第四十六回 川端 康成 ――― 「千羽鶴」の世界(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

川端 康成 ――― 「千羽鶴」の世界(1)

川端康成はノーベル文学賞作家である。川端は受賞に際し「美しい日本の私」と題する記念講演を行っている。道元、明恵、良寛、一休、源氏物語等が出てきて頗る考えさせられる内容。その中で日本の茶道も「雪・月・花の時・最も友を思ふ」のがその根本の心で、茶会はその「感会」、よい時に、よい友だちが集ふよい会なのであります。「-ちなみに私の小説「千羽鶴」は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となった茶、それに疑ひと警めを向けた、むしろ否定の作品なのです。」と書いている。

「伊豆の踊子」から「雪国」迄新感覚派の所詮抒情作家であった川端康成は同時に茶人としても有名である。或いは小説の中で、或いは評論の中で茶事について言及しているが、中でも小説「千羽鶴」と講演「美しい日本の私」とは茶の研究者のテーマとして最も重要な意味を持っている。茶の湯研究者戸田勝久氏は「千羽鶴の作品論として、優れたものは吉村貞司氏のそれであろう。」と述べている。この事は後段に譲るとして先ずは表、裏両千家との係わり、茶会の模様などを記してみる。

―――千宗左編「表千家のすべて」の推薦文。
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茶道の歴史書、意義の評論、各流作法の指導書、あるひは茶器の圖録は、すでに立派なものが多く出てゐるけれども、この「表千家のすべて」といふやうな書は初めてである。歴史書はだいたい創祖の利休を詳論、その後の家元代々には粗略、しかし、実際の茶では、利休後の代々も話題にのぼり、私たちも無知に困る場合が多い。この書はそれを補ひ、その他にも、当然必要でありながら、これまでの茶書に欠けてゐたものを補ってゐる。

――――裏千家の初釜
お茶と言ふと、一昨日、一月十八日、裏千家の初釜に招かれて、築地の金田中にゆき、福引きで、福禄寺の福を引きあて、淡々斎宗匠がこの正月初削りの茶杓を獲た。宗匠がその日の初釜の濃茶席に使った茶杓である。正月早々縁起がよく、福運の年のやうに思へる。勅題の歌銘「船出」で、さまざまの幸つみのせて外國(とっくに)へ出でゆく船のたのもしきかな
の歌が筒に書かれてゐる。私がペン・クラブの代表として、ダブリンの世界大会へゆくとすると、いよいよ幸先がよいわけだ。限りない祝福のやうだ。私はあまりめでたいので、初釜所見の五句で禮を返した。十年ぶりくらゐの、絶えて久しい句作だ。

初釜に宗匠還暦の年と言ふ
初釜の床に大き柳枝垂れをり
初釜に二百年なる銀の風爐
初釜の背に大観の富士雲海
初釜の廣間家元爛漫と

初釜づくしは素人のつたなさだが、無造作な寫生はいささか虚子風であるか。
(全34P539)

――――音羽護国寺大師会に行って来た。ここ数年、京都の秋の光悦会にも、東京の春の大師会にも、怠けつづきであったが、この月の十五日、北鎌倉の日向会に、幾年かぶりで行ってみて、長次郎の風折そのほかの名器を、茶会で手に触れて拝見すると、心神とみに清爽をおぼえたので、大師会に出向いたわけであった。
菜種梅雨が、きょうはやっと晴れ、護国寺の八重桜は咲きざかりであった。
………
さて東京席は、根津美術館の名品を取り合はせるといふ、またとないことであった。寄附の床は傳牧谿も「竹雀之圖」、本席の床は因陀羅の「布袋將摩訶門答姟圖」、二つともよく知られた國寳だが、茶室の床で、雀の目までのぞきこむやうにしみじみと見るのは、私にははじめてだった。
さらにまた、因陀羅の前の花入れに、私は目がさめる思ひだった。碪青磁のあの「大内筒」で、展観場では私も幾度か見てゐるし、中國陶磁や美術史の圖録には必ず出てゐるから、めづらしくはない。しかし、ここでは、茶の床において白椿の花が入れてある。花入れとしての命を生かしては使はれてゐる。

一輪の花も葉も、もちろん露をふくんでゐた。白椿は都鳥といふ散り椿ださうで、外の花びらだけひらいて、なかの花びらは開かないでつぼみのままである。この大内筒はたけの高いコップのやうな形の筒で、宋青磁の花入れのなかでも類ひなく簡素な姿である。
所を得、花を與へられて、青磁の肌の色もガラスの陳列ケエスのなかにある時とはちがって見える。大内筒がこのやうに使はれたのは初めてだと、席の世話人から聞いて私はおどろいた。「千載一隅」の眼福をめぐまれたわけであらうか。青磁のこの名花器に花を入れて茶室の床に見ることは、私の生涯にもう二度とこないかもしれない。
さういへば、大名物の唐物茶入れ「松屋肩衡」を手に取って拝見できたのも、得がたい幸ひであった。
・・・・・・・
私は松屋肩衡に心ひかれてゐた。根津美術館の陳列でガラス越しでは、かうではあるまい。心入れて見てゐるそばから、席の世話人が、この茶入れ一つでおもしろい小説になると言った。私は傅来も由緒を忘れてゐたのだが、世話人は私を小説家と思ってのことであらう。
利休、遠州、織部がおのおの好みで、表や仕服も変えたり、北野の大茶会にも持参されたり、もろもろの言い傳へを身につけて来たこの茶入れの運命、この茶入れに心を寄せたあまたの故人たちの美学、それに私も手をふれ、目に入れてゐるのは、ふしぎと思へばふしぎな邂逅のひとときであった。
(全33P211)
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―――光悦会
「日も月も」の序章は「光悦会で」というので始まっている。主題は光悦会での松子の事だが、そこではさまざまな茶道具の逸品を読者に紹介している。土橋別荘の国宝雪舟の山水画をはじめ、茶席には大名物、名物、重要美術品の名前が出ていて、茶人にとって極めて興味ある文章と云える。(全11P256)

然し吉村貞司氏も指摘しているように川端は「日も月も」の中で、光悦会のやうな大茶会に、まあお茶の祭りのやうなもので、その花やかな人ごみに茶の心や姿にそむいたお祭りだけしか見られない。つまりは茶の形式だけがあって、精神は失われている
と記している。光悦会については大佛次郎の記事がある。

話はしないが旅先でよく一緒になった。紅茶の秋の光悦会で落合うのは毎年のようで、お互いに、自分の知っている寺々、庭園の案内役をした。晩年は彼もホテルになったが、私は洋風のホテル生活、彼は柊屋など日本旅館で、両方の性格がでているようであった。彼は勧めてもアルコール類に手を触れず、私は酔いに勢いをかりて、祇園の茶屋でもどこでも歩く。私はそれこそ鞍馬天狗だから京都の古いことは人も驚くほど精しかった。(全附録)

―――千羽鶴の志野の水指と筒茶碗
私はやはり小説に茶陶のことを書いて「群像」の創作合評会で佐藤春夫氏につかまり、これは恐れ入った。水指や茶碗を意味ありげに扱ひ過ぎ、しつこく出し過ぎたところはあるかもしれない
さういふことは作者の人生ならびに作品に対する疲労衰弱を現はす場合もある。あの小説では作中人物もまた疲労衰弱して、ゆめまぼろしのやうにさまよってゐるからといふのが、私の窮余の弁解にはなるかもしれない。数百年のあひだ貴重に傅へてきた名陶は、薄弱な現代人よりも、厳然と確実な存在と感じられることもないではない。それは私自身が病弱であり、同時に健康でもある議論だ。健やかで強く深い美は、現代にばかりさがしてゐたって、見えないといふこともあるかもしれない。

しかし、佐藤氏につかまった、志野の水指と小服の筒茶椀の場合は、私は百合のやうに試験勉強の調べをしたわけではなかった。志野の水指も筒茶碗も、私は買って持ってはゐないから、目の前に見ながら書くといふことは出来なかった。売り物の名品にもめぐりあはない。けれども志野の名品は何処かで見てゐるから。水指も筒茶碗も大方の見當はつく。でも、いつかどこかで見て、見當がつくといふのは、自分が買って手もとにおくといふのとは、美の感じ方がずゐぶんとちがふものである。買ってみる人には、買ってみない人の美の感じ方がずゐぶんとちがふものである。買ってみる人には、買ってみない人の美の感じ方を軽んじる傾きもあるが、あながち僻見とは片づけられない真実もあると思ふ。

しかし、志野を書くために志野を買ふという風では、借金を質においても及ばないし、また名品は欲しい時にいつでもあるわけではない。
「茶道雑誌」の河原武四郎氏が、もしかすると私のうちに志野の水指や筒茶碗があるのかと疑って訪ねて来たが、なくて気の毒であった。
無論河原氏などが私の小説を読めば、その書き現はし方で、私の手元に志野の名品はないとわかってゐたにちがひない。私は志野のことなど、なにもほんたうに書けてゐないのである。負け惜しみを言ふやうだが、私はわざとさういふ風に書いたところもある。不案内の人が読むと、茶や茶器のことがえらく書いてあるやうに取れるかもしれないが、心得のある人が読むと、なにもほんたうに書いてないとわかるはずだ。作者の私が不案内だから用心して、さういふ書き方をしたばかりではなく、作中人物がさういふ風だからであった。

茶道や茶器を作品にしっかり書いてみたい気持ちもあるが、それはいつ出来るかしれない、別の作品である。夢魔のように朦朧とした人物の動きの中心、あるひは上空に、確然とした古陶の美が浮かんでゐるとよかったかと思へるが、、美が確実と書けなくて、古陶と朦朧とした夢魔のやうになってしまった、そこを佐藤氏につかまったのかもしれぬ。作者の衰弱、堕落は争へない。現代の瀬戸物の大方のやうである。
(全27P461)

(つづく)

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