第五十一回 幸田文 ――― お茶をうまく淹れる(3)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

幸田文 ――― お茶をうまく淹れる(3)

――― お茶番
千代は云ふだけをすらすら云ひ終へて気もちが片附いた。酒井さんは地方の豪家の跡取なのだが、ゐなかは健在な父に任せて自分は東京にしごとと住ひをもち、実父より舅に話の合ふ親しさをもつてゐるといふことだつた。趣味や見識もよし、実務もばりばりとやるし、人づきあひは誠実だし、まづこの一族きつての婿の第一位、といふより血続き縁続きの甥姪連中では誰よりもいちばん目を置かれてゐる人だつた。今日の宰領だつた。「千代さん、何を手伝つてくれますか。失礼だが、何ならできますか。」

さう云はれると、ぐつと詰つた。手伝へるこれといふものは何もなかつた。「お茶番ぐらゐならできると思ひます。」
「ぢや、さうしていたゞきませう。」ほつとして千代は女たちのなかへはひつて行つた。
親類が早めに集まつて来はじめ、お茶番は忙(せは)しくなつたが、折角ついで出したお茶はむだになることが多かつた。今来たこの人にと出した茶碗は一応受けてそこへ置かれてしまふ。人は次から次への挨拶で一個処におちつかない。お茶は通り歩きに徒らな“さまたげ”になり、物が触(さは)つてひつくり返る、果(はて)は誰の飲みさしやらと思ふかして、口のつかないまゝ埃が浮く。千代はそれを自分のへたさ拙さゆゑと思はずにはゐられなくて、一々恥を感じた。その恥をどうかしてなくしたいと思ひ、じいつと座を見てゐるうちに、間あひを測ることを知つた。間あひよく給仕ができさへすれば、人は茶碗へすぐ口をつけるし、「憚りさま、ご苦労さま」と云つて空茶碗を返す人も出て来る。それは嬉しかつた。酒井さんは時間がたち人が殖えるにつれて忙しい。いつも誰かに話してゐたり話されてゐたり、ときには二三人いちどに何か打合せてゐる。用事は四方からこの人に集まり、またこゝから四方へ伝へられるかたちであり、気の毒なほどひつきりなしだつた。さつきの受附の男などは酒井さんを叔父さんと呼び、自分は「却(こふ)、却」と呼びつけに呼ばれて、ぴりぴりしてゐるやうすだつた。千代は、この忙しい酒井さんがもしかしたらいちばんお茶がほしい人かもしれないと考へついた。

「うまい。もう一杯。」気あひのやうに云はれ、ふつとそれが働く“こつ”だ、手伝ふといふのは役に立つ場処を見つけだすことだと合点して、少しづゝ気の働きが活潑になつた。

霊柩車が本堂へ著き、喪主と近親がぞろぞろ控室へはひつた。混雑と暑苦しさが溢れ、昴奮のけはひが盛りあがつて渦にまはりだした。酒井さんすらその渦に吞まれさうに見え、ましてもの馴れない千代はまつたく巻かれて、葬式といふ場処も悲歎の観念もすべて忘れ、ばかの一ツ覚えにたゞ湯を絶やすまい、ひたすら人の渇きに茶を供へようとし、いつか自分が軸になつてお茶番の女たちを動かしてゐることは知らなかった。
(全3P407)

――― 番茶にして頂戴
しばらくすると、何の事柄も生じたわけではないのに、私はじれつたくてしやうがなかつた。よくよく気をつけてみると、じれつたい原因はつまらないことなのだつた。
「ちよっとお茶を一杯ついでくださらない?」そのときそのひとは火鉢のそばにすわつてゐたし、私はこちらでしごとをしてゐる。起ちたくないしごとの続きかたなのである。
勿論「はい」である。面倒がるやうな人柄でなし、こちらにも偉がつて茶を汲ませる気はない。万事いやなことなしの明るい心と心である。
けれどもこれが、じれつたさの種になるのであつた。そのひとは「はい」だけで済まない性質なのだつた。「はい」の次に、「お煎茶でなくてよろしうございますか、番茶にいたしませうか」と訊きかへす。私は番茶の焙じたのしか飲まない習慣で、常にそこに置いてあるのは番茶にきまつてゐるのである。
しかし来客にはいきなり番茶の出がらしもどうかと思ふので、緑茶をいれてゐる。だから緑茶を好まないとか飲まないといふのではなく、ふだんにはあの濃い味が胸にもたれるので番茶にしてゐるのだ。訊きかへされゝば、「番茶にして頂戴」と云つて、それでスムースに済むのであるが、事は番茶一ツではない、万事にそれなのでじれつたいのである。
(全6P32)

――― 番茶を一杯
塑像のやうにしてゐたつて、話もできますし了解もできるものでした。夫は仕事上の都合によるでせうが、以前から客寄せも好きな性質なので、平気でたびたび丘さんを連れて来ます。「丘さんは料理屋で飲んだあとは、素人のうちの茶の間が懐しくて、やたらとひとのうちへ行つちや番茶を一杯つて云ふのが癖ださうだから。――」と云ひます。
(全7P315)

――― 紅茶の作法
だんだんに父と母との不和を知るやうになつた。お客がしたくても何もないといふのが、私のおぼえてゐる“もめ”のはじめだつた。晩酌の父は明らかに不機嫌で、「買つたらいゝだらう」と云つた。はゝの買つたものは紅茶茶碗とパン皿だつた。桃色の花模様のついた茶碗や皿はいまも眼にのこつてゐるほど私を嬉しがらせたが、父は嘲つて、せんからある糸目のお木皿の方がよいものだと云つた。そしてやがて、日本語を話す西洋人のお客が来た。きやうだいは茫然とした。

客は父の書斎でもある八畳の客間へ通された。はゝの寄宿してゐたバンカム氏夫妻らしいが、はつきりしない。私はその美しい、見たこともないハイカラな茶碗で紅茶を飲んでみたくてたまらなかつた。その日、その異人さんの前でお相伴させられた。甘露々々、なんとも云へないうまさだつた。そんなにおいしい紅茶は、底まで飲みつくせないうち、さんざんなことになつた。文ちやんは匙の置きかたも知らない、一郎さんは吹いたり吸つたりして騒々しいこと、なんだかんだ。紅茶を飲んだこともない下司な育ちやうをした子のはゝになつて、はゝの方もどんなにきまりの悪いおもひをしたか気の毒だが、私もいくら何でもお客の手前はづかしかつた。
一度畳へ置いてしまつた茶碗は、もう楽な気持で取れなくなつてしまつた。援けてもらひたさに父を見た。父はきつい顔をして私を見てゐた。涙が滲んだ。女の異人さんが優しい声で、「それかまひません、ぢきおぼえませう」と変な節をつけて云つた。
(全2P96)

――― おなじ柄
多少風があるけれども、空は晴れてゐた。暖かい。かうしてゆっくりと見て行くと、街というものはなんとまあ沢山な色彩が溢れてゐるものだらう。一軒一軒いろどりを凝らしてゐるといふやうすだった。呉服屋、果物屋、花屋など売りものがすでに美々しい色彩の家は別にしても、たとへば葉茶屋のやうなじみなものを商ふ店でもさうだった。飾り窓正面には天然色写真、紺絣を著て白手拭を姐さまかぶりにした茶摘み娘が、黒い眼赤い唇に魅力を見せて、バックの茶の樹の青が爽々しい。写真の下にはスペースを贅沢につかって、白い高坏(たかつき)一ツ、そこへ品よく緑茶を盛りあげてある。そばにはかはいい朱、緑、黒の茶筒が、いかだに置いてある、といった具合に、上手ないろどりでさりげなく人の眼を刺戟する工夫がしてあるのだ。
(全4P403)

―――― 終りに
終戦後東京都のお茶の宣伝文に「何はなくともお茶一つ」とあった。時宜に適した標語として評判がよかった。だが人によっては儀礼臭を感じる人もなくはなかった。幸田文の茶は儀礼臭のない、素直な茶。次の文例を見ればよく分る。

けいこごと(全10P243)、最初の教育(全2P43)、旅がえり(全8P145)、季節のうつろい(全19P256)、上塗り(全10P157)、茶室の天井(全22P38)、尚茂吉と露伴の親密な交情は小林勇の絵の展示会(須坂博物館)を見てもよく窺えるが幸田文の文章には老人に対する気配りと優しさがある。これも茶の心と云えるだろう。

―――― 大岡 信の賛辞
時に、これほど「誠実」や「努力」という徳目に、生きるための根本指標を置いていた作家も、あまりいなかったのではなかろうか。それが「幸田の家の生き方」だったわけだが、それはつまり、幸田露伴から叩きこまれた物書きの憲法でもあったのである。

その結果、幸田文には、全く自然に、ひとつの生き方、言いかえれば文章の書き方、における根本的な特徴が備わった。すなわち、絶対に声色(こわいろ)を遣わないという根本的な特徴が。
幸田文の文章が人に落書きを取り戻させ、人生に対する安定した距離の保ち方を示してくれる理由は、「この人はどんな場面でも声色を遣って人をだますようなことはしない」という信頼感を、読者が抱くからであろう。文学というものに、究極人が信頼感を持つのも、文学はたとえ破戒乱論を語っても、人をだまくらかすことはしない人が書いているものだと、人々が暗黙に信じているからだろう。

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