第五十四回 斎藤茂吉 ―歌詠みの原動力 抹茶(3)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

左千夫歌集小感

茂吉は伊藤左千夫について多くの事を書いた。筆者はその要旨について記した(平20年3月 第十五回伊藤左千夫①、  4月第十六回伊藤左千夫②)。だがこの歌集小感では左千夫の歌の具体例を取り上げている。又先師の茶の湯についての真情が感ぜられる。くどいようだが、触れてみる。茶の湯の趣味はなかった茂吉ではあるが、左千夫の歌を媒体として茶の心はよく理解していたと思う。

先師の茶の道に親しまれたことは和歌と異らない。その心持は、茶の湯の手帳。茶の煙。茶の煙抄。唯眞抄。茶煙日抄。作歌餘滴その他の随筆のなかに出て居る。竹の里人が『茶博士をいやしき人と』戒めたのは、樂焼趣味の窒礙に固まつてしまはないだらうかといふ顧慮であつたらしい。その氣味は免れないとしても、先師の茶は極めて自由な、形式などは殆どかまはない流儀であつた。

…………………唯眞抄の一節に『十一月二十八日。荒れた居住も、近頃壁が出来疊がはいつて、漸く住むべき家らしくなつた。居住が稍整うても、精神が猶落ちつかないのは、烈しく受けた内心の動搖が、未だ靜まる時機に達しないからであらう。精神の不安を不安ながらに一日の閑居を貪り、籠庵獨居、久振で茶に親んだ。陶器や釜や、古畫一幅の靜けき、釜の煮え、香の燻り、茶事の面白味は盆趣味の深きを覺ゆるも、近く切實に感じた人生是れ苦の思ひは容易に消ゆべくもない。初冬の靜寂、夜晩く、沈んだ釜の煮え音は、何事かをささやく如くにも、又深く人生を悲しむ我心に共鳴するかの様にも聞える。人生の悲みを共に語り共に泣き得る人があつて、詩作に茶事に相慰め合ふことが出來るならばなどと、考は盆我を悲しみに誘ふのであつた。夢のやうに不思議な一夜であつた』かういふのがある。先師の生活上に於ける茶の趣味との關聯は此文章を見ても略分かるとおもふ。

………………次に茶の材料を取扱つた歌を少しく抄するが、先師の茶の趣味は、單にさういふ歌ばかりでなく、すべての歌にひろがつて居るとおもふ。この趣味は晩年に、『靜寂と悲哀』と相とけ合つて、先師一流の云ふに云はれぬ哀調を出してゐる。

めづらしき(もひ)に茶をたて飲み居れば山松の上に天雲うごく
春雨に吾ひとり居り黒樂(くろらく)の(もひ)しぬびつつわれひとり居り
左千夫われ牛飼なれど樂焼(らくやき)のひじり能牟許(のんこ)が持ちほこる
正岡がかける松の繪壁にかけ能牟許(のんこ)がもひに茶を立て遊ぶ
釜たぎる湯氣(ゆげ)の煙のおぼろげにみかげ見ゆらぐ吾が戀ふれども

○爐に近く梅の鉢おけば釜の煮ゆる煙がかかるその梅が枝に
五月雨に茶を抹(ひ)き居れば行々子(ぎやうぎやうし)ゑんじゆが枝に聲斷たず鳴く

○いにしへの鎌倉人(かまくらびと)の心なほくありけむ知らる肩つきの釜

○現世の人(ひと)の氣(け)絶えし眞夜中に聖(ひじり)の釜の煮えの音を聞く白玉のぎよくの勾玉貫(まがたまぬ)くべくは紫の緒に貫くべかりけり
あかねさすぎよくの勾玉赤玉の白綾衣(しらあやぎぬ)にたふとかりけり
釜の煮えのおほに鳴りつつ春とおもふ心はみちぬ夜のいほりに
(斎藤全11P731)
(○印 伊藤左千夫の項参照)

『ことわりのこちたき國にかつてなき物にしありけりこれの樂焼』『日の本のやまとの人の圓かなる心ゆなりし樂焼ぞこれ』の二つを讀んでも先師の解釋が分かるとおもふ。僕の如きは茶は月竝俳句にても作る老人の玩ぶものの如くに思つて、釜も碗も軸も玉も、その味ひを理解しなかつたと謂つていい。そして西洋の詩論を讀みかじり、猛然として輸入しかけた後期印象派の繪晝と其理論に心を入れかけ、西洋詩の技方にたまたま感動したりなどして、先師のかういふ題材の歌は古い古いと感じてゐた。そして『かういふ風な對象を吾々に紹介されても、ただ作者が妙な所に面白味を持つて見て居ると云ふ事を感ずるだけで、作者が如何な興味を持つて居たかが感ぜられないから』といふ先師の僕の歌に對する評言の如きは、僕の感興は茶趣味では解釋出氣ないぐらゐに思つてゐた。それゆゑ、晩年に「叫びと俳句」のなかで、芭蕉の句の中の『や』は單に句切れの文字ではなく、單に對象に向つて呼掛けたのでもなく、この『や』の一字に深い歎息の聲が現はれて居るのである。といふやうな徹底した説にも餘り重きをおかなかつたことを今想起する。
しかし、今先師の遺著に對して、かういふ歌を味ひ讀むと、何ともいへぬ靜かなものが心に働きかけてくる。僕はいま往年のことを想起してひどく心に慚ぢてゐる。
(茂全11P782)

昭和二十年二月はじめの新聞に、『敵アメリカ軍の先鋒サンフエルンナンドに侵入し、腥風血雨のマニラ灣頭、露營の篝火にただ自然の溪水を鐡兜に汲み、バタアンの砲聲を松籟と聽きつつ、叉銃の下一輪の野火を筴に浴びて、寺内元帥より贈られた苦茗を啜り好物の羊羹をつまむ山下將軍の胸中こそ古武士の風流に通ずるものがある』云々といふ文章が載つてゐる。

考槃餘事に關する記事があるが、その一端を示せば次のごとくである。『茶効。人飲眞茶、能止渇食、除痰少唾、利水道、明目思、除煩去膩、人固不可一日無茶、然戓有忌而不飮、毎食已、輙以濃茶漱口、煩膩既去、而脾胃自淸、凡肉之齒間者、得茶滌之、乃盡縮、不覺脱去、不煩刺挑也、而齒性便苦、縁此漸堅密、蠧毒自去矣、然率用中下茶』云々。『茶寮。横一斗室、相傍書齋、内設茶具、敎一童子專主茶役、以供長日清談、寒宵兀坐、幽人首務、不可少廢者』云云。

山下將軍は幽人ではなかつた。二月七日の大本營發表は、『敵の一部の二月三日夕、北方よりマニラ市の一角に侵入せり』といふのであつた。『所在の我部隊は同市内外の要點に占據し、之を邀撃奮戰中なり』といふのであつた。
幽人とは浮世をはなれてしずかに暮らしている人の事。
十日の新聞には、マニラのエスコルタ街も廢墟に歸したと報じたが、前線基地に居られる山下將軍の寫眞が載つた。將軍は誰かと話してゐて、にこにこして居るところである。自分は山下大將のことがしきりと思はれてならない。大將の武運長久をいのるのは國民の心からのいのりではなからうか。(二月十一日記)  (全7P381)

大東亜戰争を生きた人なら、英將パーシバルを降伏させた山下奉文を知らない人はない。緒戰の国民的英雄であった。然しフイリッピン戰で敗軍の將として終ってしまった。考槃餘事は明末期、屠隆(一五四一 ‐ 一六〇五)の作、文人趣味のテキストブック本書と山下將軍の茶との連想はいかにも茂吉らしい心情の動きではないか。
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茂吉の終戰日記

八月十五日、水曜、晴レ、御聖勅御放送
八月十四日ヲ忘ルゝナカレ悲痛ノ日、
……………正午  天皇陛下ノ御聖勅御放送、
ハジメニ一億玉砕ノ決心ヲ据エ、羽織ヲ著テ拝聴シ
奉リタルニ、大東亜戰争終結ノ御聖勅デアツタ。噫、
シカレドモ吾等臣民ハ七生奉公トシテコノ怨ミ、コノ辱
シメヲ挽回セムコトヲ誓ヒタテマツタノデアツタ
九月三十日、日曜ハレ、ヤゝ暖、
今日ノ新聞ニ天皇陛下ガマツカアーサーヲ訪ウタ御寫
眞ノツテヰタ、ウヌーマツカーサーノ野郎
十月八日月曜、雨(終日)
終日雨ガ降ツテ憂鬱、特ニマツカーサーノ天皇制ニ関
スル意見ヲ讀ンデ憤怒、血逆流シタ

島木赤彦臨終の記
廿一日朝、赤彦君は首(こうべ)をあげて、皆(みんな)に茶を飲みに来るようにいった。中村憲吉、藤沢古実、丸山東一、久保田健次の諸君、不二子さん、初瀬さんが集まった。
(岩文茂吉随筆P177)

………………それから、「おれも生きられるものなら生きたいのだが」という幽かなこえも聞えた。その間に僕らに茶を饗(きょう)することを命じたり、ぼんたんを持って来て食わせることを命じたり、いろいろ細かいところに気が付いていた。
(岩文茂吉随筆P184)

炬燵に俯伏して頭のところに手を組んでうつらうつらしていた赤彦君は、その夜の十時過ぎに居合わせた家族、親戚の皆を枕頭に呼んで、「今晩おれはまいるかも知れない」といったそうである。しかし暫くすると、枕頭でみんなに茶を飲ませ、「これで解散だ」といったそうである。それが廿三日夜のことであるから、廿四日なか一日置いて、廿五日には意識がすでに濁りかけたのであった。
(岩文茂吉随筆P192)

アララギ派歌友島木赤彦は臨終に際し友人に茶の接待をしている。
茂吉の考え及ばなかった事ではないか。

茂吉晩年
「先生は卓に坐っておられた。『昨年、一昨年はちょっと具合が悪かったな。頭が痛くてね、茂太に注射をしてもらったりしたが、もういいんです。おしっこをもらしちゃってね』かたわらの敷き蒲団のシーツを掌でさすると油紙でも敷いてあるらしい音がした」

十月十八日。
「夫人が茶と菓子とをもって来て、『あなたもあがりますか』という。『おれものむよ』といって、先生は私の分の茶をさきにのんだ。夫人が何か言ったとき、『そんなこと言うんでないって、あっちへ行ってろ』と先生はいった」
「枕もとに便器のバケツがある。『僕はこれをおいてるんだが、おいてることをときどき忘れてね』
(北杜夫の茂吉晩年P231佐藤佐太郎日記)

かつて神童と云われた、精神病院長斎藤茂吉も享年は七十一才。

茂吉の妻輝子
父も極端な気短か、母もそれに劣らず気短か、その息子の私が気の長かろう筈がない。ところが私の妻は人一倍悠長なところがあるから、例えば食後のお茶が甚だ遅刻することがある。私が眉に八の字をよせていると母がかたわらからサッとお茶を出してくれる。私は感謝していただくが、何か妙な味のすることがある。あとで分析してみると、緑茶の中に、紅茶の出がらしが混ぜてあるのであった。これは「倹約」の意味である。

母は先手を打つことが極めて好きである。食事がはじまったばかりのときに、目の前にニュッと「お食後」が出されたりして食欲がなくなることがある。
(茂太回想の父茂吉・母輝子P294)

茂吉の飲食
飲食のことはどういう形で作品化されていくのでしょうか。これは茂吉だけではありませんで、アララギ系の人の作品のたいへん大きな特徴ですけれど、物とか、事柄とかいうものを(全部細密描写することはできませんが)、そのなかのどこか一点をキュッとつかんで、そして歌にするというようなことをやるわけです。
そういうときに、漠然と、お腹がいっぱいになってうれしいよというようなことを言うよりは、何を食べたとか、どこで食べたとかいうふうに、具体的な物や事を出すという方法がアララギ系の人たちの特徴であります。
……………

茂吉は、戦中戦後の食料難の時代を人生の最後段階で経験しましたから、食の歌が質素であってもわかります。それにしても、大正十年にヨーロッパへ留学したわけですね。当時のドイツ・オーストリアは第一次大戦後のすごいインフレーションで、日本円というのは非常に強かったわけですから、何でも食べられたわけですね。だから、ビフテキの歌が一首くらいあってもいいと思うんだけれど、ぜんぜん出てこないですね。ハンバークステーキも出てこない。のちに「支那料理園」で蜩が鳴き始めたという歌はあるけれども、ぜんぜん料理の内容は出てきません。
つまり、茂吉の飲食のベースは、徹頭徹尾、東北農民のそれであって、そこへ絶えず回帰していくんだなということを思いました。(岡井 隆)

………………

次のは、昭和十年代の歌ですけれど、

朝(あさ)な朝(あさ)な味噌汁のこと怒るのも遠世(とほよ)ながらの罪のつながり

という作品があります。お手伝いさんが作るわけでしょうけれど、毎朝のみそ汁が気にいらない まあいいじゃないかというんで我慢して食べる人もいるでしょうが、茂吉は、「あさあさに」というから、毎朝みそ汁のことで怒っていた。あとで、可哀想なことをした、これも言ってみれば、ご先祖の代からの罪なんだ、と反省しています。大げさな気もしますが、みそ汁のことでガミガミ言っておいて、なんでご先祖様からずっとつながっている罪だなんていうところまで考えなきゃいけないかとも思いますが、それは、結局、食物というものが茂吉にとって単なる栄養物以上の聖なる意味を持っていたからなんだろうと思います。
(岡井 隆 岩波セミナーブック)

辻 邦生の茂吉觀
……………とくに素朴(ナイーフ)詩人型の詩人・小説家の発展のプロセスは、学者とも違うし、評論家とも違う。その成長は魂を熔鑛爐に入れることを意味している。なるほど情感(センチメンタリシュ)詩人型の詩人・小説家がやるように概念繰作で認識を拡大することで作品の視野が拡がることがあるかもしれないし、単なる体験を増やして作品に新奇さをもたらすことができるかもしれないが、芸術として完成度の高い作品は生まれない……。

私はそんなふうに考え、そしてその考えにしたがえば斎藤茂吉は気質的にこうして生きた真正の素朴型詩人だった。彼が多くの歌論、評論があるにもかかわらず、歩兵の如く狭い道を歩むのも、ただただこの全一的な球から認識が突出し、詩人としての調和が破れることをおそれるためである。茂吉はたとえば山形の農村の土着的情感の土台を、都会的、近代的、西洋的認識によって裏切ろうとはしない。むしろそうした書物的知識を、苦悩しながら、この土台のなかへ流しこみ、土台そのものがゆっくり成長し、変貌し、高貴な精神に高まってゆくのを待つのである。(新潮茂吉アルバム97)

(おわり)

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