第五十八回 中野重治 ― 喫茶の習慣性(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

中野重治はプロレタリア文学の斗士であり、戦後の日本の民主主義を代表する文学者であった。批評家の視点にはさまざまなアングルがあるが、加藤周一は「彼は考えながら書き、書きながら考え、いくらか比喩的にいえば、その文章の中で思想と感覚を結びつけた。」と述べている。むずかしい文学論はさておき、重治にかかわる茶の話をならべてみる。小説「梨の花」は重治の幼少時代を描いた自伝的小説、多くの愛読者をもっている(岩文、読売文化賞)井伏鱒二も松下裕も文中のおばばの描写はかくべつ精彩にとんでいるとほめている。(月報2)、「梨の花」のテーマの一つはお茶の大好きなおばばとまだお茶の味の解らない孫との間の愛の物語りと言ってよいだろう。

梨の花
………

おばばはお茶ばかり飲む。大人は、なんであんな渋いものをよろこんで飲むのだろう。大きくなつた良平は茶ぶくろの「あかしもん」なんかにはもう興味がない。
「さ、あかしもん一つしようかな……」
「うん……」
「朝起きると、腹いつぱいまま食べて、繩で首くくつて、地獄の釜んなかへどぶうんと飛びこむもの、何じやろか。」
「茶ぶくろォ」
そんな「あかしもん」はこのごろもうやらない。しかしお茶だけはどうしてもわからない。

(全6P193)
(全3P389)

……………

―――――飲んで行けというお茶も飲まずに家を出た。だいたいこのお茶というのが良平は好きでない。なんで大人はあんなものをあれほど飲みたがるのか。死んだおばばもあればかし飲んでいた。なんぞというとお茶をのむ。あの「あかしもん」にさんざん出てきた茶ぶくろにしても、はじめ良平は、あれは初めからああいうまつ黒な茶いろの袋だと思つていたのだつた。あとで使いに行つたとき、買つてこいといわれた茶ぶくろを買おうとすると、店のものが薄黄いろい麻の小ぶくろを出してきたので品ちがいかと思つたほどだつた。そのお茶を、おつかさんがしきりに飲んで行けという。

「かたきの家へ行ってもお茶だけは飲むもんじやがいの。旅立ちにや、飲んでいくもんじやざ……」
「旅立ち」――――― 福井の学校へもどるのが何で「旅立ち」であるもんか。理窟はいい。うまくないのだから仕方がない。井戸水のほうがよつぽど良平にはいい。ついこのあいだも、良平は中学の前の図書館で『寄生木(やどりぎ)』という小説を読んだ。徳富蘆花の文章は学校教科書にものつている。それを読むと、なかにやはり良平という子供が出て来て良平はおもしろかつた。

「うらと同じ名の子供じやな……」

そこへおもしろいじいさんが出てきて良平(小説の良平)と話すところがある。そのおかしなじいさんが、人間は、大人になるとお茶と女が好きになるのだといつて小説のなかの良平に話してきかせる。良平、その小説のなかの良平はどうしてもそれを承知しない。その良平はお茶がどうしてもきらいなのだ。女も好きでない。そこが自分と全く同じなのが良平におもしろかつた。だれでも子供はお茶がきらいなのだ。好きでないのだ。そんなものは飲まんでいい。福井まで帰るのに何で飲む必要があるか。
(全6P366)

中野家のお茶
では中野家で日頃どのような茶を常用していたか、俄に断ずる訳にはゆかないが、茶ぶくろを煮出して飲むなどから判断すればむろん高級な茶を飲んだいたとは思えない。又重治は中学の教科書で川柳――「本ぶりになって出て行く雨やどり」を習い、そこではじめて川柳という言葉が茶の銘だけのものでない事を知ったと記している。(全22P603)これを見れば重治の少年時代はお茶の味に関心がなかった事がよく判る。然しあの時代は子供は容易に茶に馴染んでいないが、歳とともに日常の喫茶文化に溶けこんでゆく時代であった。後年重治がお茶好きを自覚自認するようになったのも突然変異なぞというものではない。

中野家の家柄格式
中野家は三町五反ほどの自作農兼小地主で、村の家の格としては「おおやけ」と言われていた。家の「いめ名」を「なかんち」といつた。
(月報2)

少年重治は水を好んだが、中野家は所謂る水呑百姓どころか、なかなかの名門であり井戸の水は茶の好きな近所のおばあさんが絶えず貰(もら)いに来ていた名水であった。
更に寺田透が次の如く述べている。これもつけ加えたい。
…………

しかしここでもまた『梨の花』に書かれていないことがあるのに気づく。それは中野家の墓地の太閤三昧(たいこうざんまい)のことだ。作品の途中で死ぬおばばは当然そこに埋葬されたのだろうが、その葬式の際、良平が見聞きし、その通りやりもした古風で鄙びた土下座で会葬者を見送る風習は、略描ながら記されるのに、その三昧が、遠い中野家の祖先が豊臣秀吉から拝領した年貢御免の、田圃の中の、小さい島のような一画で、だからその名を持つことは言わずにおかれる。
著者中野は、良平が村で特別の格式を持つ家の子であったことを、読者に印象づけたくないという内的要請にここでは従っているに違いない。……
(岩文解説)

小説の中のお茶
重治の小説の中に出てくるお茶には、日頃庶民の間で使われているもてなしや、挨拶代りといった趣のものはあるが、その香気や味をじっくり味わっている描写はさらに見当たらない。ましてお流儀のある茶や風流ぶった茶事など全く見当たらない。むろん小説の内容にもよるが、重治のお茶は無暗に威勢がよい。例えば「甲乙丙丁」などの小説に次のようなものがある。

・お茶飲むか(全3P72)
・お茶をがぶがぶ飲んで、しゃがれ声を続けている(全3P275)
・お茶をがぶがぶいわせて飲んで、お茶がみるみる汗になってきたので、ふところから手拭を引き出して、首すじを拭きながら(全1P381)
・まんず、まずよかったですねと言って出がらしをくれて(全3P187)
・おれには渋いのをくれよ、うんと渋いの、うんと濃いの、にがいやつ(全5P246)
・座のまんなかに置かれてあった大きな土瓶を手もとに引きよせ(全3P275)
などなど。

以上のようなディスカッションめいた話の中でもお茶さえ出てくれば読者はほっと一息つく。更に言えば、お茶坊主、茶坊主(全7P256)とか、茶滓についても「茶碗の底にも、茶の残りが、緑に線を描いたようにして残っている。(全7P476)など、なかなかに印象的な書きぶりのものもある。プロレタリア文学でもお茶の役割、効果は捨てたものではない。
忘春詩集に横浜南京町の詩がある。
さらに読む ↓

南京町
家家の石壇の上に
支那人の子供らむれつつ遊べり。
おはじきの硝子玉(ガラスだま)をならべ
おのれ異国(とつくに)の町にあることを知らず。
哀れを強(し)ふることなし。
われはとある料亭にのぼり
支那の食事をしたため
さびしき南京の茶を味ふ
(P249)

室生犀星との交友
重治が室生犀星をはじめて訪ねた時、重治は四高三年生二十一歳であった。その後の交際を通じ「……彼は文学上および人生観上の教師であったし、今でもそうである(教師としての室生犀星)」と書き犀星を師とする態度は終生かわらなかった。(附2松下)犀星のお茶好きは有名で尾鰭のついたような話もあるが、茶について重治が犀星から学んだ事は少なくない。成人してお茶好きになった重治は中国旅行に日本茶を携行している。日本茶の嗜好がどの程度であったかはっきりは解らないがそれが生活の必需品的な飲み物であったことは間違いない。そして屢々がぶ飲みしている有様も小説に書いた通りであろう。だが、がぶ飲みの反省の意味ででもあろうか、犀星の話を次のように記したところもある。

茶と菓子
室生犀星は胃潰瘍をやつたことがある。いつだつたかはしらべてわかるはずだ。そのころのある日、病気がよくなつてからだつたが、茶を飲むとき茶だけ飲まぬようにしろと彼が私にいつた。
奥さんもそばからいう。
「お茶は極上のでしよう。」お菓子は金沢のでしよう。ほんとに……」
つまり、室生犀星のような茶の飲み方をしていれば胃潰瘍になるのにきまつている……
私も、それはそうだろう、そうかも知れぬと思つて自分の茶の飲み方のことをふりかえつた。私はただ飲む。犀星のような上等の茶は飲まない。菓子も口にしない。ただ朝の起きぬけに飲む。酒盃のような小さい茶碗でなくて大振りので飲む。二はいも飲むと吐気のようなものが上(のぼ)つてくる。それでも飲む。いつか、これも茶好きの橋本英吉のところでこの話が出て、彼もやはり、吐気がくるのだが飲まずにいられぬのだといつて苦笑いした。
「君……」と犀星がいう、「がぶ飲みは駄目だよ。そのとき、煎餅(せんべい)を一枚噛むんだ。ビスケット二枚でもいいな。何か軽いものを、ちよつとつまむんだ……」
私は、今でもがぶ飲みしているが、ときどき思い出して犀星教訓にしたがつている。これはいいようだ。
(全17P413)

犀星の「ふる里は遠くにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの……」(抒情小曲集)は多くの人に知られているが、私達は「茶の花」(詩文集 高麗の花)のある事を忘れる訳にはゆかない。もっともこの詩については三好達治の項で取り上げたので再録をさけ、小品「安息日」を記してみる。そこでは、さりげなく茶をわかす愉しみを唄っている。

安息日
場末の屑屋(くづや)ばかりが住む
町の夕方をあるいて自分は平和になつた
実家の窓や軒には
それぞれの花の鉢も置かれ
すだれもかかつて
逞(たくま)しい夫婦等はみな肌ぬぎになり
小さい子供を食卓に坐らせ
愉しい講談本をよんだり
茶をわかしたりしてゐた
その妻子らの胸は太つてがつしりしてゐた
自分らにも増してこの平和な光景は
いたく自分を喜ばした(第二愛の詩集)

中国の旅とお茶
万人が書くように、汽車に乗ればたちまちに茶がくる。つぎつぎに湯をつぎにくる。その茶の袋にも外国文字ひとつ書いていない。
「茶(壱)袋 竜井
為提前完成五年計画而奮闘
大力開展先進生産者運動」
日本人だから漢字をひろつてはみるものの、イギリス人にしてもロシア人にしても何ともしようはあるまい。
(全23中国の旅P397)

(つづく)

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