第五十七回 井上 靖 サンフランスシスコ万博(3)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

利休賜死
利休の死については多くの作家が筆をとったが靖も昭和二十六年に小説「利休の死」を発表、爾来「利休賜死」は彼の生涯のテーマであった。そして執筆の都度その事の六ヶ敷さを訴えているが、事の六ヶ敷しさを悟るにつれ益々この首題の創作に執着しはじめた感じがする。昭和四十五年の「千利休」に次の如く記している。

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一体、利休はいかなる理由に依って、秀吉から死を賜ったのであろうか。これに触れた文献はなく、利休の死は現在に至るまで謎となっており、日本近世史の中で最も興味ある問題の一つとされている。

…………
 
小説家としての私が以前から利休に関心を持って来たものは、二つある。一つは今日まで謎のまま葬られているその死であり、一つはそういう死を持った利休の人間像である。
(全25P662)

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辞世の偈も認められてあった。
人世七十力希
咄吾這宝剣祖仏
共殺

この辞世の偈については、いろいろの解釈があるようであるが、諸家の説を勝手に借りて、私流の解釈を試みると、人生七十年精いっぱい生きて来た。自分は活殺自在の宝剣を持っている。その剣で今や己が生命を断とうとする。生きることも死と同じであれば、死ぬことも生と同じである。祖師もなければ、仏陀もない。こういう意味であろうか。〝力希咄〟のも、希も、咄も、禅宗の〝喝〟と同じ意味の言葉であるという。

…………
 
何ものかに何ものかを叩きつけているような、やはり怒りと言っていいものであろうかと思う。秀吉に対する怒りであるか、己が運命に対する怒りであるか、それはよく判らない。併し恐らくそのいずれにも対するものであろう。
(全25P665)
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その点利休という人物の性格を考える上で、唐木順三氏がその著『千利休』で書かれている文章は面白かった。氏は利休の茶会のうち、心あたたまる茶会として宗及と利休の会を、烈しい茶会として古渓送別の茶会を取上げ、それに触れて書いている。前者は小宮豊隆氏がその著「茶と利休」の中で客振りの模範であるとして挙げている茶会であり、もう一つは堀口捨己氏がその著『利休の茶』で〝鋭くはげしい茶会〟の代表として取上げている茶会であるそうである。
(全25P663)

「千利休」のむすび
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私は利休の賜死事件を、当然起こるべきことが、いつ起こっても不思議でなかったことが、たまたま天正十九年二月に起こったのである。こう考えたい。小説家的言い方をすれば、政治的権力者と芸術的権力者は、いつかは闘わねばならなかったのである。闘いは利休が秀吉の茶の宗匠となった時から始まっており、その結末が、遅かったか早かったか知らないが、とも角この時やって来たのである。秀吉は利休に死を与えることに依って、いっきに勝敗を決めてしまおうと思ったのであり、そうしなければいつまでも埒があかなかったのである。利休は利休で、自分が身の破滅を来たす予感はあったとしても、そこまで秀吉を追い詰めずにはいられなかったと思うのである。それでは、相手が秀吉でなく、信長であり、家康であったら、利休の賜死事件は起こらなかったであろうか。それは判らない。起こったかもしれないし起こらなかったかもしれないのである。起させるものだけは、利休は相手がだれであろうと持っていたに違いないのである。そうでなければ利休は、日本文化の隠れた建設者として大きい仕事はできなかったはずである。
(全25P666)

昭和五十一年池田大作宛書翰の終りに
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利休の場合は偈や和歌の形ですから、間違いないようにそれを解釈することは、なかなか難しいことになります。利休の遺偈の類がつまらないということでも、信用できないということでもありません。これはこれとしておいて、利休にはもう一つ別の心があったのではないか、もう少し別の覚悟で、自刃の座の坐ったのではないか、私としましてはこのように考えたい気持ちになっております。

このようなことを申しますのも、直前に迫っている死というものは、人に対してある共通した呼びかけをするものではないか、そういう考えを最近の私が持っているからであります。死を見詰めることによって、初めて生を見詰めることができるに違いありませんし、宗教というものに関心があろうとなかろうと、初めてそこに生きるということの意味が、どんな素朴な形に於てであっても問題になってくるだろうと思います。
(全22P472)

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本覚坊遺文
この創作は井上の利休についての作品の中で最も本格的なもの。話の筋は利休の弟子本覚坊が師の面影を偲ぶ夢物語りの形をとっている。歴史上著名な人物である山上宗二、古田織部、織田有楽斎などが本覚坊との対話で締めくくっている。小説の読み方にも色々あるのだろうが、筆者には有楽斎と宗易の独白が興味深かった。

有 楽
それから有楽さまが師利休に関しておっしゃったことで、今でも気になっていることがある。いつのことであったか、有楽さまはこうおっしゃった。
―――利休どのは多勢の武人の死に立ち合っている。どのくらいの武人が、利休どのの点てる茶を飲んで、それから合戦に向かい、そして討死したことか。あれだけたくさんの武人の死に立ち合えば、義理にも畳の上では死ねぬであろう。

宗 易
…………
――そういうことに気付いた時、久しぶりで心の中に生き生きと立ち騒いでくるもののあるのをおぼえました。妙喜庵の茶室は茶人宗易のお城でございます。一兵一卒もありませんが、宗易一人が籠って、世俗と闘うお城でございました。それなのに、それを京の中にも、大阪のお城の中にも、方々に造って、多勢の無縁の方々をそこへお入れしようとした。―――大きな考え違いでございました。上さまのお力に縋ればそれができると思いました。―――大きい間違いでございました。

…………
――侘茶の世界。それはなんと長い間、私にとっては不自由な世界であったことでございましょう。でも自分の死を代償として、それを守ろうとした時、それは一瞬にして、生き生きした、しかも自由な世界に変りました。

 
歴史学者の諸説
利休の死について茶道史学者の解説はさまざまである。村井康彦(茶の湯の歴史淡交社P213)水島福太郎(茶道文化論集下P248)等興味ある見解である。ここでは熊倉功夫(茶の湯の歴史朝日選書P248)を記したい。

利休の死は、いわば文化における下剋上の終焉を意味したのである。約百五十年間、戦国の時代を貫いてきた下剋上の精神は、不断に権力と権威を支える価値観を根底からくつがえしつづけた。信長も秀吉も下剋上の申し子であったし、利休の茶も下剋上の産物であった。利休が東山名物をはじめとする名物の体系を否定しつづけたことは、その直弟子山上宗二の残した『山上宗二記』のなかで、名物にしばしば「当世如何」と疑問符がつけられたことにもうかがえる。

しかし世の中は確実に下剋上の終焉と、新しい近世的秩序の形成へと向かっていた。それに最も腐心したのは秀吉である。下剋上に乗じて天下人となった瞬間に、次の下剋上を押しとどめ、運動そのものを凍結させねばならない。そのために兵農分離を進め、太閤検地を施行し、種々の政策を上げたことはよく知られている。しかし文化政策は少なかった。

利休の茶が既成の秩序や価値観にとらわれないところに秀吉は最大の魅力を感じたに違いない。しかし、彼自身が全国統一を果たした天正十八年には、その魅力も、新しい下剋上の芽に見えはしなかったか。利休は世上の思惑とは全く関係なく、茶の湯の独創性と精神を追求し、それがしばしば世の中の常識に反し、「山ヲ谷、西ヲ東ト、茶湯ノ法ヲ破リ、自由セラレ」ることに見られた(『山上宗二記』)。下剋上を押し止めようとする側から見れば、価値を倒錯させ、法を破ることこそ、最も危険な思想だった。秀吉は下剋上の文化を圧殺すべく、利休を葬ったのである。それは明解な文化政策であった。
(茶の湯の歴史朝日選書P248)

附 記
井上靖には茶道の理念に関する論述が実に多い。文例をあげれば次のごとし。陀数寄(全2P742)一期一会(全23P450)一座建立(全23P426 716 934)西行と利休(全25P729)利休と親鸞(全25P686)茶室(全別365)きれい寂び(全23P719)エトセトラ。之に関連して大江健三郎に次のような一文がある。同感の士もあるだろう。

大江健三郎の感慨
禅宗の方向からやって来たもので、茶道の世界に活用されている言葉もまた、まことに多いようだ。実業家、政治家にはじまり、小説家も――たとえば故・井上靖のように――それをひんぱんに用いる人たちがいた。そしてそうした用法に接する場合も、僕はたいていそれらの言葉を前にして一息おくように考えてきたものだ。

そして正直、「一期一会」とか、それにつないで「一座建立」とかいわれると、まったく僕はゲンナリした。これらを素人考えで文字通りに、つまり根拠のない思い込みにそくして受けとめると、どうしても通俗的なものになってしまうのではないだろうか?集団見合いめたいテレヴィ番組で、アナウンサーが「一期一会」と重おもしくのべたてたり、僕の住む近くの新しく整地された地所に、「一座建立」という住建会社のビラが張られたりすると、もともと由緒正しかったはずのこれらの言葉がどうしてこのように落ちぶれてしまったのかと、傷ましい思いを誘われたことがある。
…………

野上弥生子『迷路』には、井伊家につながる人たちの肖像がある。さて、その文章は次のようだった。

《主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れバ、客も露地を出るに、高声に咄さず、静二あとみかへり出行バ、亭主は猶更のこと、客の見えざるまでも見送る也、……いかにも心静に茶席にもどり、此時にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきニ、もはや何方まで可被参哉、今日一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是一会極意の習なり、此時寂寞として、打語ふものとてハ、釜一口のみニシて、外ニ物なし、》

この客たちの去った後の主人の「独座観念」という具体的な感じ方、考え方さらには身体の動かし方に僕は共感して、それからお茶のことを話していられる先輩作家、評論家たちの脇で沈黙している時などには、この万延元年に暗殺された外交の責任者の文章を思うことがあった。
(ゆるやかな絆P192発願発心)

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