-第四十五回- 谷崎 潤一郎 ――― 味覚の表現(2) 

株式会社かねも 相談役 角替茂二

―――料理学者辻静雄氏の言葉は傾聴に値する。

こうしてみてきますと、味の表現というのは、総じてフランス語でも案外貧弱な気がします。プリヤ=サヴァランを持ち出すまでもなく、味わうことそのものが主観的なことだし、それを言葉で表現するというのは至難の技のようで、どこかで言葉遊びの域を出ないこともあります。

文庫の解説で書いたことがあるんですけれども、開高健さんならオノマトペといいますか、ギトギト、ペチャペチャ、シコシコ、ジュクジュクとやる。九谷才一さんなら絵か音楽でたとえてしまわれる。同じ食べ物を食べていれば、へえ、こんな風に感じておられたんだなとは思うものの、読んだけじゃ分からない。それぞれの、そのたとえにつかわれた感触なり、モノなりが、人によって受け止め方が違うはずです。ですから、味について書いた文章は文章の味で勝負しているものであって、だれしも共通の感覚をもっていると錯覚しないかぎり読めるものではありません。それから、言葉を選べない人、言葉で表現できない人、それでも何か、よく舌で据えている人は存在するということは認識しておかなくてはなりません。

それは、音楽や絵画、詩などについて「わかる」という言葉をつかう場合、心しておかなければならないことです。「わかる」とは、その人が、その様に、その時に感じることに他ならないことです。まして、今あげたような芸術作品で誰にでも機会均等に与えられるものならまだしも、植物や料理の味になると何が各人に与えられているのか、まったく想像することすらできないのですから、受け止め方に関しての表現になると比較すること自体、無理があるのではないでしょうか。それでも感じたことを言葉で表したいという意欲こそ人間のもっている業について考えさせられます。
(岩波 ブリヤ・サブァラン美味礼讃 辻静雄)

お茶の審査についても大いに参考になるではないか。

―――谷崎の嗜好の変遷
壯年の時代
瓢亭と中村屋
京都で第一流の料理屋と云へば、先づ瓢亭(へうてい)と中村屋である。私は幸ひにして此の二軒の板前を窺ふことが出來た。
春雨のしよぼしよぼと降りしきる日の夕方、上田先生から招待されて、私は長田君と一緒に、南禪寺境内の瓢亭へ俥を走らせた。やがて俥の止まつたのは、見すぼらしい焼芋屋のやうな家の軒先である。大方車夫が鑞燭か草鞋でも買ふのだらうと思って居ると、おいでやす、お上がりやす、といふ聲が聞えて、幌が取り除けられる。其處が瓢亭の入り口であった。

地味な木綿の衣類を着た、若い女に導かれて、雨垂のぼたぼた落ちる母屋の庇に身を倚せかけつ、裏庭に廻れば京都の料理屋に有りがちな「入金」式の家の造り。成る程其處が瓢亭だなと、漸う合鮎が行く。雫に濡れた植込みの葉蔭をくゞって、奥まった一棟へ案内されると、もう上田先生が待って居られる。

一しきり雨は又強くなって、數奇を凝らした茶座敷の周圍を十重二十重(とへはたへ)に包んで、池水を叩き、青苔を洗ひ、さゝやかな庭が濛々と打ち煙る。筧(かけい)をめぐる涓滴の音の、腸(はらわた)へ浸み込むやうな心地好さを味はひながら、さまで熱からぬ程の燗酒をちびりちびりと舌に受ける。

私の腹加減は減っても居ず、くちくもなく、かう云ふところへ呼ばれるには、恰好な氣分であった。先づ京都の食物は、淡白で水ツぽくて東京の人の口には合ひさうもない。第一に醤油の味が餘程違って居る。人に倚ってそれぞれの嗜好があるとしても、鰻、すし、そば、などは遥かに東京より劣って居る。一般に海の魚は種類が乏しくて、而も品質が悪いやうである。
京都に長く滞在して、なにより不自由を感じるのは、東京流の女と食物の缺乏である。酒がうまいだけに猶更其れを遺憾に思ふ。
(全第一巻P368朱雀日記)
以上は大正二年頃の執筆、壯年時代の嗜好である。

―――晩年の好み
東京では新橋の新橋亭、田村町の新家飯店、この二つは中華料理で、日本料理では大丸地階の辻留、西銀座の濱作などが主でした。
(19缶 台所太平記 女中の鈴P300)

しかるに三十七八年頃から、その食欲も衰え始めた。以前は日本料理西洋料理中国料理、油っこいものは何でも構わず食べたものだが、だんだん京都風の淡白な味を好むようになった。西洋料理はそれでも時々食べたくなるが、一時は一番好きであった中国料理が今では一番嫌いになった。中国料理を見ると、いろんなものがゴチャゴチャと盛り合わせてあって五味溜(ごみため)のような気がする。結局日本人には日本料理に及ぶものはない。その日本料理は何といっても京都である。東京にも京都料理が進出して来たが、やはり京都で京都のものを食うことである。暖簾をくぐって、ちょっと腰掛けて簡単に食ってでられるような家でも、京都には旨くて安い店がたくさんある。
(19缶P494七十九才の春)

味覚に敏感な谷崎は身内の渡部たをりを食の名人と云って可愛がった。そして台所太平記では女中の鈴を厚遇した趣がうかがはれる。
彼女は生れつき味覺が發達してゐまして、旨(うま)い不味(まず)いがよくわかりましたので、從って料理を作ることが上手でした。彼女の大先輩である初が、まだその時分まで千倉家に勤めてゐまして、相變らず京都と熱海との間を行ったり來たりして台所を預かってゐましたから、關
西好みの料理の仕方を彼女に仕込まれたせゐもあるでせう。茶を入れさせても、鈴が入れると違ってゐました。そんな風でしたから、おいしい物を食べたがることも人一倍でしたので、鈴には御馳走のしがひがあると云って夫婦は彼女を特別に旨いもの屋に連れて行ったり、「これを食べて御覧」と云って、なにかおいしいいものがあると彼女のために殘しておいたりしたものでした。
「鈴や、おいで。」
と云って、夕方からぶらりと出かけて、氣がむくと懇意な喰ひものを屋の暖簾をくゞります。四條木屋町上ル西入ルのたん熊、祇園末松町の壺坂、・・・・・・
(19巻P360台所太平記)

蛇足のようだが、別の女中さんの話、台所太平記にある。
・・・・銀にはその外にもいろいろと東京人には古臭く感じられる習慣が殘ってゐました。銀の父親は戰病死したのださうですが、毎月父の命日には三度ともお茶漬けでご飯を食べお數は一切取りません。そのしきたりを嚴重に守ってゐました。それから、毎年季節の變り目に初物を食べます時、西の方を向いてわざと「アハハ」と聲を立てゝ笑ひ、「これで七十五日生き延びる」と申しました。東京でも「七十五日生き延びる」と云ふことは申しますが、「アハハ」と笑ふことはしません。さう云えば昔の初なども、やはり初物の時に「アハハ」と笑ってゐましたが、鹿兒島あたりでは必ずさうすべきものと決めてゐるやうです。
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―――茶粥
私は冬になると茶粥が好きで拵へさせるけれど、一つは燃料の関係もあって、どうもうまい工合に出來ない。大和と紀州とは茶粥の本場で、粉河寺(こかはでら)の近邊では燃料に竹を使ふと聞いてゐたが、上市の方ではくぬぎの薪を燃やすさうである。「茶粥にはくぬぎでなければいけません」とHさんはいふのである。

―――お茶懐石の粹
昭和二十九年十一月「つじ留の茶懐石の話」
今度東京へ大丸が進出することになったが、その大丸で京の辻留がお茶懐石の域を味はせると云ふ。京都のかう云ふ料理はさう容易に口に出來ないもので、専ら茶人の嗜むものとされてゐるのであるが、此の機會に東京で廣く一般の人に近づいて行きたいと云うてゐる。そして茶道の約束にばかり囚はれず、もっと砕けたものにするのださうである。まことに結構な試みで靜かな京の山水を思ひうかべながら此の料理の味を味はつてもらへれば幸である。

―――遲筆とお茶
・・・私の遲筆はそんな殊勝な理由よりも、主として體力の問題なのである。私はじっと一つことを考へ詰めると、精神的にも肉體的にも直きに疲勞する。だからニ十分とは根氣が續かない。これは若い時分から糖尿病があるせゐだと思ってゐるが、兎に角そんな次第であるから、原稿用紙に向っても、煙草を吸ふとか、茶湯を飲むとか、小用に立つとか、十分二十分置きぐらゐにいろいろな合いの手が這入る。さう云ふ風にして一息入れては氣を變へないと、思考を集注することが出來ない。それで、たまたま或る一箇所に行き惱むと、此の、立ったり、坐ったり、飲んだり、吸ったりが、いよいよ頻繁に繰り返される。一服吸ってみて五分か十分じっと原稿を睨みつけて、巧くいかないと今度は茶を飲んで又睨める。それでも駄目だと小用に立って、ついでに庭を歩いて來てから又原稿にしがみ着く。
(全21P256私の貧乏物語)

――――老人執筆の心構
若い時代には青年特有の空想力と放膽とで、知らないことでも知ったやうに書いて除けるが、老人になると、さう云ふ點が丹念にもなり、臆病にもなって、物事を曖昧にしておくことが出來ず、合點が行くまで緻密に調べてからでなければ、筆が執れない。

たとえば千利休を扱った歴史小説を書くとして、若い作家なら一通り參考書を漁ったゞけでも書き出すであらうが、此の頃の私なら、先づ三四年も茶の湯の稽古をしてから、と云ふことになる。而もほんたうの理想を云へば、豫め利休えお書く目的で茶の湯を習ってゐるうちに利休を主題にした物語が自ら構想されて來る、と、云ふやうであって欲しいのである。・・・・・・何はともあれ、今の私は既に老人なのであるから、一つの創作を準備するにも老人特有の凝り性と詮索癖とを發輝して、コツコツと石橋を叩いて渡るやうに、氣長にかゝるより外はないが、さうなると實に、調べてみたいもの、知っておきたいもの、徑驗したいものが、際限なく見出されて來る。畢竟それは、生活の範囲を廣く、内容を豊富にすると云ふことになるので、從って金がかゝるのである。
(全21P252私の貧乏物語)

――――頻尿とお茶
又今日のは公式のお召しにあらず侍從等と我らと文藝雜談をしてゐる所へ陛下も一寸お出ましになってお聽きになると云ふ形式にしたしとのことなり、又、話題は、川田吉井は歌の話をせよ、予は大阪人氣質と文樂の話をせよとのことなり、今日此れからは陛下には何も御豫定なき故時間等も豫め定めずその場になり侍從より適宜計らふべしとのことなり、又、話に穴のあかねやうと河田氏の注意あり、(予は尿近きため家を出る時一囘、河田家にて一囘すまし、梅の間にてもなるべく茶を戴かぬやうにしてゐたがいよいよ拜謁の時間近づきし時一同打ち揃ひ河田氏の案内にて用を足す、吉井氏も「便所は何處かね」と氣になるらしく云ふ)梅の間にて十五分程雜談の後、お炬燵(こた)の間の西の間に參進お持ち申上ぐるうち間もなく出御、圖(略之)の如く陛下の御着席を待って我等も着席す、部屋の廣さは十ニ疊ならん、光線の入る所なき暗き部屋故、電燈を煌々とつけたり、(襖は無地に金砂子、部屋の隅、丁度予のうしろの所の卓上の花瓶にルーピンとスヰートピーを活けたり)
陛下は御血色宜しく寫眞にて拜するよりは遥かに威嚴に富み給ふ、お顔は肥えてや、下ぶくれのやうになり顔面筋肉を時々痙孿的にピクピクさせ給ふ、
(全16巻P464)

―――和歌
この春は庭におりたち妻子らと茶摘みにくらす我にもある哉
いつかまた子孫を促し庭に出でて茶を摘む頃となりにける哉
(春夏秋冬全22P267)

――――書信
五月二日 神戸市外阪急岡本㊞㊞より東京市小石川區關口町二〇七佐藤春夫宛 封書(御直披)

先日は御騒かせした、來てもらはないでいいやうになった、本月十四日母十三囘忌につき十日前後妻子同伴上京、宿をホテルにする豫定也
覆 水 返 盆
この春は庭におちたち妻子らと
茶摘みにくらす我にもある哉

をかもとの宿は住みよしあしや潟
海を見つつも年をへにけり

いづれ拜顔の節萬
五月二日

昭和三十年
四月二日

鮑耀明様
机下

ウーロン茶お届け下さいます由御芳情難有存じます

四月十八日
烏龍茶は確に平岡さんから届けていただきました。
ただ今京都の宅にて久し振りに
あの茶の味を賞味いたしております。
鮑耀明様

昭和三十七年
七月十七日
香方茶一昨日確かに郭旭さんから届きました。
鮑耀明様

終。云はずもがなであるが、谷崎がアッと驚くようなうまい茶を飲ませて一筆書かせてみたかった。陰影礼賛流で。
又、谷崎の言葉に
「感覚と云ふものは、一定の錬磨を経た後には、各人が同一対象に対して同様に感じる様に作られている」とある。(文章讀本)
忘れがたいフレーズ。

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