第六十二回 司馬遼太郎 -モンゴルの茶(1)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

司馬史観で有名な司馬遼太郎はその強烈な筆力で大衆の人気を博した。「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」「街道をゆく」等が代表作。彼はなかなかの読書家。井上ひさしが写真読みと評したくらいの速読力と記憶力がある。茶についてもさまざまな博識ぶりを披露している。そのいくつかを取上げてみる。最初は御存知「竜馬がゆく」の中の上喜撰と「大浦のお慶」。文化勲章受賞(一九二三~一九九六)

たった四はいのじようきせん

四隻の黒船がにわかに浦賀沖で抜錨(ばつびょう)し江戸にむかって突進しはじめたのは、あとでわかったことだが、測量のためだった。
ところが、当時はわからない。
幕閣をはじめ、沿岸の諸藩の警備陣、さらに江戸市民は肝のつぶれるほどにおどろき、避難さわぎがおこった。

しかし黒船どもの真意は、たんに測量だけでもなかった。品川の見えるあたりまで近づき、日本人をおどすためにごう然と艦載砲をうち放ったのである。もはや、外交ではない。恫喝(どうかつ)であった。ペリーはよほど日本人をなめていたのだろう。
この品川沖の数発の砲声ほど、日本歴史を変えたものはない。
幕閣がふるえあがって開国へ徐々にふみきる決意をしたのはこのときだし、全国に、猛然と志士が立ちあがって、開国反対、外国人うちはらうべし、の攘夷論が、黒煙りのごとく天下をおおいはじめたのは、このときからであった。同時に、近代日本の出発も、この艦載砲が、火を吐いた瞬間からであるといっていい。

泰平のねむりをさますじやうきせん
たつた四はいで夜もねられず

 
当時こういう落書が、何人(なにびと)の手によるものか、江戸の市中にはりだされた。上喜撰(じょうきせん)というのは上質の銘茶で、これを蒸気船にかけ、たった四はいのんだだけで上も下も夜もねむれずに昴奮していることを皮肉った。
おそらくこの黒船の様子にいちばんおどろいたのは、つい眼と鼻の浦賀村小原台のガケの上にいた竜馬と十人の井伊侍だろう。
「いかん、戦さじゃ」
井伊侍は、竜馬の存在などはすっかり忘れて、自分たちの持ち場へ帰るためにちりぢりになって山を駆けおりた。
竜馬も走った。       (全三P71)

この狂歌は昔の小学校の教科書にあった。落書には「日本を茶にして来たか蒸気船たった四はいで夜中寝られず」もある。

狂歌に関連聨して、吉村昭は次の如く述べている。一つの見識か。

 

だからいまもってね、幕府に人材はなかったとか、ペリーが来航したときに幕府は大慌てに慌てたとかね。教科書にも歴史書にもみんなそう書いてあるんですよ。勝者が歴史を作っている。だけど幕府はやっぱり賢明ですよ。オランダから毎年『オランダ風説書』つまり世界情勢を年一回長崎に入港するオランダ船に託してもたらすようにオランダに要請しているわけでね。それに基づいてオランダ船のほうも、世界情勢を記したものを報告して、それを長崎で『オランダ風説書』っていうのに翻訳して、幕府へ急送しているわけです。
それによると、ペリーが来航した前年に、アメリカの議会で、来年ペリーを大将にして、四隻の船で日本へ遠征するということを決議したって書いてある。記録にあるんですよ、ちゃんと。そういうものを得ているから、幕府はいつ来るかと思って待ってたわけですよ。慌てちゃいないんですよ。やはり来たなっていう感じなんですよねえ。

だから、そういう戦前の歴史観っていうものが、違うんですよ。…………
………いままでの幕末明治維新っていうのは、西南雄藩の武力っていうことだけがクローズアップされてる。それは確かにその通りなんだ、武力的には。だけど、外圧に対して国を支えてたのは、幕府の老中と幕吏なんですよ。これをうまくやったもんだから、植民地化されないですんだんですね。それでそのまますうっと行ったんです。ですから明治維新になってからも、この新政府の機構改革ですか、それに携わるのも、みんな幕吏ですもの。上は伊藤博文とか、ああいう人は大臣になっていって、それ支えてるのはみんな幕吏なんですよ。だからね、そういう面で見ていって、私は幕末の見方っていうのは、老中と幕吏の偉さを知って開眼しましたよ。
(平23年9月 文春増刊 吉村昭が伝えたかったこと)

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大浦のお慶
竜馬は
(えらい女だ)
とおもったのは、長州勤王党の始祖となった故吉田松陰とおもいあわせたのである。
むろん松陰とお慶とでは動機がちがう。一人は行動的思想家であり、一人は投機商人である。しかし命をはった冒険精神という点ではすこしもかわらない。
松陰は刑死し、お慶は生きるを得た。
………
鎖国下では、幕府がオランダと清国に対してのみ、ほそぼそと官営貿易をしていた。
が、お慶の行動力の前には、そういう国禁は痛くも痒(かゆ)くもなかった。
肥前(長崎県・佐賀県)に嬉野(うれしの)という、茶の産地がある。
(日本茶はどうだろう)
と思い、テキストルに話すと、
「ヨーロッパ人がそれを好むかどうか、市場調査をしてみなければわからない」
といった。

お慶はその市場調査のために上海へ密航することを計画した。むろん見つかればハリツケの極刑に処せられる。
お慶は長崎の清国人にたのみ、輸出用の椎茸(しいたけ)の荷箱に身をひそめ、ジャンクに乗って上海への密航を敢行し、しかも成功した。
お慶が上海へ密航した嘉永六年まだ二十四、五歳のこの女は、時勢の将来を見ぬいていた。
(きっと異人と貿易できるようになる)
はたして幕府は、欧米列強に対しいくつかの港をひらいた。
嘉永六年から三年目の安政三年、上海から英国商人でオールトという人物が大浦町のお慶の家にたずねてきて、「あなたの見本が、まわりまわって私の手に入った。ぜひその肥前嬉野の茶を買いたい」
と、お慶でさえびっくりするほどに巨額な注文をした。
お慶はさっそく産地へとんで行ったが、嬉野の茶といってもせいぜい九州一円を相手にしている程度の生産額で注文の一パーセントも供給できない。お慶は大あわてで各地に番頭を走らせ、やっと一万斤をかきあつめて輸出した。
その後さらに産地を激励し、生産額をあげさせてどんどん輸出し、いまなお輸出をつづけ、巨満の富をきずいた。
(松陰もえらいが、お慶もえらい)
と、竜馬は感心している。

茶業史に描かれたお慶
…………
日本人がみずからの知恵と力で日本茶を外国に売ろうとしたいわば本来的な意味での日本茶貿易は、この大浦慶のこころみをもって嚆矢とする。
…………
大浦慶は茶商として有名だっただけでなく、幕末に活躍したいわゆる勤王の志士の厚い庇護者でもあったという。大浦家は二階建てで、下が製茶場になっていたが、二階には志士たちがたえずかくまわれていたといい、一説によれば大浦家にはそのために地下室まで設けられていたということである。
…………
亡くなったときには、農商務卿から「婦女の身を以て率先製茶の外輸をはかる、その労特にいちじるし」と褒賞をさずけられ、金二〇円を下賜されている。
…………

ところで、この大浦慶の話のなかで注目すべきことは、大量の注文という願ってもないイギリス人の申し出だったのに、彼女がそれに応じきれなかったという点である。彼女の茶商としての実力が弱かったのでないことは、現に彼女が九州中から一万斤の茶を調達していることからも推察できる。とすれば、このことは、当時における日本茶の生産額がまだまだ低かったことを暗黙のうちに語るものにほかならぬのではあるまいか。
幕末において日本茶の主要な産地と見られるものは、山城・近江・伊勢・美濃・遠江・駿河などの各地であった。が、これらの諸国でも宇治や近江を除外すると、茶園が多く作られるようになったのは、一九世紀初頭――文化・文政年間以後のことであるらしい。開港後すばらしい発展を見せて日本最大の茶産地となった駿河・遠江においても、開港以前から茶園が作られていたのはわずかに榛原郡川根地方と安倍郡北部の諸村だけであった。他の地方はいずれも開港後あるいは維新後に開発されたもので、それ以前は田畑の周囲にすこしばかり植えられた茶樹から、自家用の茶を製造しているにすぎなかった。
(日本茶輸出百年史)

北条早雲と茶
「宗瑞どのは、地頭ではないか」
と、北川殿はからかう。(北川は今川氏親の妻)
さらにいえば、駿河は茶どころなのである。
茶の木の栽培には、適地がすくない。
茶は、鎌倉のころ、栄西(えいさい)という禅僧が宋からもたらしたといわれる。ただし駿河の場合は栄西ではなく、この国の出身である弁円(べんえん)(聖一(しょういつ)国師)という僧が、宋から種子をもちかえり、安倍郡の足窪(あしくぼ)という地にまいて育てたという。
早雲も、領内で茶の栽培をすすめている。製茶して、小川の長者法栄に売るのである。法栄はそれを都へ売る。
「駿府でも鳴りひびくような評判じゃ、宋瑞どののご領内は、租税(ねんぐ)がやすいそうな」
「やすうござる」
「だから、地頭殿が茶ものめぬのであろう」
と、北川殿はからかう。
あまりにからかわれると、腹が立つ。
「むかし、京にいるころは、ひとにふるまわれてのんでおりました。一生の贅沢には、分があるそうじゃ。わが分は、京にいるころに尽き申した」
早雲は、遠い駿東の地にいながら、しばしば駿府にゆき、北川殿を見舞った。
「食がすすまぬ」
と、北川殿はたえずいった。このため、新鮮な魚介のほかに、夏は氷室(ひむろ)の氷、山もも、秋は橘(たちばな)の実、あけび、山ぶどう、冬は肉のたっぷりした干柿などを持って行った。
「宗瑞どのは、やまがつ(きこりなど)か」
と、北川殿はからかった。北川殿のもとには、見舞いのために珍物をとどける者が多く、黒砂糖や明の点心(てんじん)など、都の貴族でも目を見はるような品々もあった。逆に病人のほうが早雲をもてなして茶をたて、到来物の菓子を出したりした。早雲は、菓子には手を出さず、茶も一服だけのむ。
「宗瑞どのの一服茶」
といって、北川殿はわらった。
早雲が平素茶をのまず、その家来にも喫茶の贅沢を禁じていることを北川殿はよく知っている。早雲も家来たちも、鍋底のめしのこげをこそげて、それへ湯をそそいでのむ。都でも堺や博多でも茶の湯とよばれるサロン化した喫茶の風(ふう)がはやっていて、貴族や有徳人(うとくじん)というと、北川殿は真顔になり、わがために駿河にくだりはしたものの、宗瑞どのにとって仕合わせであったかどうか、といったりした。彼女は早雲をそのようにとらえている。京で「つくりの鞍」をつくり、ときに連歌の席や茶の湯に招(よ)ばれてたのしく送る生涯が、早雲に似つかわしかったかとつい悔まれてしまう。
(全51P410)

………
このために、奇道でもって、一挙におとす。
籠坂峠では、好天がつづいている。富士も早雲も天の青さで染まるような午後、林間に幕を張り、早雲は手ずから茶を煮た。茶道といわれほどの道具も所作もまだ成立していないころで、ただ茶を飲む。
茶についても、早雲自身、野生化している茶の木をみつけ、数枝を折り、焚火(たきび)にじかであぶって、いきなり煮えたつ茶釜に入れただけのものである。それを、ひしゃくでもって茶わんにそそぐ。茶わんだけが、唐物(とうぶつ)であった。塗りの椀ではどうも茶に適(あ)わないのである。もっとも、その茶わんも一個しかない。
菓子はある。餅に甘味をつけたものである。
「茶をふるまおう」という名目で、早雲は慢幕(まんまく)のなかに大道寺太郎ら駿河入り以来の同志六人をあつめた。車座になったかれらに、ただ一個の茶わんを順次まわした。
「わしは、坂を越えて小田原に入る」

(全51P576坂を越ゆ)

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