第五十九回 中野重治 ―喫茶の習慣性(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

急須
私は日本茶がのみたくなつて、本多秋五と相談して列車員の尹燦文(いんさんふん)さんに急須のことを頼んでみた。尹さんは「列車員 広一〇一号」という布の札を上着につけている。手帳に署名をねがうと、「広州列車段 尹燦文 湖南岳陽県」と鉛筆で書いてくれたが、文字の立派なのにはどうしたところでたじたじとなるほかはない。尹さんは、鉛筆を毛筆のようにして立てて握つて、ちよつとしやがむようにして動揺する汽車のなかで書く。
撥(はねるところなども、毛筆のようにしてしゆうつとやるのだからこれにはかなわない。しかし急須のことだけは通じない。仕方なしに私が絵をかいて尹さんに見せた。尹さんが合点をして出て行く。しかしやはり手ぶらで帰つてきた。そして手帳を出せという。そしてそこへ「本次列車没有祥的茶壺」と書いてみせる。「祥」というのがよくわからない。字を読みちがえているのかも知れないが、急須のないことだけはよくわかつた。仕方がない。
「茶壺」というのもおもしろい。「祥」がわからなかつたせいか、私は李育中さんのくれた紙切れのことを思い出してポケツトから出してみたがやはり今度もわからない。
(全23中国の旅P412)

急須については司馬遼太郎の研究がある。
(全58P94)

日本茶の携行
いつたいこの急須は、それがほんとに急須なのか怪しい点もあつたが、私は北京でさがしまわつた末に偶然見つけて買つていた。茶の好きな私は、日本の茶を少しばかり持参していた。北京へ行く汽車のなかで、列車員の尹(いん)さんに頼んでみたが「茶壺」がなかつたことは前に書いた。
そこで「竜井」という茶などをいれる汽車そなえつけの茶壺で飲んでみたがうまくない。北京でとうとうこの急須をみつけてきて、それを飲んでみたけれどもやはりうまくない。水のせいだろう。そう思つてその後はやめにしていた。やめたのなら急須は要らぬだろう。背が高くつて邪魔で仕方がない。これを、カバンのふたを押しあげるほどなのに、成都から重慶までも持ちはこぶのか。

本多秋五の腕前
…………
そのとき本多が「お茶を一ぱい飲みますかね。」と言つた。本多はいかさま自信がありそうだつた。私は試しに頼むことにした。試しに――つまり私は、いくら本多にしてもとてもうまくは行くまいとぼんやり決めていたのだつた。

本多は鉢巻をした。原稿を書くときの、むしろ書こうとするときのいでたちで、撃剣をする人が面をかぶるときに頭に巻くようにして手ぬぐいで鉢巻をした。急須を温めた。そこへ茶の葉を入れた。別に茶碗で魔法瓶の湯をさました。そしてさめるのを辛抱づよく待つて、それからそれを急須に注(つ)いだ。それらすべてを、彼は彼特有の「やおら」というやり方でやつた。
彼はまたしばらく待つた。それから「やおら」それを茶碗に注いだ。そして「やおら」私の前へ茶碗を押した。私はおそるおそる口に含んだ。液体は全くの日本のお茶だつた。腕というのか心得というのか、私は本多秋五のその腕前に敬服した。
(全23中国の旅P486)

「やおら」の秘術は分りにくく神秘的でさえあるが、このような人物も数ある消費者の中に埋もれて実在するではないか。

不景気なお茶屋の茶壺
徳田政右衛門は高吉の親類だつた。もとは相当な百姓だつた。………そのころ政右衛門は百姓をやめて請負師をしていた。方々で耕地整理がはやつて仕事があつた。
しかし偉い請負師にもなれず金もたまらぬうちに田地はなくなつた。………
とうとう政右衛門夫婦は(そろそろ老夫婦だつたが)家屋敷を売つて東京へ出た。
老夫婦は亀戸(かめいど)天神前でお茶屋をはじめた。………
ある日高吉のところへその政右衛門が訪ねてきて、恐縮してる高吉の前へ手土産の海苔(のり)罐を出した。
「なんしろさ、朝起きてがらがらつと戸を開けたが最後二円四十銭出ちまうんだからねえ……泣いても笑うてもだ……」と彼は国なまりでいつた。商売はうまく行かぬ。震災のあと静岡へ直談判をしてだいぶやつたが、このごろはお茶壺もがらがらだ。
「しかしね、お茶屋のお茶壺つてもな中はつまつてないんだぜ。底の方にこれつぽちあれやいいのさ。こうやつて手でつかみ出しやいいんだから。ほほ……いいのも安いのも種類は揃えておかにやならんけどね……ほほ……」
(全2P139)小説の書けぬ小説家

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つめたい紅茶
………
さつきの老女がそこへ茶の盆を運んできた。安吉も沢田も茶碗を口へもつて行つた。「つまりあの程度のことで、連中はポピュラーだなんてことを受けとつてるのだナ……」と安吉が思つたとき、とつぜん沢田が、前後錯乱したような、ものを引き裂くような調子で――しかし決して口を大きくあけなかつた。――年取つた女へ叱りつけた。
「どうしたんだ、これ。つめたいじやないか。」
それは、恐ろしくつめたい。相手にさむ気をかぶせるといつた口調だつた。安吉は飲んでしまつていたが、なるほど紅茶は、湯気が立つていたがいくらかぬるくなつていたのだつた。
「失礼を、いたしました。」

背の高い、容貌の立派な年寄りは、そのままで深く深く頭をさげた。沢田はふるえていた。白い顔がいつそう白くなり、てんかんめいた発作でもがつづいて起るのではないかと思われるくらい目だけが光つていた。頭を深く深くさげた老女の姿は、奴隷的なままで威厳を持つていた。そのままで老女は出て行つた。悪夢のようなものから解放されてほつとした。
それは小さいなりに強い印象を安吉に残した。もともと沢田は、上流に育つた、ごく人のいい青年として安吉に映つていた。さめたお茶を持つてこられて、沢田がいきなり怒りだしたことはわからぬではない。ただ安吉には、沢田のやり方が、どなりつけるという調子でなかつたことで底気味わるかつた。大声でどなりつけられるほうが、叱られるほうとしては気がラクなのではないだろうか。口を大きくあけないで、肉を鋏で切るかするような調子でやられたのでは、年寄りとしてとてもたまつたものではなかろう。
(全5P156)

中村屋(新宿)の緑茶
……………
それから二、三年してからのある日、私はほかの人たちといつしよに新宿中村屋の二階へあがつて行つた。中村屋もすつかり変つていた。三十年まえ、私たちは四、五人ひとかたまりで中村屋へ茶を飲みに行つたものだつた。めいめい羊羹と茶を注文する。さつぱりした身なりの給仕の少年が羊羹を皿に入れて持つてくる。
茶碗を人数だけ、それから土瓶を持つてくる。茶は緑いろをしたほんとうの茶だ。土瓶の湯は、何ばいでもただでさしてくれる。こうして私たちは、羊羹ひときれの値段で一時間くらいもしやべつたのだつたが、そのときでも、そのちよつと前、ここの街路をエロシェンコが引きずられて行つた事実はそれほどに知つていなかつた。
ほんのちよつと前の事実だつた。淀橋署の刑事たちが、盲(めくら)で外国人のエロシェンコを足でつかまえて、浄水場まえの署まで文字どおり街路を引きずつて行つた。エロシェンコは、頭がごりごり街路でおどりながら引きずられて行つた。その淀橋署、そこの特高の部屋、そこの留置場を知つている私たちがそのことをそれほどには知つていないのだつた。
(全4P30)

熱すぎる湯と沢庵
「ほれ、あつち向いて……」
糠(ぬか)ぶくろで背なかをこすられると、いくら我慢してもフサの首が前へ出た。ごしごしやられるのといつしよに、それががくがくする。母親が邪慳(じゃけん)にするようにも思う。いちいち糠ぶくろを使つてくれるのが――それを母が聞かせるからだつたが、特別大事にしてくれる証拠のようにも思う。そんなある日、フサが1人で先きへはいつたことがあつた。まだ学校へはたしか行つていなかつた。すると湯が熱すぎた。うめようにも水が汲んでない。母は薪の客があつて、店のほうでまだ何かやつていた。フサは裸のまま台所へ出て行つて、ちようど俎板(まないた)の上に、洗つただけで置いてあつた沢庵を一本取つてもどつてきた。そして風呂桶に腹をもたせかけるようにして支えて、両手を使つてその沢庵で湯を力いつぱいかきまわした。

「フサ、何してるン……」

知らぬまに母がはいつてきていて、フサは説明できないままでさんざんにしかられた。飯のしまいにお茶をのむ。茶碗の茶が熱すぎる。するとフサは、丼からもうひと切れ沢庵を取つて、箸ではさんだままそれで茶碗のなかをかきまわした。すると茶がぬるくなる。だれか大人が教えてくれたのだつたろう。それを思い出して風呂桶をかきまわしたとは、なんと自分は小さくて、へんにおどけて、おちやつぴいだつたのだろう……
(全3P371)

 

土門拳のコオヒー
私が土門を知つたのは戦後のことだつた。あるとき彼が訪ねてきてくれて、私たちはリアリズムの問題などで、それは彼が持ちだしたのだつたが話したり議論したりした。しかし私は、リアリズムの話よりもコーヒーの話のほうをよく覚えている。そのころ私はコーヒーを持つていた。それをちよつと上等の品で、私たちはけちけちしてそれをいれて飲んでいた。近所に広津和郎さんがいて、これがコーヒー好きだものだから、コーヒーをいれるときには広津家へ連絡する。そして豆を焙烙(ほうらく)で炒(い)つて、はじめは荒く挽(ひ)いていたのをその時分はだんだん細かく挽くようになつていたが、砂糖は持参で来てもらう。そうして飲んでいた。その豆がまだ残つている。戦後間もなくのことで、珍しいお客に煎餅一枚ないのだから私はコーヒーを御馳走しようと思いついた。

「あんたはコーヒーを飲むか。」
「好んで飲む。」
「そんならいれよう。割りにうまいのがあるんだ。」

すると土門拳が、「それは待て……」といつた。私が怪訝(けげん)な顔をすると、あるいは不本意な顔をしたかも知れなかつたが、土門はこういつて私たちに説明した。
「わしはコーヒーにはやかましいので、せつかくいれてもらつても、気に入らぬとわるいからいれずにおいてくれ……」
私は、これは然(しか)るべき侍(さむらい)だと思つた。またこれなら末ながくつき合えるだろうと思つた。そして今日に及んでいる。

中野重治は子供の頃、お茶なぞ見向きもしなかったのに、大人になってひとっぱしのお茶通を自認している。この自覚は他のお茶好き文学者同様海外旅行の際に最も強烈に確認されるらしい。料理研究家、作家の開高健夫人牧羊子と石川達三の文章をあげてみる。

 

冬の夜のお茶
日本を離れても食べるものでは少しも困らない。大いに順応性があって、訪ねた国の自慢料理に舌づつみをうつ。むしろそれを愉しみで出かけるようなものだ。
ところが飲みものについてだけはいつまでたっても馴染めない。日を重ねるほどに日本のお茶が恋しくなる。
………
なにもかもがくどくて逃げだしたくなるとエビアン(ミネラル・ウォーター)を味気なくノドに流し込むほかないときほど、日本のお茶がありがたくおもえたことはなかった。
子どものころはせいぜい玄米茶か焙茶どまりであった。大人はどうしてあんなに渋くて苦いものを、ニコニコしながら、何杯もおかわりをしてまで飲むのが好きなのだろう。いぶかりながら大人になった日本人はいつか抹茶や玉露や煎茶から離れられなくなっている。
わが家の食品棚に残してきた抹茶、玉露、煎茶、玄米茶、焙茶の茶筒がちらちら目さきにちらついて、このときばかりは郷愁にかられる。(味P233)

 

石川達三
日毎に何かしら一杯の茶を飲む。日本の茶は手加減がむつかしくて雇い人がいれたのでは旨くない。自分の茶は妻の茶でなくては駄目だ。抹茶を飲む日もある。私は外国旅行の時には必ず新茶を持って行った。外国の味覚に疲れた時に一杯の茶を飲む。何かしら、自分を取り戻したような気がする。コップに茶葉と湯を入れてしばらくして飲む。それだけで五臓六腑が何かしら満足するのだ。それが日本人の証拠であろうか。(日記)

これらの文学者の感慨は茶が米食主体であり、おもてなし文化の役割りを果していた時代のこと。言わば感慨そのものが、昔の習俗の申し子と言ってもよい。確かに飲食物の習慣性には意識せざる強い力があった。その意味では現在の学校給食にともなう緑茶の供与は大きな意味がある。

だが昨今、日本では家庭でも外食でも急激な欧風化が見られるようになった。その為、日本の茶もその本質である味や香気に一層強いインパクトが求められているのではないか。これはもとより緑茶製造の原点にかかわる問題、俄に軽々しく論ずる訳にはいかないが、忘れていけないのは緑茶の価値の原点は消費者の嗜好にあることだ。

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