第五十六回 井上 靖 サンフランシスコ万博(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

サンフランシスコ万博博覧会
小説「わだつみ」は博覧会の中の日本茶の在り方についてさまざまな角度から触れている。彼は静岡県育ち、無類のお茶好き、茶事一般に明るく、史実についても実証的、日本茶輸出史のライターとして最適任者であったにちがいない。だが小説「わだつみ」でさえ三巻で中絶、文学好きの茶業者にとって大いに心残りであった。

東地商会
川崎は博覧会問題が起ってからは、屢〃店にも顔を出し、口に出すことは博覧会に関すること許りであった。
―――― 茶だろうな、茶だな。日本の茶の味を白人に教え込んでしまう。
そんなことを言ったり
―――― 鰹節はどうかな。案外いいんじゃないか。鰹節は。と言ったりした。茶にしても、鰹節にしても、東地商会とは無関係で、そういう話を聞いていると、何となく浅ましい気がした。
「でも、東地商会に茶や鰹節を並べるわけには行かないでしょう」川崎は言った。
「どうして並べるわけには行かない?並べてはいかんという規則でもあるのか?」
(岩、わだつみ2のP328)

川崎の退陣
この年の春、川崎春吉は突然東地商会を手離してしまいたいということを言い出した。それまでは博覧会でひと儲けすることばかりを企んでいたのであるが、どうしたものか、ふいにその熱がさめ、百八十度転換して、東地商会の仕事から手を引く気持になったのである。
こうした川崎の考えを、桑一郎は東地の口を通して知った。
…………

「博覧会というものは結局儲からんという結論に達したんだな。日本の茶をひと手に売ろうとして、いろんな方面にその交渉もしたらしいが、どれもうまく行かなかった。
…………
それはそうだよ。アメリカ人なら博覧会で儲けることもできるだろうが、君、日本の移民は駄目だよ。茶は日本政府が出品して、大々的に宣伝するらしい。国の仕事だ。政府が出品すると言っても、宇治の製茶業者がやる仕事だろうが、とにかくその宣伝のために、会期中ずっと茶摘み娘を会場に詰めさせるということだ。川崎さんが茶に眼を付けたことはいいが、茶となると、ねぇ。―――あの人は金儲けのこととなると昂奮する。昂奮するくらいだから、それが駄目だとなると、さあっと熱がさめる。こんどの場合も、そういうことだと思う」
(全P333)

日本館の茶の宣伝
サンフランシスコの街は急に人口が殖えたように見えた。昼は博覧会会場で働いている各国の男女が、夜になると街に姿を見せた。
―――― 茶摘娘が揃いの衣装で繰り出すそうではないか。
とか、そんなことが噂されていた。
(全P374)

……………

博覧会場では日本館が人気があった。ヨーロッパの戦争の影響でほかの国の出品物が少かったので、一番出品物の豊富な日本館が人気を独占する結果になったのである。移民の日本人たちは暇さえあると何回でも日本館に出掛けた。母国の建物の中で、母国の商品を買っている白人たちの姿を見ているのが楽しかったからである。会場では日本娘が売る日本茶とか、玩具とか、手拭とか、そんな廉いものだけが売れた。
八月三十一日の日本デーはたいへんな盛況であった。
(全P378)

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輸出茶に就いて
日本茶の輸出の歴史は早い話が日本の資本主義経済の発展過程に於ける農業から工業へ、脱皮転換の姿と言えよう。そして大正以降の輸出の頓座は茶業の辿るべき運命的結末であった。この辺の歴史解釈は輸出組合による「輸出百年史」、角山栄の「茶の世界史」等よい手引書がある。
茶が所謂る換金作物として生糸に次ぐ輸出品目であり得たのは、国家の財政上のバランス問題とも考えられるが、その時代日本茶がいかにヘルシーな飲物であるか、国を挙げての宣伝は極めて有効適切であった。
今やアメリカも日本に次ぐ長寿国である。日本緑茶の薬効は学界でさまざまに取り上げられているが、普通の高齢者向けPRは必ずしも十分という訳でない。
日本茶はもはや習慣性だけを頼りに流通する時代ではない。内外の消費者にその創造的な価値を伝えなければならない時が来ている。

日本の茶はアメリカ人の嗜好に適していたとは思えない。その当時のお役所のレポートは次の如く指摘している。

アメリカ人の嗜好
アメリカ在留の農商務省海外実業練習生神谷政司、『アメリカ人の茶に対する嗜好』を報告する。その中で「日本茶ヲ試ミタル米人ハ其香気ノ美妙ナル点ヲ愛ス、然レドモ米人ノ常トシテ牛乳及砂糖ヲ混用スルガ故ニ余リ美妙ニ過ギタル日本茶ハ特有ノ香味水色ヲ失シ遂ニ茶ナルカ牛乳湯ナルカ区別スルニ苦シムニ至ル」
(松崎芳郎 茶の世界史P184)

アメリカ人の嗜好の実態調査とそれに伴う製茶技術の研究は今日でもゆるがせに出来ない、政治、行政の課題である。

機関誌「茶」の中で次の諸氏の論説に注目したい。
谷本宏太郎(平22.5)田畑和彦(平成20.2.5.9)二村悟(平成21.5)
国内需要の景況を見れば、需給のバランスから輸出茶を考えない人はないが、果して、日本茶がグローバルな商品になる得るかどうか。日本茶の価値を三思三省しなければならない時である。

松永久秀の平蜘蛛の釜
…………
併し、信長の場合は違っていた。はっきりと自分が信長を憎んでいることを知っていた。若し相手が信長でなかったら、自分は平蜘蛛の釜を使う時が来るまで、じっと待つことができたであろう。信長の場合、ただそれができなかっただけのことである。

十月三日から、久秀と信忠の率いる攻撃軍の間には死闘が開始された。そして久秀に応じた片岡城には、細川藤孝、明智光秀、筒井順慶等が詰めかけた。 城は十日に落ちた。落城した直接の原因は久秀が援兵を乞うために本願寺および雑賀に送った使者が誤って佐久間信盛の陣へはいり、このため敵方に謀られるところとなり、敵の一部を雑賀の使者と間違えて城に引き入れてしまったためであった。

城の落ちる前日、佐久間信盛から使者が久秀のところへやって来て、信長公常々御所望の平蜘蛛の釜をお渡しいただきたい、天下の名器をむざむざと滅することは松永殿としても本意ではあるまい、と認めた書面を差し出した。久秀はこれに対して、平蜘蛛の釜と久秀の白髪頭は微塵に打ち砕いて信長公にはお目にかけまいと答えた。
それから幾許もなくして久秀はその言葉通り、落城の時爆薬で自分の頭を割った。平蜘蛛の釜はどうなったか、ついに城の焼跡からも出て来なかった。城と共に討死した者の数は百五十、他の落城の場合に較べるとひどく少なかった。
嫡子久通はいったん城を逃れ出たが捕えられて斬られ、また先年人質として岐阜へ差し出して置いた二人の子供は、その後京都に預けられてあったが、数日後六条磧で斬られた。
信貴山が落城して、久秀の死んだ日、大和の領民たちはみの笠を売って、酒を買い、久秀の死を祝った。そうした城下町の騒ぎが起ったのは城を焼いた余燼のまだおさまらない刻であった。
久秀の死んだ日の十月十日は丁度彼が十年前の永禄十年に南都の大仏を焼いた日と月とを同じくしていた。そうしたことから、人々は久秀の最期を仏罰に依るものとして噂した。

松永久秀について幸田露伴の一文がある。
松永弾正久秀が織田信長に戰ひ負けて自害に及ばんとしける時、中風(ちゅうぶう)の灸をすゑすまして後腹きりしは、いとおもしろき物語にて、久秀、常に中風の気味ありければ腹に刀を突立て死に臨みたる時、もしも卒爾に中風おこりて自由失はんにはあさましかるべしとて、然はしたりといふ。久秀に斯(か)ばかり心にこまかく至りたるものなりければ、かつて人に對ひて、我 松虫を飼ひけるにさまざまに養ひければ三年まで生きけり、まして人間の、日ごろの心がけによりて長命ならんことは疑ふべからず、と云ひて養生をすすめ不養生をしりぞけしといふ。松虫のたとへ、其の声のすずしく
身にしむが如く、横紙破りの人の耳にも入りぬべきなり。(全31.古革 籠P207)

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