第四十八回 川端 康成――― 「千羽鶴」の世界(3)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

――――ついでに寅彦の描いた静岡の茶畑
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このへんの植物景観が関東平野のそれと著しくちがうのが目につく。民家の垣根に槇を植えたのが多く、東京へんなら椎を植える所に楠かと思われる木が見られたりした。茶畑というのも独特な「感覚」のあるものである。あのかまぼこなりに並んだ茶の木の丸くふくらんだ頭を手でなでて通りたいような誘惑を感じる。」とある。
(全小10P166)

短いけれども大変うまい表現である。さすが名遺筆家吉村冬彦である。寅彦の父は裏千家で茶事に極めて熱心であったが、寅彦はコーヒーが大好きで、コーヒー哲学序説という面白い文章を書いたりしてその方でも有名である。

然し、大正十二年小宮豊隆宛の手紙の中では次のように述べたりしている。
春日を一席うかがいの件、いつでも結構であります。どうもあすこの料理のあとで饅頭をくってうまい番茶をがぶがぶ飲むと非常に頭が上等になるようであります。そしてその都度名案をほじくりだしてはどこかへ売りつけるも至極妙であります。それはとにかく、あの番茶ははなはだ妙なもので、あれでシンフォニーの結末がちゃんとつくからおもしろい。

番茶哲学も書いてくれればよかったと思う。
昭和十九年、發表の「水」の中で満州の水の悪さに触れている。
……触って汚い水だ。これで口を漱ぎ、米も洗うのかと思ふと胸が悪かった。それから半年の間に白い敷布も肌着も黄色くなってしまった。(全1P431)
思わず漱石の「満韓ところどころ」の満州の水質の悪さについての記述を想い出してしまう。

―――――茶会の案内等
昭和十八年十二月二十日 片岡鐵兵宛
十一月十九日     川端康成

片岡鐵兵様
一九 昭和十八年十二月二十日附 鎌倉市二階堂
三二五より東京杉並清水町一二四あて

拝啓 表千家の東京出張所で毎月1回分
文学者等を御茶に招く会を催す事となり其第一回が来たる二十六日午后一時からあります。小生友人を誘ひ合せて出席するよう頼まれたので先づ大兄と横光君におつき合ひ御願いします。これまでにお茶を習ってる人ハ困るさうで素人ばかりらしくよい菓子とよいお茶で雑談する外何も窮屈な事ハないさうです。

昭和二十八年二月
三島由紀夫宛

・・・・・あるいは洋行費で茶碗を買って飲んで居たいという気持ち(必ずしも隠居趣味ではありません)
○志賀直哉を茶会に誘ったこともあるがこれは実現しなかった。茶会の勧誘はやさしくない。ゴルフとはわけがちがふ。
川端は梶井基次郎の茶について、次の如く述べている。
梶井君は菓子も茶も好きであった。物惜しみはなく、高い玉露をどっさり摘んで、入れかへ入れかへするといふ風であったが、味ふもとなく贅沢さに、彼の高貴な深さがあった。それは彼の作品の至るところに現れている。

彼の友人達は彼にいい菓子なぞを實にしばしば送ってきた。彼は必ずその度毎に半分を私の宿に持ってきてくれたものである。
その頃、淀野隆三君が私にも「千早振」という宇治の茶を送ってくれたことがあった。
後にも先にも、私はそのやうにいい茶を飲んだためしはない。
「その玉露は私の朝毎の喜びである。味や香もさることながら、湯の中で茶の葉が拡がっていく、その色が何とも云へず美しい。私は急須の中に濃緑の若芽がさっと伸びる驚きを楽しむのだ。私は冬もその緑ので春を思った。」と、當時の文章のなかに私は書いている。その緑は全くその通りであった。しかし今、彼の作品集「檸檬」を読んだ後でこれを見て、自分はなんて甘ったれたことを書いていたかと思ふ。」
(全29P323)
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―――――梶井基次郎の書信
ついでに湯ヶ島時代(昭和二年冬)梶井の茶についての手紙を記す。「檸檬」の作者がいかに茶を愛したか、よく解る。

外村茂宛  一月一日

来て直ぐお茶に困りました。持ってきた紅茶は一日分程、文明の民は情けないです。君からまんどころのお茶を送ってくれるのを待ちます。

淀野隆三宛 二月一日

追記茶外村からもらった宝茶はあと二三日分になっている。伏見の方からが危ないと君思ふなら、呑みあましを持参する気になってくれ。

清水蓼作宛  二月一日

最後に、一緒に閉口だといふお願いの件はまた菓子と茶です。
菓子は駿河屋の羊羹を三本程
茶は上林氏の三圓か三圓半位の上等の煎茶を一斤
此度まさ子さんがこちらへこられるとき荷物で厄介だが持って来て貰ふやうにして下さいませんか。
金は今此処になく家から送らしまたそちらへ送る積もり故遅くなりますがそれでもよければお願ひしたいのです。また上林へ行って頂くこと仕事の邪魔になれば定評ある手近な宇治茶にて結構です。
上林は此の間芭蕉の手紙を見てゐましたらその中へ出て来ました。

蛍見や船頭酔ひて覚束な
なにかこれがそのときの宇治の句ではなかったかと思ってゐます。

外村茂宛 二月二日

君から頂いた茶はたうとう飲み尽くすらしい形勢がある。煎じ方について批評的な言辞を吐いたが僕はこの三週間の間あまりのあの茶の山國的な厚みのある味に抱かれてゐたと云っていい。川端氏は「どうだった」と云ったら「なかなかうまかった」と云ってゐたし小山田は「これまでは茶の味などは省みなかったがこれからは飲むやうにする。是非紹介してくれ」などと云ってゐた。この二氏はまんどころ茶をまんどころの茶として認識したかどうかは怪しいが、(と云って僕とても甚怪しいがまづそれを三國的な堅固な黒びかりのしたやうな味と覚えておいてこれからそれの妥当さをためして見度く思ふのだ)僕はまんどころに厚く禮を云ひたい気持ちだ。

淀野隆三宛 三月十七日

拝啓
一昨日は宇治より茶が届いた。来たのは魁百目と最上玉露千早振が五十目だ。この方は君が心配してくれたのか、非常に有難い、遺憾なことは小石川に貰った急須が東京にあることだ。然し玉露はいい、人と話などして呑めない茶だ、静かな気持ちがなければ玉露はうまく出ないし、また玉露を味はうには頭が澄んで三千里外の音が聞えるやうぢゃないといけない。それだけに玉露は静かな落ち着いた気持ちをつくってくれる。これからの僕の生活にこれはきっと影響のあることだ。
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川端氏 昨日辻馬車の小野といふ人と二人で見えた。やはり宇治から 僕と同様の茶が来たと、「あれは淀野が呉れたんでせうな」と云ってゐた。君から紹介が行ってなかったのだらう。そして小野に玉露の講釈をしてゐた。
玉露はずいぶんすきらしい。

梶井二十七歳の時の手紙である。
漱石の草枕を想い出すが、梶井の味わい方は手紙であるだけに解り易い。尚川端も梶井も関西人であるだけに宇治茶の理解が深かった。
著者は平成二一年秋、湯ヶ島湯川屋を訪ね、病身の梶井の面倒をよく看護された宿の御主人、安藤夫人から梶井、川端のお茶好きの話を興味深く拝聴させていただいた。もっとも梶井も最晩年の病状では好きなお茶も余り頂けなかったと云ふ。

川端は岸恵子さんとシャンピさんさんとの仲介人役をつとめたが、その婚礼の前日、恵子さんの入れてくれた緑茶がおいしかったと記している。パリでお茶がうまく飲めたとは珍しい話だと思ふ。
尚、岸さんは川端ノーベル賞受賞のお祝いにストックホルムに出掛け、その時の事を次のように記している。
ノーベル文学賞受賞のとき、パリから駆け付けた私に、先生はこのときも和服で、ホテルのへやにそなえつけられたキッチンへ立たれ、玉露を入れてくださいました。そのコクのある、まろやかなお茶の味に、私がふっと日本の古都のすがたをかぎわけていると、「美味しいでしょう。ストックホルムの水はこの国でも特においしいんだそうですよ。王様が棲んでいるのでなにか特別な工夫でもしているんでしょうかね。」と、ひどく晴れやかな笑顔をされました。特別に親しいお付き合いをしていただいたわけではありませんが、あれほどくつろいだ、しみじみとしみ透るように明るい先生の笑顔を見たことはありませんでした。そして、その笑顔は私が先生をみた最後になりました。(昭和四十七年六月「新潮臨時増刊 川端康成読本」より再録)

又昭和三十二年三月二十五日 夫人英子宛ての手紙に
コペンハーゲンにて公使館員の家でおすしの御馳走になった。煎茶が美味しかった。と伝へている。
そのほか川端の全集には「利休の宝塔」や「茶道具」特に茶碗の買入等その道の方々の興味を惹く話が少なくないが、ここでは割愛する。

―――――終りに
ノーベル賞作家川端にはサイデンステッカー氏の優れた論文があるが、康成の自決の理由は必ずしも明確ではない。感会の理想は気持ちのあった友との茶であったが、それの小説化は果たし得なかった。感会の世界は描こうとして描けない世界なのか、千羽鶴で終わったのは惜しい。

冒頭の吉村貞司のことばを正確にようやくするのはむつかしいが、「千羽鶴に対する誤解は現代文化の浅薄さのカリカチュアである。」
「千羽鶴は茶の心を冒涜した所に成立している。」「千羽鶴は否定性の文学である、川端の否定は茶の心の回復を希望しているためであり、美によって人間的飢餓が癒されることを望んでいるためである。・・・伝統の中に、人間の根源性へのつながりを發見して現在に役立てようとするにある。」と記している。

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