第五十三回 齋藤茂吉 歌詠みの原動力 抹茶(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

茶精の歌
大正十二年ミュンヘンにて。
十月三十日(火曜)、ヒルレンブラント方にて、上月、中井、西村、小宮山、松尾夫妻の諸君と夕餐を共にす
日本飯(にほんめし)われ等くひたり茶精といふ粉を溶かしていくたびか飲む。(前1P577)

随筆念珠集の「茶精」
夜になってミュンヘンに著き、次の日の夕食に、宿の媼(おうな)に日本飯(にほんめいし)を焚(かし)いでもらった。伊太利(イタリー)のMaggiという醤油を買って来、蕨は重曹を入れて煮た。媼は目を睜(みは)りながら、「そんなものを食べて中(あた)りますぜ」などといった。媼は、Hillenbrand(ヒルレンブラント)といって、多勢の日本留学生を世話した。日本婆さんの名はそれに本づいている。媼は“vergiften”という語を使った。

「なあに中(あた)らない。己(おれ)だちにはこれはたいしたものなんだよ。マルチン・ルーテルは牛酪(バタ)ばかり食べて肥(ふと)りあがったが、己(おれ)はきょうは畜類(フィー)になるんだ。媼(ばあ)さんは、ゲーテのファウストを知ってるか。あの中に魔女の厨(くりや)というところがある。何でも食物は純粋のものを食う。畜類(フィー)になって生きるという事があっただろう。己はきょうは馬の如き畜類(フィー)だよ」こんなことをいいながら、重曹で茹(う)でた蕨を清水で洗って卵とじの汁を作った。それを僕の部屋に持って来、留学生の誰にも知らせず、独りでむさばり食った。

和食にも麦酒(ビール)も珈琲(コーヒー)も向かぬので、茶精(ちゃせい)を湯に溶かして飲んだ。茶精というのは番茶の精としてあり、一人の友が遥々(はるばる)日本から持って来たのを僕にくれたのであった。腹の満ちた僕は宿を出てミュンヘンの町を歩いた。
(岩文茂吉随筆集・念珠集P133)

外国にあっても日本人にとっては和食に合うのは日本茶にきまっていたが、平成の若い方にも同じ言葉が通用するかどうか。茶精の製法がどのようであったか、それは解らないが番茶の精とある。番茶も満更捨てたものでもない。

茶に関連する和歌
茂吉の歌の題材は多岐に亘っているが、茶につながる歌は多くない。若い頃には茶摘の歌などがある。順序もなく記してみる。
さらに読む ↓

・茶摘(明治の作品)
商人の荷車見つつ尾の燒山見つつ茶つむ吾等は
茶畑に戀の話をあはれがり泣く我が手より摘茶こぼれけり
雲一ひら凝りて動かぬ春の日を笠をかぶりて法師茶をつむ
管の根の永き春日を茶をつみて唄を歌ひて悲しくもあらず
空の人老い行くを唄歌ひ菅笠なめて茶つむ子等はも
(茂全歌四P5明38)

木の下に茶摘の歌をきき居れば茶摘み乙女の戀しくなりぬ
(茂全歌四P309-310明38)

・茶の木
丈高き茶の木に白き花きて人どよめきを感じつつあり
(茂全歌三P166昭14)

・茶の花
うつくしく柿落葉せるかたはらに茶の花けりひとのたづきに
(茂全歌三P352昭17)

・比叡山
榮西(えいさい)のしたる庵(いほり)はたかむらを前(まへ)にして谷をひとつ隔てぬ
(茂全歌白桃P509)

・先師左千夫
茶博士の左千夫の大人のせしごとく雨のはれまを朝ぎよめすも
(茂全歌四P458昭20)

・朝の茶
朝の茶の小つぶの實われひとり寂(さび)しく食(く)ひて種子(たね)を並べぬ
(茂全歌三P352昭17)

・鄭家屯の茶屋
日本の茶室造りの部屋に寝て夜ふけむとする月かげが見ゆ
(茂全歌二P291昭5)

・香港の茶館
茶館(ちゃくわん)には「清潤甜茶(せいじゅんてんちゃ)」の匾がありにほへる處女(をとめ)近づき來(きた)る
(茂全歌一P433大10)

茶館(ちゃくわん)にはまろき面(おもて)のとめごも甲斐甲斐(かひがひ)しくてわすれかねつも
(茂全歌一P697大13)

・童馬雜記帳のうた
茶をすすりしづやかにしも待ちにけり人が焼かるるその頭の骨を
このあひだ重油が注がれて焼かれるる人おもひつつ茶をもらひをり
(茂全P717)

玉泉山の名水
・玉泉山(中国)
西山を後背(こうはい)にして清(さや)けかり玉泉山の白塔(はくたふ)ふたつ
われの來し玉泉山の白松(はくしょう)は空にせまりて鳥さはに啼く 白巌(しろいは)の打つづきたるところより汀(みぎは)におりぬあはれすがしさ
「天下第一泉(てんかだいいつせん)」にして湧く水は水泡(みなわ)の玉(たま)と湧きまきのぼる
この清(きよ)きいづみの上にもろ共に鴨浮びゐて樂しきろかも

水貭について
世に伝えられている陸羽の『茶経』は、水のことを論じて、「山水(やまみず)を用いるのが上等。江水(かわみず)を用いるのが中等。井水(いどみず)が下等」(五之煮)とされているが、その後の中国では水貭の良品について研究がすゝめられている。解説書としては、布目潮渢の中国の茶書(東洋文庫)が詳しい。明代になって許次紓の「茶疏」があり、文中で玉泉の水に触れている。

虎林水(虎林の水)
杭州の南北両山の水では、虎跑泉(こほうせん)を最上とする。芳しくて洌(きよ)く、甘くて腴(なめ)らかで、極めて珍重すべきものである。………玉泉(ぎょくせん)は、昔はすこぶる佳かったが、近頃は製紙場のために駄目になった。

訳者、中村喬の注
「玉泉」は、仙姑山の北の清漣寺内にある。瓦と石で組まれた池で、底まで透き澈ってみえ味は甘美であるという。虎跑泉・龍井と並ぶ杭州の名泉。

陳舜臣とお茶
作家陳舜臣は一九八七年朝日新聞に「茶事遍路」を掲載、多くの讀者があった。專門的な六ヶ敷い事は書かなかったが、平明に中国の茶――陸羽、シーサンパンナ、武夷山、鉄観音、竜井等自己の体験談を記している。玉泉山も出てくる。

杭州の一名を武林という。天竺、霊隠諸山の総称を武林山と呼んでいたからである。山中から西湖にそそぐ川を武林水と呼ぶ。だが、武林水には別の意味もあった。杭州一帯にはすぐれた泉がある。とくに竜井泉、虎跑泉、玉泉、獅峰泉などが有名である。銭塘県が一時、泉亭県と改名されたことさえあった。それほど水質がすぐれ、このあたりの名泉の水の総称が武林水だったのだ。

竜井は茶の名称になって、知名度は抜群だが、武林水のなかで最もすぐれているのは、虎跑泉である。「竜井茶と虎跑泉」は杭州の双絶と称され、偶然、名称の第一字が「竜虎」と対(つい)になっている。

私共中国観光で虎跑泉の見学者は少なくなかったが、皆それが中国第一の名水である事を実感した。もっとも筆者達の観光は昭和四十一年の昔の話、現状は全く解っていないけれど懐かしい。。

戦時中は飲物も貴重品
いろいろと心くだきてわがために結城哀草果茶を持てきたり(全短三P449昭20)

くだりゆかむ娘のためにいささかの紅茶を沸かすわが心から(全短三P418昭19)

山中にくもり深ければ惜しみつつ珈琲を沸かすわが心から(全短三P349昭16)

日記、武者小路君ニアフ、カエリテ茶ヲノンデヰルト永井フサ子サン来リ抹茶ヲクレタ(昭19.10)

日記、結城君カラ貰ッタ茶ヲ飲ンダ(昭20)

日記、静岡ノ新茶二種惠與(昭20)

番茶のだしがら
書棚の雑誌などを整理して屑屋に売ってしまうという話から、「松村(英一氏)のもひどいもんだ。まるで番茶の出しがらだね。………………

番茶とは摘み残りの硬葉で製した品質の劣る煎茶(広辞苑)とされているが、番茶と煎茶の嚴密な区分は六ヶ敷い。(新茶業全書)
もっとも鬼も十八番茶も出花と云う詞もある。之も忘れる訳にゆかない。

喫茶の風習
北杜夫の「茂吉彷徨」に次のような文章がある。
なお家では、食事のあと飯茶碗に茶をついで箸を洗い、箸箱に入れるのだった。のちに松本高校に入学して、父の関係から私の世話をしてくださった松崎さんの家に招かれたとき、食事が済んでも茶が出ない。いぶかしく思っていると、食器を片づけたあと、信州漬けと湯呑茶碗が初めて出されるのであった。今の私の家でも茶を飲むには湯呑を使っている。飯茶碗に茶を入れるのは昔の山形の風習ででもあったのだろうか。

杜夫の指摘する風習は山形に限定されていた訳ではなく、寧ろ全国的に行われていたにちがいない。その頃普通の家庭では米粒は勿体ない、有難い食品、無暗に捨てないようにした。それは又主婦の労力の省力化にもつながり、食事の作法として定着していた。(尚、今でも禅家の飲食の作法にはきびしい戒律がある之はよく知られてる)

だから杜夫は喫茶の先進県で嗜好品としての茶を初体験したと言ってもよいだろう。

尚、信州人のお茶好きについては藤村の項で述べたが、藤村の茶道具は馬籠ばかりでなく小諸の記念館にも愛用の急須玉露茶碗等の展示がある。お茶は信州人の生活の中でなくてはならない嗜好品であった。

茂吉の随筆の面白さは既に記したが、杜夫は次の如く述べている。興味ある文脈。補足したい。

短歌と随筆(岩文茂吉随筆集あとがき)
茂吉は世情に関してまことにうとく、またその雷親父に反比例して、ごく小心でもあった。
次の年の夏休み、私がまた大石田へ行くと、父が、
「屁(へ)のようなものを書いたらこんなにくれたよ」と言った。

書きなぐった随筆の原稿料は意外に高く、それに反して血をしぼるようにして作った短歌の稿料がごく安いので、三分の一ほど嬉しいような、三分の二は憤慨しているような口調であった。茂吉は昔から短歌の稿料が安いことを常々書いたり話したりしていたからである。

(岩文茂吉随筆集あとがき)

(つづく)

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