聰出で出張ってゐるのであった。お茶が濟むと、上田氏の子息たちの演ずる狂言「呼聲」があり、私たちはさっきの池亭の床張りの席に戻ったが、見物人と云ってもそんなに大勢ゐるのではない。…… 打ち見たところ、いづれも京都の此のあたりの住人らしい品のよい人柄の男女ばかりで、所謂「南禪寺村の住人」たちなのである。
(全16P122)

――― 都踊と茶事
若き日の朱雀日記
もう二三日でなくなるから、是非一度見て置けと勸められて、瓢亭の歸りに、長田君と二人で見物に行く。木造の御殿風の建物の入口で切符を購なひ、玄關を上ると、左手に歌舞伎座の運動場然たる休憩所がある。其處で繪はがきなどを冷かしながら、五囘目の踊りの始まるのを待つ。
やがて頭を角刈にした、紋付袴の男が出て來て、「何卒こちらへ」と一同を別の廣間へ案内する。一等の切符を買った者に限り、此の廣間で薄茶の饗應に與(あづ)かるのださうである。

茶の湯と云ふと風流らしいが、寄宿舎の食堂のやうに、細長い食卓と椅子が列んで皆其れへ腰を掛ける。かう云ふ設備は、萬事観光の外國人を標準にしてしつらへたものと見える。其の晩も外人が二三人交って、胡乱(うろん)な眼をしながら、にやにや にやにや 笑って居た。

やうやう七つか八つ位の下地子(したちつこ)のやうな娘がぜんまい仕掛の人形の如くするすると歩み出でゝ、一人一人にお茶菓子を配る其の間に、十五六になる舞子が茶釜の前へ腰かけて、お茶を立てる。但し其の湯加減のまづさといったらお話にならない。
今夜は雨天で入りの少ないせゐもあらうが、不斷だと、祇園選り抜きの美女が出て來て茶を立てたり、菓子を配ったりする。其れを樂しみにやって来る連中が多いのだと云ふ。(全1P347)
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―――― 後年熱海在住時代
――― 十一日のハトで着いて、十二の晩に、家人、義妹、千萬子、たをりの四人を伴って、先づ都をどりを見る。
こゝのをどりは芸よりも祇園と云ふ町の情緒と長い歴史が醸し出す気分が身上(しんじやう)なのである。それに前後一時間足らずで見てしまへるのも気が利いてゐる。私たちは平安神宮や嵯峨の桜とこゝの踊りを見ないことには春が来たやうに感じない癖がついてゐるので、戦争中と病気の時とを除いて、この行事を欠かしたことがない。辛うじて外へ掃き出されて、古い馴染の吉初(よしはつ)へ駆け込んで休ませて貰ふ。かねてから入洛を待ち構へてゐた女将(おかみ)が出て来てなつかしがるので、帳場の長火鉢の前で茶を呼ばれながら暫く話し込む。(全17老後の春P413)

―――― 支那のお茶
「ところで支那人は、日本人の嗜む玉露の味が分りますか」と云ふ質問が出る。
支那人は茶の熱いのを好む、從って玉露の趣味はないけれども、茶の入れ方と茶器の吟味に關しては、また自ら傅統がある。だから茶道の名人が使った器は、朱泥などでも高價な品が澤山ある。それに就いて面白い話は、昔福州(?)だったかに或る一人の金持があった。その男は茶の道樂から家産を傾け、とうとうしまひには乞食になってしまったが、それでも平素愛玩する一つの茶器を、肌身放さず持ってゐた。

或る時素封家の門に立って物を乞ふついでに、「かねがね此方の御主人は珍しい茶器を秘藏せられ、名高い茶人でいらっしゃると承ってをりますが、願はくは御主人のお立てになったお茶を一服賜はりたい」と申し入れた。主人は頗る此れを奇とし、その乞食を邸内に請じて手づから茶を立てゝ飲ましたところ、乞食が云ふには、「成るほど結構なお手前である、しかしわたくしも此處に一つの茶器を携へてをりますから、此れで一服召上って下さい」と、檻褸を纒うた懐からその器を取り出し、今度は乞食が茶を入れて主人に與へた。主人がそれを試みると香味馥郁、口中頓に清々しく、彼が先刻立てたものとは比較にならない。茶は同じもの、水も同じ物であったが、乞食の茶器と湯加減とが、主人のより勝ってゐたのである。斯くて主人と乞食とは、その後茶道の交りを續けて、無二の友だちになったと云ふ。
「こんな逸話はまだ幾らでもあります」と云ふ。
 (全10P576上海交遊記)

煙草と云へば、支那ではお客をもてなすのに、お茶やお菓子をすゝめるやうに“ふんだん”に煙草をすゝめる。ネーヴィー・カットの鑵の口を切って、それぐるみテーブルの上へ置いて、手の届かないお客の席へは、五六本づゝお茶と一緒に分けて與へる。茶碗は例の、湯を注ぎ込んでは蓋の上から飲む式の奴で、飲んでしまふと直ぐに後から注いでくれ、煙草がなくなると又五六本積み上げてくれる。世界ぢゆうで最も多くお茶を飲むのは露西亞人と支那人ださうだが、私のやうに年中がぶがぶ湯茶を飲んでは煙草を吹かす癖のある者には、此のもてなしは何より有難い。
總じて物を喰ふのにも煙草を吸ふのにも、支那の遣り方は氣がねがなくて、西洋流よりもずっと自由だ。
(全10P584上海交遊記)

―――― 味覚、嗅覚
若い頃の谷崎の小説に「金色の死」というのがある。友人岡村君を設定し、その病的な芸術観の実踐を描いた作品である。全くの空想、架空の物語りではあるが、作者は岡村君に次の如く語らせている。

建築も衣装も美術の一種なるに料理は何故に美術と稱するを得ざるや。味覚の快感は何故美術的ならずと云ふか。われ之を知るに惑ふ。…私は「君が斯かる疑問起すのは美学を知らない結果だ」と云ってやりましたが、「美学が何の役に立つ」と云って彼は一向頓著しませんでした。
(全2P484)

いかにも料理マニア、谷崎のとりあげたい科白ではないか。味覚、嗅覚等は所謂る劣等感覚と云われているが、谷崎にあっては感覚の中での味覚、嗅覚は等閑に附する訳にゆかず、つい小説の中でこのような事を言わしめたのかも知れない。ごく自然の筆致であるが気にかゝる。
文章家谷崎にとってその味覚、嗅覚を如何にして読者に解ってもらうかは方法論として大きな問題であったに違いない。そこで「文章讀本」とか「陰影礼讃」に及んだのだろう。「花は櫻、魚は鯛」(筆者渡辺たをり)の解説者千葉俊二氏は興味ある一文を書いている。長文を要約してみる。

味覚表現の限界と断念
若いころの谷崎は、あふれ出る奔放な想像力にまかせ、無謀にも、言葉をもっては伝達することがむずかしい味覚そのものを文学に定着せしめようとする作品にも挑戦しています。大正八年の『美食倶楽部』です。そこには普通の美食に飽いた主人公たちの味覚を満足させるような奇抜な料理の数々が描かれておりますが、たとえば「鶏粥魚翅(けいしゅくぎょし)」という料理について、次のように描いております。……
読者はその趣向の奇抜さや想像力の卓抜な奔放さに度肝を抜かれ、面白くも読まされ、感心もさせられるのですが、そこで言及される一つひとつの料理の「味」については、どんなに多くの言葉を費やして説明されても、それらがどれほど美味なのか具体的に伝わってきません。まさに主人公たちは、語り手が最後に語っているように「最早や美食を『味はふ』のでも『食ふ』のでもなく単に『狂』って居るのだ」としかいいようがないように思われるのです。

これに対して、『文章読本』にはひとつの断念が語られております。「物の味」を他者に伝えられないように、言葉は決して万能ではなく、案外不自由なものであるという断念です。
谷崎潤一郎は昭和九年の『文章読本』の冒頭近くに、言語は万能なものでなく、その働きは案外に不自由であることを指摘しておりますが、その説明に次のような具体例をあげております。

鯛を食べたことのない人に鯛の味を分らせるやうに説明しろと云ったらば、皆さんはどんな言葉を択びますか。恐らくどんな言葉を以ても云ひ現はす方法がないでありませう。左様に、たった一つの物の味でさへ伝へることが出来ないのでありますから、言語と云ふものは案外不自由なものでもあります。

私たちの人生においても自己表現のためには断念が必要です。私たちが潜在的に抱いている可能性のすべてをこの人生で実現させようとすることはとても不可能で、断念の深さによってその成熟も深められるのだといえましょう。谷崎の文学は、大正十二年の関東大震災を契機とした関西移住以後、急速に成熟してゆきますが、その背後には、やはりこうした断念があったものと思われます。

……昭和八年の『陰翳礼讃』における「わらんじや」の料理を描いた次の一節を先の『美食倶楽部』と読み比べてみたいと思います。
私は、吸ひ物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むやうにジイと鳴ってゐる、あの遠い虫の音のやうなおとを聴きつゝ此れから食べる物の味はひに思ひをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。
茶人が湯のたぎるおとに尾上の松風を連想しながら無我の境に入ると云ふのも、恐らくそれに似た心持なのであらう。日本の料理は食ふものでなくて見るものだと云はれるが、かう云ふ場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云はう。さうしてそれは、闇にまたゝく臘燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。嘗て漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美してをられたことがあったが、さう云へばあの色などは矢張瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のやうに半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸ひ取って夢みる如きほの明るさを啣んでゐる感じ、あの色あひの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云ふ浅はかさ、単純さであらう。だがその羊羹の色あひも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしほ瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、恰も室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんたうはさう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添はるやうに思ふ。

『美食倶楽部』では味そのものの直接描写が試みられていますが、私たちはそこに何らかの統一的なイメージを結ぶことはなかなかできません。が、『陰翳礼讃』のこの文章を読むと、自分がこれまでに味わったいちばん美味しい吸い物椀や羊羹の味を思い起こして、思わず口内にたまった唾液をのみ込まずにはいられません。味覚そのものへの直接的言及は、羊羹に関して「恰も室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ」という含蓄にとんだ比喩的表現しか与えられておりませんが、この一文に触れると、たとえそう旨くなくとも羊羹を食べてみたくなるから不思議です。

ここには注意深く「味」への直接表現が避けられ、読者の連想を刺激しながら、読者各人がこれまでに体験した最上の味覚を喚起するように仕向けられているのです。まさにみずからの味覚を他者へ伝えることはできないと断念し、その断念によって深められた文章なのだということができるでしょう。

尚千葉氏は味の親和力について次の如く記している。
『細雪』の雪子のモデルとなった松子夫人の妹の重子と渡辺明(『細雪』では御牧実)とが昭和十六年に結婚しておりますが、ふたりのあいだには子がなかったので、松子夫人の前夫根津清太郎とのあいだに生まれた清治さんが養子に入っております。そして、その清治さんと橋本関雪の孫の千萬子さんが結婚して、そのふたりのあいだに生まれたのがたをりさんです。

ですから、たをりさんと谷崎とのあいだには血のつながりはありません。が、本書でたをりさんが描出した味覚の親和力によって結ばれた谷崎ファミリーは、血縁でつながれた家族以上に濃密で、どこかエロティックないわば味覚共同体といったものを感じさせられます。おそらく『瘋癲老人日記』に描かれた味覚によるコミュニケーションもこうした背景があってこそ発想し得たものだったのでしょう。と結んでいる。

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