第五十回 幸田 文 ―― お茶をうまく淹れる(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

幸田 文 ――― お茶をうまく淹れる(2)

――――五ヶ月の作法
普通、お茶の稽古というと、作法からはじまるもののようである。それも茶室へ入るまえの準備から教えられる。清潔な足袋にはきかえ、つくばいへ行つて口と手をすゝぐ作法からして習うのであるが、残念ながら私はそれさえ習つたことがない。週に一度、四五ヶ月のあいだを、ひよこすかと垣間のぞきさせてもらつたに過ぎず、ひとさまの点ててくださつたお茶をいただく作法すらしつかりとは覚えきれなかつたものを、ましてお茶の精神(こゝろ)へまで手の届くわけがない。和敬静寂といわれゝば、そのことばだけを一ツ覚えにおぼえはするが実際には何もわからず、四五ヶ月をまごまごするそのうちに家のなかでは老人が病むやら、子供が修学旅行に行くというやら、地方から預かり娘さんが来る、女中さんが出入りするで、主婦はお稽古ごと続行ができにくいのであつた。お稽古と家人の病気や旅行と、どちらを取るかいえばそれはきまつていた。
(全23P279)

―――ほうじ茶のうまさ
「お茶あつくしましようよ」
「ああ、いまそういおうとしてたんだ。」

佐吉は、いまでも焙じて売つているお茶を使わせない。いまではもう茶焙じも姿を消している時勢なので、わざわざ注文して作らせ、客用にも家内用にもその都度に焙じさせている。茶だんすへ立つたついでに、見ると一時を半分まわつていた。真夜中だな、と思いつつ、茶筒の蓋を抜く。蓋はいい手応えで抜けてくる。こんな些細な缶ひとつでも、蓋のしまり加減が選まれていた。茶焙じに茶をうつし、火にかざして揺すると、お茶の葉は反り返り、ふくらみ、乾いた軽い音をさせ、香ばしく匂う。土瓶にとり、あつい湯をそそぐと弾いてしゆうつと鳴る。あきは番茶のうまさはそういうように、しゆうつと声をたてて呼びかけながら出てくるのじゃないだろうかといつて、以来ひとつの笑いの種にされていた。
「起きてのむよ」
「そう。」

こわい頭髪に寝ぐせがついていて、起きるとやつれが目立つ。
「うまい。おれは好きだな、焙じた茶が。考えりや一生のうちで、いちばんたくさん飲んだ茶だな。」
「そうね、あたしもこれがいちばんいい。きつと性に合つてるのね、あたしたち夫婦の。」
「そんなところだ。どつちも玉露の柄じやないからな。」

ふつと、寂しくなつて、あきは慌ててからの茶碗をおくと、病人のうしろへまわり、横になるように促した。
(全13P315・316)

――――番茶と湯豆腐
いまは番茶は焙じたのを売つてゐて便利である。好みの分量を土瓶につまみ入れて湯をそゝげば、誰がやつてもそんなにむらのない一定の味に淹れられるから、上手下手の文句を一掃したことは進歩と云へる。でもまた考へると、あれは進歩の結果の進歩のやうな気もするし、時のすがたといふものともおもふ。

あれもおいしく淹れようとするとちよつと手心がいる。強すぎる火でぞんきにやつつければ、たゞ焦げたるものの匂ひと冷淡な味を見せるし、弱すぎる火でのろくさやると、本来の葉つぱあるいは植物の匂ひをたてゝ茶碗から野つ原や山畑のきたなさを感じさせる。

灰に塊のない、おとしの拭いてある火鉢に適度な火が紅く鉄瓶が鳴つてゐる。その鉄瓶を脇の五徳へのけておいて、火のふところを拡げ火勢を平らにする。茶を入れた茶焙じをかざす。火に敏感な茶の葉はすぐ身をよぢつて反りかへりだすし、同時に香ばしい匂ひをたてる。頃あひになつたら茶焙じを傾けて、手早に土瓶へ移し湯をさす。ち、ちゝ、しゆうと爽やかな音がして湯気と香気があがる鉄瓶をもとの火に戻し、伏せてある茶碗を起し、ゆつくりと注ぐ。と、ちやうどいゝ色と味と匂ひが立つ。たてるところを見せて進じるのは、茶室の茶に限ることはない。番茶は親しい人と話しつゝ、焙じるところを見せて酌みたいなお茶だ。あるいは親しい人とうちのものととの話を妨げないで、しゆうと音をさせていれるお茶だ。私のうちは親の代から番茶党である。
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私が家事を引受けるやうになつた十五六のころ、「番茶なんてものは、朝大きな土瓶へがつとたてゝ1日ぢゅうに返へして使ふもんだ。」と云はれた・それでさうした。しばらくたつたら、その煮かへしのなかへ昆布の細切りを入れろ、煎豆を、梅干を、塩をいれてみろといろいろなことを云ふ。しまひに、おまへの工夫はなんにもないのかと軽蔑されたから、考へて、干した庁子を三片入れた。そしたら父がへこたれて、「オツデでござりやす」よ云つた。それで雑目混入はやめた。

二三年するとまた父の意見が変つて、番茶なんてものは、さつと入れてさつと飲んでさつと捨てないのはばかだと云ふ。その後また何年かしてもう私は嫁入つて、うちは女中任せだつたが、ある日父を訪ねたら、ひどい出がらし番茶を飲んでゐた。「―――おまへは情ながるが、番茶はいざこなしの平和が本領だよ」と。父の日常がすべて察しつくせる味だつた。あのたびゝの父の番茶意見の変更を私は非難してゐたが、味はその人とともに変化して行くのが正しいと思はされた。

ところで、私は結婚して子供を産んだあとで、万事がいやになつて、だゝこね女房になつて、だゞを隠居所の姑のところへ持ちこんだ。姑一人に下女二人の行き届いた住ひだ。姑の人がらから来客が多く、隠居所とはいへ親類うちでいちばんお茶の消費量が多いうちである。私のだゞは姑にとっては、息子の讒訴を聞かされることだ。小さい女中は使ひに出され、としよりのは蔵の掃除をさせられ、姑はゆつくりと聴き終へた。それから清潔な火鉢へより、清潔な済を足すと、ちよいと土瓶の蓋をとつて眼を落し、両手に土瓶の腹をかこんで考えるふうにしてゐ、やがてそれへ湯をさし、火へかけた、―――五徳の爪へすべりどめの灰を少し載せた。出花の番茶ではなくて、煮出し番茶なのだ。こつくりとしてゐた。静かに聴いて、そのあとに出された味だつた。はつきり姑のほうが人間が上だと知らされた。
(全8 P157・159)

――――齢
「まあお待ち、ちょいとおまへさんに云つとくことがある。こんなことはめつたに無いんだが、けふは腹の虫が三寸上へ顔を出してゐるのさ。さあ、そこへおすわんなさい。」がらつと変わつたことばつかひなり声の険しさなりに、咄嗟のとりなしも出ず、私は黙つたまゝ。とてさんは口じりを吊りあげて薄笑ひし、いよゝ侮蔑を濃くして眼を落してゐ、ヒステリー特有の撃たば撃ちかへさんきつい態度。それをまた鷹のやうに見据ゑてゐる百合子さんの顔。

のりうつるといふのは、あゝいふことでゞもあるのだらうか。芝居の何とか姫が鬼になるといふのはあれなのだらうか。滲みだすやうにずるずるつとそこへ出て来たものは、赤やら淡紅やらに装つてまばゆく綺麗な百合子さんを掩つて、精悍なすさまじい老婆であつた。見るにたへない、そしてまた見ずにはゐられないその恐ろしい変わりやう。不断は気にしたこともなかつた皺が波浪となつて、額に頬に疊々とかさなりあひ、おしかぶさつた瞼の奥に光る三白眼、紅をさした唇の影に顎はけものに似て稜ばり、いろどり美しい著物は更にことゞく妖しかつた。
「おまへさん、あたしをさげすんでゐるね。」
「とんでもない、御冗談を。」
仰いではつとしたとてさんを、じつと見つめておいて、
「あたしはよそさまの女中さん相手にはちがひは云はないつもりだ。口は調法、しらをきつてもしやべれるもんだ。動かないところの実際で行かうぢやないか。いま持つて来たこのお茶、こりや何だい。手をつけるまでもない、酒くさいい茶さ。おまへさんいゝ加減なことをしてきたらう。酒の燗をした湯を注(さ)して来たんぢやあるまいね、いえさ、こゝの旦那さまが酒好きは世間みんなが承知のこと、それに夕方舞ひ込んで来るにはこつちだつて御厄介さまは承知の上。私だつて女のうち、せはしいときの気持ちもわかってる、臭い茶なんぞははじめから勘定に入れて来てる、何おまへさんの態度ひとつでどうともなる。
それを何だい、からだ中の毛穴から軽蔑をふきださして、このくそ婆あ色きちがひめ、何がわかるもんかつて気がはみだしたのがこのお茶になつて出てゐるのさ。人をないがしろにしてわかるまいと思ふから、ちやけの茶も飲ましてやれといふ気も出るんだが、わかるまいと思ふときにはちやんとわかられちまふものなのさ。三人で飲みまはしの利き酒きゝ茶をしてみようか。それでも御冗談だなんていふ気かよ。」

役者のちがひはしやうも無い、青くなつたとてさんは、「申し訳ございません。」よ云つたものゝ、悔しさは眼にあふれて睨んでゐる。
(全2P308)

・・・・・・・
「太刀打ちもできない人相手に話したつてむだだ。このお茶ぐらゐにはあんたの心中も読めてゐる。むやみと人を見おろしたい気持のもとも察しがつくし、その傲慢な心の裏のさみしさもわかつているが、やたらと人を軽くすると自分のためにも主人公のためにもならない。
・・・・・・
はゞかりさま、お茶一杯淹れなほして来て頂戴。」
と手さんは冷えた茶碗を持つてさがつた。
百合子さんはしんみり話しはじめる。
(全2P310)

(つづく)

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