第四十七回 川端康成 ――― 「千羽鶴」の世界(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

――― 映画千羽鶴の茶道具に就いて
「千羽鶴」も「山の音」も雑誌に一回の短編ですませるはずであったから、今あるやうな構想はあらかじめ立ててはゐなかった。
「千羽鶴」は圓覚寺の境内で茶会にゆく二人の令嬢を見て、ただそれだけのことで、不用意に書き出したのである。令嬢の一人が千羽鶴の風呂敷を持ってゐたかどうかも疑はしい。今では自己暗示に掛かってしまってゐて、令嬢が持っていたやうな気もするが、ほんたうは持ってゐなかったやうである。「千羽鶴」も「山の音」もモデルは一人もない。

また、映画などを見ても、「千羽鶴」は茶のことを多く書いてゐると受け取られそうだが、實は茶のことをまともには少しも書いてゐないのである。茶のたしなみがある人が読めば、これはわかる。いつかは茶道をまともに書いてみたい。ところが、映画では茶を多く取り入れた感じの作品となって、思ひがけない幸ひであった。しかし、あの映画の茶道具には幻滅した。ことごとくいけない。

芝居の時もあまりひどいので、茶室のかけものと花器とを貸した。雑誌の小さい写真版でも、道具のよしあしはだいたい分るのだから、スクリインに大きく写ってはあざむけない。箱ゆきからして話にならなかった。映画の製作費を思へば、桃山時代の志野の筒茶碗の一つや二つ、庭石にぶちつけてわったところで、なにほどのこともない。

さう言へば、作者の私にしたって志野の花器や筒茶碗は持ってゐない。金を惜しんだのではなく、名器の売り物にめぐりあはないのである。よそで拝見するのと自分が所蔵するのとでは、たいへんなちがひである。したがって「千羽鶴」の志野は、それを持たないものの浅くさもしい書き方に過ぎないであらう。原稿料ではたうてい買へなくても、持って書くに越したことはない。これを税務署は必要経費と認めてくれるだろうか。私の古美術は骨董などといふものではなく、北大路魯山人氏の言葉通りに、「座邊師友」である。(全33P538)

 ̄ ̄ ̄ 本因坊秀哉未亡人の茶
碁に造詣の深かった川端は「本因坊名人引退碁観戦記」「碁清源棋談」「名人」等を書いている。碁に関心のない読者にも面白く読める。
ここではその未亡人の茶について次の如く述べられている。
茶のたしなみは未亡人が日常を貫く心構でもあった。
名人が死んだ時、見られた臨終の模様や生前の逸話など、未亡人の談話筆記が雑誌に見られたが、そのなかにもお茶のことが出てゐた。――こんど主人の通夜などに、多く手傳ひに来てくれた方々……主に御婦人について見ても、少しでもお茶の心得のある方と、少しもお茶の心得のない方とでは、その立居振舞にほとんど比較にならないほど相違があることを、つくづく感じた。
………
しづかな茶ではなかったやうだけれども、未亡人は行儀作法を崩さず、立居振舞が筋目立って、それが気性にもはいり、そこから自負や自信も来てゐたやうであった。常住姿勢よく胸を起こして坐ってゐた。―――未亡人の茶は松尾流とのことであった。
名人は茶の手前のやうなことは億劫なのか、無頓着に過ごしたらしい。しかし夫人の茶の席には、幾時間でも静かに坐ってゐたらしい。
川端は表千家のメンバーであり、光悦会大師会等の茶席に参加し、個人としても茶道具、軸物、特に茶碗類については鑑識力の深い茶人であったから茶の湯に関する小説、随筆、評論が多い。その上茶一般についてさまざまな角度からの記述が無暗に出てくる。
―七十四歳の祖父の臨終近い様子の写生文として「十六歳の日記」がある。大正十四年の事である。小林秀雄が激賞しているが、川端自身も自作の中で高く評価している。

―――― 十六歳の日記
五月四日
お茶沸いているか。後でまた、ししさしてんか。
茶が沸いたので飲ませる。番茶。一々介抱して飲ませる。
ごくごくと一飲みごとに動く鶴首の咽喉。茶三杯。
「ああおいしおいし」と舌鼓打ってゐられる。
これで精気を養いまする。お前え、茶買うて来てくれたけど、あんまり飲んだら毒や言ふんで、番茶を飲んでるね。
「ああ、おいし。茶はよい。淡泊でよい。余りおいし過ぎるものはいかん。ああ、おいし」

五月七日
よんべ(昨夜)はしし一ぺんとほかに二度程寝返りとか茶とかで起こされた。

五月十四日
「茶飲ましてんか」
「ああ、こんな茶、なまぬるい。こんな茶、ああちめた。(冷たい)こんな茶どんならん」憎々しい声だ。
(全2P10)
この祖父は茶畑その他の運営に失敗した。川端はこの祖父と郷里宿久庄で暮らした。
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――― 静岡県の茶畑
静岡と言ひますと、わたくしは今、ハワイのホテルで、静岡県の「新茶」を味はってゐるところです。八十八夜に摘んだ新茶です。日本では、立春の日から八十八日目、今年(一九六九)は五月二日になりますが、その「八十八夜」に摘む新茶は、不老長寿、無病息災の妙薬といふほど、むかしから、縁起のいい貴重な茶とされてゐまして、

夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは
茶摘みぢゃないか
茜だすきに菅の笠

といふ茶摘み唱歌は、あまねく歌はれ、また季節を感じさせ、なつかしい歌です。茶畑の村では、八十八夜にあたる日の明け方から、村の娘たちがいっせいに出て、茶の新芽を摘みます。紺がすりに赤いたすきに菅笠です。

静岡県にふるさとのある友人が、静岡の茶屋にいひつけて、航空郵便で送らせてくれた、五月二日に摘んだ新茶は、五月の九日、ホノルルのホテルに着きました。さっそくわたくしは少していねいに茶を淹れて、日本の五月のはじめのかをりを楽しみました。これは茶道につかふ抹茶、挽茶ではなくて、煎茶の葉茶です。茶の湯の薄茶、濃茶は、今でも、その人その時の好みで茶をえらびまして、正客は亭主に茶の銘をたづねるのが禮儀になってゐますし、茶を造る店は茶それぞれに、いろいろと風雅な名をつけてゐます。そして、これはコオヒや紅茶でもおなじでせうが、点てた茶のかをりや味には、点てた人の人がら、心がらも出ます。江戸時代、明治時代の文人趣味としてよろこばれた煎茶道は、今日、さびれてゐますけれども、煎茶の作法はとにかく、煎茶を味はいよく淹れるのにも、やはり骨と馴れと、こころとがあります。

わたくしは新茶をよろこぶ心で淹れましたので、圓やかにあまいやうな、やはらかいかをりに出ました。ホノルルの水もいいのです。ハワイで新茶を味はふわたくしに、静岡県の田舎の茶畑が浮かんできます。いくつもの丘につづく茶畑です。そのあたりの東海道を、わたくしは歩いたこともありますが、浮んで来るのは、東海道の汽車の窓から見た茶畑です。それも、朝方と夕方との茶畑です。朝日か夕日かの斜めの光りで、茶の木の列と列のあひだに、濃い陰の谷を沈めた茶畑です。畑の茶の木は低く背丈がそろってゐて、葉のしげりが厚くて、その葉の色が、若葉を除いては、やや黒をふくむやうに、濃い青ですから、茶の木の列と列とのあひだの陰の色も濃く沈むのです。明け方は青の静かな目ざめに見え、暮れ方は青の静かな眠りに見えます。ある夕暮れ、青い羊の群れが静かに眠ってゐるやうに、汽車の窓から、丘の茶畑がわたくしに見えたこともありました。東京、京都を三時間で疾走する、新幹線が出来る前の東海道線のことです。

東海道新幹線は世界一速い列車かもしれませんが、その速さによって車窓のながめの情緒はよほど失はれました。静岡県の茶畑のやうに、もとの東海道線の、もとの速度の車窓には、わたくしの目をひき思いを誘ふ景物が幾つかありました。(全28P398)

―――― 源氏 「宇治十帖」
川端は、伊勢物語、業平東下り、平家物語、重衡海道下り、太平記、俊基関白下向の文章を好み、昭和十五年にも東海道の宇都谷峠、小夜の中山等に脚を運んでいる。
またその前に、静岡の茶畑について言ひながら、わたくしの心にありましたのは、「源氏物語」の「宇治十帖」です。宇治は静岡とならんで、日本茶の二大名産地ですから、静岡の茶畑と言へば宇治を思い浮かべるのは、あたりまえの連想でつまらないやうです。しかし、ホノルルのホテルで、「源氏」を読んでゐますわたくしには、宇治といふ一語は地名にとどまりません。「宇治十帖」の宇治なのです。つまり、「源氏」五十四帖の終わりの十帖、源氏の第三部の「その場」は、いかにも宇治でなければならないと思ふことに、わたくしの望郷の思いさへ通って、少々微妙なのであります。また、紫式部が宇治をその場所にして書きましたので、後の世に読む人も、その場所は宇治でなければならないと思はせられる、これは紫式部の作家としての力であります。(全28P298)

―――― 湯屋谷の茶園の写生
……音子はかをりのいい新茶を飲んだ。宇治田原の湯屋谷の茶園へ写生に通って、もらってきた新茶であった。茶つみははじまってゐたが、茶つみの娘は写生にはいってゐなかった。畫面いっぱいに茶の木の圓い高低と重なりだけが満たされてゐた。音子は幾日も通いつづけて、幾枚となく描いた。
……東京と京都をいくどか行き来した時、音子の心に残ったのは、汽車の窓から見た、静岡あたりの茶畑なのであった。眞畫の茶畑の時もあった。夕暮れの茶畑の時もあった。
………
東海道の沿線には、山もあり、海もあり、湖もあり、時間によって雲も感傷に色染まるのに、あまり目立たない茶畑などがなぜ音子の心に訴へたのかわからないけれども、茶畑の沈鬱のみどり、夕暮れの茶畑のうねの沈鬱の蔭が、音子にしみたのかもしれなかった。それに茶畑は自然ではなく、人工的に小さくて、うねの蔭は深くて濃い。また茶の木の圓い群れは、おとなしい羊の青い群れと見えたが、東京を立つ前から哀しい音子は、静岡あたりまで来てその哀しみが極まったのかもしれなかった。
宇治の湯屋谷の茶園を見た時、音子はその哀しみがよみがへった。そして写生に通った。
………
「大木先生、この繪を、この繪をあたしの心の波と感じていただいたのは、ほんたうにうれしいですわ。」とけい子は重ねて言った。「茶畑の繪とすると、下手でせうけれど…。」
「じつに若いな。」
「茶畑に行って、写生してゐたにはちがひないんですけれど、それがあたしに、茶の木と見え、茶の木のうねと見えてゐたのは、はじめの三十分か、一時間だけでしたわ。」
「さう?」
「茶畑は静かでしたの。でも、その新しいみどりの圓い起伏の波の重なりが、動いて波打って来て、こんなものになってしまひましたの。抽象畫じゃありませんのよ。」
「茶畑は新芽のころだっても地味なものなんだが。」
(全11P338美しさと哀しみの中で)

(つづく)

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