第四十九回 幸田 文―お茶をうまく淹れる(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

幸田 文 ――― お茶をうまく淹れる(1)

寺田文は学殖豊かな明治・大正の文豪、寺田露伴の次女。幼年の頃から父の教育のもとに、家庭の女性としての作法、躾を嫌という程教えこまれた。彼女の文章は実にキメ細かく、誰にも真似られない文体。その中に女性らしい優しさがこめられている。名作「木」「崩れ」等は彼女の没後、バブル崩壊の時期に発表され、多くの真摯な読者を惹きつけた。解説には斎藤茂太、中野孝治等がある。

まずは幸田の短文からはじめてみる。そこには忘れられた筈のもてなしの茶がある。茶の湯のけいこの話もある。又、下町情緒の番茶のかおりの話もある。読者の中には露伴の面影を偲ぶ方もあるだろう。お茶好きの方々に幸田文のファンが少なくないのは当り前である。

―――朝のお茶
朝の机へお茶をもっていくことは、私の日課の一つだった。食事をすませて亡父は書斎へ立つが、その時追うようにしてほうじ茶をひとつ持っていく、これが一番目のお茶。十時ごろ二番目のお茶で緑茶をもっていく。この二番目がコツものだった。その時間には父はもう、読むなり書くなりのことにすっかり身を向けている。それを乱さないようにして、お茶をだす。それがなみであり当然なのだ。従って、はい、お茶もってきました、などというのは愚かしい限りで、わざわざ声をかけて、ひと仕事の流れをはばむることになる。乱す、さまたげる、さからうなどは机にいる父のまことに欲しないこと、嫌がることなのであり、嫌がることをしないように心掛けるのは、当然なすべき礼儀なのである。それはわかるが、礼儀の理屈がわかっただけでは、お茶は上手に出せなかった。

いま、お茶一杯でこんなことをいっていれば、誰からもそっぽむかれてしまう。めんどくさい、と吐き捨てにいわれるだろう。いまのことではなく、四十年も、五十年も前に私はそう思った。まったく、めんどくさいことだった。しまいには勝手な理屈になってきて、嫌がることをしないのが礼儀なら、こちらがこんなにめんどくさがり嫌がっているのだから、お父さんのほうでもお茶を遠慮していい筈だ、などとかげ口をいった。けれどもそこが日課の強味だろうか、毎日止むなく続けているうちに、実行から会得がある。

今日は我ながらおいしそうにお茶がはいった、というときはすっと部屋にはいれ、すっと茶碗が出せ、すっと引上げてこれる。部屋を出るときちらりとみると、父は茶碗を手にとり、目だけは本にいっている。つまり、相手を乱さない、なみのお茶だった。なんのことはない、上手にお茶をだすというのは、真っ先にうまいお茶をいれればいい。旨いお茶はどうするのかというと、自分がのんで味だの香りだの、色、温度などがわかればいい。うまさなどは比べればすぐわかってしまう。わかれば何処となくなく大丈夫な気がして、さっさと歩ける。こちらがうじうじしなければ、もともとあっちはあっちの仕事にかかっているのだから、こちらの事などは気にはしない。それだけのことだ。

こちらの仕事は第一が間違いなく美味しいお茶を入れること、第二が運ぶこと。第一は自分一人でする仕事だから論がない。第二が接触のしどころだが、茶碗をおいて帰るのは一分もかからない短さだ、と思えば助かる。そこで自然に明らかになるのが、あっちはあっち、こっちはこっちといった思いかたでは、なにか気のとがめるよそよそしさがのこるということ。それも段々と日課を重ねるうちに、ひとりでになんでもなくなる。なんでもなくなる。なんでもなくなったあとで、ふうっとわかるのは、こちらがいつか親に従ってしまっているということだった。あっちは本流、こっちは支流、支流が本流へ流れ込むときは、本流へなぞえになって入る。なぞえになるのがなみで当然で、さからわないことだろうか――二番目のお茶はたしかにめんどくさかった。でも、そんなにめんどくさくもなかった。めんどくさいことはいつも身辺にきりがないけれど、大概は最初にみた目より、実体は小柄だと私は思う。逆にいえば大柄なみせかけで出てくるから、けれんにだまされないことだといえる私は「めんどくさいはへっついの燠」と思っている。へっついのなかにある燠は、実体よりずっと大きくみえるから取り出してみるとなあんだと当外れになる。

亡父はよく「無理なことはいっていない」となげいていた。誰にきかせても無理ではないことでも、その当人一人にとってはとてもだめだという場合もある。理解の力がそこまで及ばなければ、理も無理になる。はじめからすぐれた理解力を持つ者はしあわせだが、劣るものはつらい。このごろよくテレビの喜劇で、うすのろ役が利口役に嘲笑されつつ、頬をふうらませ「やりゃあいいんでしょ、やりゃあ。ええ、やりますとも」などといってる場面にあう。すると私は笑わされながらも、ふっと寂しくなることがある。感情の居どころがわるかったせいだろうが、「そうなのだ。とにも角にも、敏くないものに道は与えられている、やりゃあいいんだ。そのうちわかってくることもあるんだ。」という思いである。無理をいってはいけない、というなげきも侘しいものだっただろうし、やりゃいいんでしょ、ええ、しますとも、という抵抗、そのおかげでどうにかわかったあとの、それが決してそんなにすっきりした気持ちではなく、三十年もたったあとまで何かうら哀しさがあるのも、ほんとに侘しいことだと思う。

でもまあ、あの時、辛うじてではあったが、十時の机へお茶を運ぶことができてよかった、とは思う。
(全15机辺P8・11)
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このような幸田文の茶の淹れ方について、博識の亡父露伴は何も記していない。利休や芭蕉や売茶扇の茶について筆を走らせている露伴なのに、稍残念。こゝでは荒川洋治の言葉を記すにとどめる。

同じ『月の塵』の「机辺」という文章は、書斎にいる父にお茶を出すときの呼吸から学んだ事を述べている。父が書斎に向かったら、すぐ第一のお茶を持っていく。これは簡単。次のお茶が、くせもので、父は書斎で執筆に集中している。その空気を乱すことがないように、さっと持っていかなくてはならない。そこにむずかしさがある。と幸田さんはいう。

今日は我ながらおいしそうにお茶がはいった、というときはすっと茶碗が出せ、すっと引上げてこられる。
集中している相手の気持ちを乱さないようにするには、ともかくも、うまいお茶をいれればいい。あれこれ悩んだあげく、幸田さんはそう会得する。自分でのんでみて、うまくないときは歩き方も、もたもたしてしまう。うまければ、「さっさと歩ける」のだと。こちらまでが「さっさと歩ける」ような気持にさせる、みごとな文章だ。ただ、われに返ると、これは、お茶いっぱいの話なのである。

幸田文の読者はひましに増えていく趨勢だが、落ち着いて考えてみると、読者は、彼女の作品から何を学ぶのだろうという疑問がわく。張りのある暮らしをといっても、現代では誰にもできるものではない。何をひきつぐのかはわからないまま幸田文を読んで、唸っているというのがほんとうのところかもしれない。幸田さんの執筆は、ひとつのフィクションとして読まれているのかもしれない。………
(月報7)

―――南坊録
・・・・・・・
するとある日、急いでゐるやうすで書斎から出て来て、
「おまへちよいと役に立つてくれないか」と云ふ。
「何をやるんですか。」
「覗いて来るんだ、ざっとでいい」
「・・・・・・・・・・?」
「どこでもいゝんだ。そいつらへ行つてお茶の先生の看板を見たらはひて行くんだ。もちろんそこの主人に迷惑がかからないやうに気をつけるんだ。そしてそこで南坊録をどういふやうにして教へてゐるか、そいつを覗いて来てもらひたいんだ。」
「だってそれぢや入門するんですか。」
「そんなことごたごた云つてなくてもい>んだよ。女はなんか一ツ頼むと、きまつてごたつくからだめなんだ。おれが役に立つ気があるなら、すらりとやればいゝぢやないか。いやならいやと云えば誰かほかの人間に頼むんだ。なんでもないことぢやないか、たゞ何坊録をどうやつて扱つてるか覗いて来てくれといふだけのことなのに。入門のなんのと、行きもしないうちになぜさう自分で合点しなけりやいけないんだらうな。おまえの合点の通りに運ぶかつていふんだ。遊んでるひまに行つて来い行つて来い。」

ぺたんこを感じながら、出かけていくしたくを今すぐするほうが賢いと思ふのである。第一、どちらを向いて行つていゝかわからない。第二に入門はその場のなりゆき任せにしたにしろ、絶対そこの主人に迷惑をかけない、とはどうすればいゝか。何が迷惑で何が迷惑でなにのか、私に範囲は皆目見当がつかなかつた。第三に何坊録とはどんなももか知らないのである。女学校時代から何坊録がお茶のはうの虎の巻的な本だといふことは、どこかで聞き齧って名大工の棟梁が、かねわりがどうとかで何坊録がどうとかと、二人で興に乗つてゐたのを知つてゐるきりである。それが私の全知識なのでは、何を覗いて来るのか困るのである。第四にあれほど、ものを訊くには名のつておじぎをしろと云つて聞かせてゐるくせに、なぜ拙者露伴と申すもの、お教への預かりたく罷越しましたと云つて出ていかないのか、それと「覗くと迷惑」とがどう関係をもつのか、そのへんははなはだよくわからない危なさがあると思へた。

私だとて三十五過ぎ四十手前といふ年輩で、子供の使ひのやうに「ついうつかり」では済ませないのだつた。けれどもそんなことを云つてゐれば、ごたつくな、すらりとやれとくる。さうなるといつも私は一ツしか行きかたはない。まゝよ、なのだ。「行つてはみますが、けふ行つてけふ覗いて、よくも悪くもそれきりでおしまひにするんですか。それとも、けふだめならあすあさつてと続けるんですか。」

「おまへの器量次第でしかたがあるまい。」
それで少しゆとりができた。実は少し心あてを思ひ出してゐた。連れになつてもらふ人があつた。そのひとは生活にさういふ趣味も必要もあつたのかとおもふ、習ひに行きたい、一緒にどうだと拽らしてゐたのをこちらは遠々しく聞いていたが、いまは思ひだしてそれが頼りになつた。そのひとの都合を訊いたりしてまごまご二三日を過ぎてゐると、父は不機嫌で、「弱いやつは一人ぢや歩けないんだ」と軽蔑された。

それでもだんだん話を訊きだしてみるとへんなぼろを吐いた。もともとこの家は茶坊主が職業なのださうだが、父はぶくぶくのお点前などしなかつたらしく、誰かに茶も知らないのかと云はれて恥を掻いた、それが北海道へ行くまへと聞いたから十九歳以前のことになる。それでいまさら家の人に訊くのも業腹だし、弟子入りをして習ふほどの気も金も時間もない。そのころは道場荒しがはやつてゐて、それに倣つたといふ。看板のかゝつてゐる以上表芸なのだから、亭主もそのくらゐの覚悟はしてゐるはずだといふ家へのもとに、「御免」と訪(おとな)つて「一服頂戴」と申入れるのださうだ。

ところが父の当つたうちは、「御免」と云つても人が出て来ない。しまひにおよそ見込に違つた見すぼらしいばあさんがちょいと顔だけ出して、「明いてをりますものを」と云つた。覚悟のほどは現はれてゐるのである。しかしなんでもなく平手前で一服くれた。が、手前のあひだぢゆう、書生さんもしおなかがおすきならお湯漬け一ツさしあげようがと云はれやしないかと思つて、いやな気をさせられたといふ。私はそれを聴きながら、父が今日の時勢のなかで敢て私にそれを試みさせようとしてゐるのぢやないかと気づいた。だからなほのこと、まゝよになる。まゝよはある元気をもたせる。

かりにも道場荒しの傾きがある以上、その構へをまづぐるつとまはつた。板塀で囲つて相当ひろい建物である。冠木門。門から自然石を敷いて両側が植込、玄関は見えない。私の相棒は茶目気のある人で玄関がむき出しでないのを見てとると、十分おちついて観察をしてゐる。その眼を追つたらちゃんと金目の庭木を捨つてゐる。これはたまらないと思つて私も反対側をずらずらつと見て行つて、半年、すくなくもこの春には植木屋を怠つてゐると踏んだ。彼女のはうは梅と柳をつなぐ大きな蜘蛛の巣を見てゐた。それから玄関へ行つた。「頼まう」以下のすべてを彼女に押しつけて私はあとに退り、鼻だけをもちあげて嗅ぎとらうとした。玄関には茶の湯のけぶりも、道場教場の匂ひもなくて、たゞ花やかな女衣装のいろどりのやうなものが感じられた。

これなら大丈夫さうだとやゝ安心して履物を脱いで、とたんにこちんと固くなつた。脱いだ履物の始末をどうやつていゝか知らないのだし、履物を始末する作法があるといふことは小耳に聴いてゐる。まるでの知らなさと小耳に知つてゐるのとのあひだに挟(はさ)めて、心身の自由を縛つてくるところは道場の威厳である。それでもあがつた以上は一服頂戴もしないで立ち往生といふわけには行かない。「道場へも通らず玄関で一人勝負に眼をまはして倒れた」では、うちへ帰ってどんなぶつた斬られかたをするか、それはしばしば承知のことである。三日ぐらゐ死んでゐなくては生きかへれないのである。稽古は幾部屋にも分れて古参新参の順があり、初心の部屋に入れられた。女衣装の色彩が部屋を鍵に囲んで盛りこぼれ、でもさすがに芝居や音楽会のけばだちはない。ない、と大ざつぱな事しか掴めないほどのぼせてゐる道場荒しは、歩くにもどつちの足からどこを通っていゝのだか、すわるにもどうどこへすわつていゝのか、まつたく進退の自由を欠いてゐた。せめて、こゝにゐるならぶ人たちは誰ひとりとして、私が親の言ひつけで覗きに来てゐるとは知っちゃゐないのだ、と思ふことでやつと支へられて。―――合棒だつて、道場のひやかしとは以心伝心通じてゐても何坊録覗きと知つてはゐなかつた。

ずいぶん長くすわってゐた。主婦はこんなに長い時間ひとつところに起ちもせずにゐられるものではない。半日留守にしてゐるうちの台所はどうなつてゐるかなと思ふ。本性はおそろしいもので、さういふことを考へるとたちまち正念がかへつてきて、私はすぐ先生の裾を眼に入れた。もつともそれはおそらく私のみならず、ゐあはせた人みなが見てゐるに違ひないことだつた。衣がへをしたばかりの折からだのに、下着の裾ははなはだしくあいまいな色づきかたをした白なのであつた。初歩の人につける稽古は面倒なのだから、受持の先生はいづれはこの一門のなかの師範格であらう。これだけ大勢の弟子にあまりの起つたりゐたり連日のことではひまなくてと云はれゝば同情するが、それにしても台所女の感覚はあいまいな白をゆるさないのである。

やがて昼になつた。お弁当がひらかれると、衣装のいろどりは一変して遊山的雰囲気を醸した。そつと訊く。

「どのくらゐお通ひなさいまして。」
「まだ一年ですの。」
「お講義はどんなことを。」
「え?お講義つて?なんでせうお講義つて。」
「南坊録なんかのお話ありませんの?」
「おほゝ、ほゝ。それなんのお話?」

私と私を特派した父とはこの令嬢から無手勝流でうつちやられたにひとしい。なんだか知らないが愉快だつた。まだ折目のついて真新く赤い袱紗と小さいお扇子を父の前に並べると、途々考へて来たとほりにちやんと芝居を打つ気に畏つて、あの令嬢のした通りに「おほゝ、ほゝ」と笑つた。

待ってゐたこと明らかな父はつられて、わけを知らないなりに上機嫌に笑った。「どうした?」
「南坊録はなの字もない。試合は負けたこともたしか。勝つたこともたしか。」

その場はそれで笑ひ話に終わつたが、翌日父は又、もつとほかへ行つて来てくれと云ふ。再度の話となると、これは是非なにか父のしごとに必要が生じてゐると考へさせられる。するとやはり親子の、それも離婚といふ泣きを見せたあとの老父へ、なんとか償ひもしたい城が起きた。一度すれば一度しただけの足しにはなるもので、今度は大ぶゆつたりして、でもまた同行二人で出かけて行つた。
・・・・・・・・・

(前8P6・12)

(つづく)

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