第六十三回 司馬遼太郎 ―モンゴルの茶(2)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

茶の湯と南蛮
裏千家の一族で、茶道研究家だった井口海仙氏は、おもしろい推論を持ち出された。
―― お茶で、袱紗捌(ふくさばき)というのがあるでしょう。あれは中国の秘密結社(帮バン)の相互認識のあいずからとった所作だと思うんです。

茶でつかう袱紗はいうまでもなく、“なつめ”など乾いた道具の塵(ちり)をぬぐうための布である。その袱紗のあつかい方やぬぐう動作に法があって、私のような無器用者にはとてもまねができない。

中世末期の堺の港にはむろん中国船も入ってくる。その乗組員や、船客のなかには何らかの秘密結社に属する人間が当然いたろう。かりに張三という結社員が、堺で出遇った李四という男を同じ結社員らしいと思ったとき、李四の前でさりげなく布をとりだし、特有の所作をする。李四がそうである場合、かれもそういう布さばきをして応ずる。そんなふしぎな光景を見ていた堺衆(さかいしゅう)のたれかが、結社のことも所作の意味もわからぬまま、あの所作はおもしろいではないか、ということで茶にとり入れたのだ、というのが、海仙説である。まことに秀抜な観点。ただこの説に一つ欠点があるのは、十五、十六世紀の中国に秘密結社があったということがあきらかでないことである。中国の秘密結社が青帮(チンパン)ではじまるとすれば、その出現は清(しん)初(江戸期)である。紅帮(ホンバン)はぐっとくだって清末になる。青帮以前に、そういう質と形をもった秘密結社が中国に存在しなかった、というのは言いすぎであるにしても、史料も伝承もない。

しかし海仙説は捨てがたい。
私が、この海仙説を林屋さんに紹介すると、
「私は、キリシタンの司祭がミサをするときの所作をとったものだと思いますよ」
と、警抜な意見をのべられた。

その後、茶をやっていて、かつカトリック信者である人に、ミサのときの司祭さんの動作を、お手前(てまえ)を見るつもりで、見ていただいたところ、どうも林屋永吉説が正しいと思わざるをえなくなった。
ただ、海仙説では袱紗ということになっていたが、茶巾(ちゃきん)のほうが、両者の動作比較としてわかりやすい。

司祭はミサのとき、白麻製の茶巾そっくりのものをもって、茶人が特定の所作で茶盌を茶巾でぬぐうように、ほとんど同じ所作でもって金属製の聖杯をぬぐう。ミサの場合、拭ったあと、キリストの血というぶどう酒が注(つ)がれるのだが、茶でも清浄とされるものがそそがれる。湯であり、茶である。

以上、井口海仙説であれ、林屋永吉説であれ、いずれも大航海時代の潮しぶきのなかから出てきた影響としていることでは変りがない。(全59P303)

林屋永吉(元駐スペイン大使)の談話
………
司馬さんが、マドリッドで私を訪ねてきて下さったのは、今からもう十七年も前、一九八二年の秋のことだった。……
そして話が、南蛮は何を日本に残したかということになった時、その一つには茶の湯の作法にカトリックの聖餐式(ミサ)の影響があるような気がします、と述べたところ、司馬さんはそれをきくや否や、身体を乗り出すようにして、「それは面白いなあ」と直ちに賛成された。そして後日送って下さった週刊朝日の記事では、この話に可成のスペースが割かれていた。

私は、教会で初めてミサを見た時以来感じていたことを、大した証拠もなかったが、思うまま述べただけなのに、大作家から、その有名な紀行文に「説」という字まで付して紹介されたのには大いに恐縮した。そしてその責任をも感じ、帰国してからいろんな文献に当ってみたが、この「説」を裏づけるような資料はなかなか見つからない。しかしその一方で、茶の湯の席に出る度に、この「説」は当っているに違いないという思いが深まるばかりであった。その内に、あの薄茶の席によく供せられる、麩焼の小さな丸い煎餅も、ミサの時に信者の頂く御聖体(ホスティア)そっくりではないか、しかもそれをお茶を飲む前に喰べる、というのも……などと思うようになった。

そんな時、丁度読み返していたフロイス神父(一五六三年来日、一五九七年歿)の『日本史』の中で、彼が二度目に京の都へ入って、一信者の家に泊った時の次のような記事を見出した。永禄一三年(一五七〇年)三月のことである。
「主人は自分が満足して喜んでいることを示そうとして(私を)茶の湯の部屋に泊らせた。茶室はその場が清浄であるために、人々に地上の安らぎを与えるので、キリシタンたちも異教徒たちもその場を大いに尊重しているのである。(私は)そこでミサ聖祭を捧げ、キリシタンたちはそこに集った」(フロイス『日本史』第一部、八五章 松田毅一、川崎桃太訳)

これはわが「説」の状況証拠に使えそうだ。堺の納屋衆や都の豪商が、宣教師達の九州からの上京を援助し、その屋敷にも泊めていたことは知っていた。しかし彼らが茶室に泊り、その茶室で信者を集めてミサをとり行っていた、と迄は知らなかった。この話を司馬さんにすれば、きっと又身を乗り出して、「それはほんまに面白いねえ」と喜んで下さるに違いない。(全59月報)
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漱石の『坊ちゃん』の中の天目
…………
温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。其上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へ這入(はひ)った。すると四十円の月給で毎日上等へ這入るのは贅沢だと云ひ出した。余計な御世話だ。
「女が天目へ茶を載せて出す」
響きのいいことばではないか。

ただ、漱石のこの場合での天目とは何なのだろう。本来、天目は茶碗の汎称である。直訳すれば、「茶碗(天目)に茶を“載せて”出す」になってしまい、いくら無鉄砲者の主人公の語調でも、ちょっとおかしい。
漱石のいう「天目」は、茶碗を載せる台のようである。
煎茶の道具に、煎茶茶碗をのせる台として「托子(たくし)」がある。茶托ともいう。もし出された「茶」が「煎茶」なら漱石のいう天目は茶托になる。

いずれにしても、田舎の仰々しさを主人公はからかうかのようである。
明治の文明開化は、東京を中心に勃興した。東京という“機構”そのものが、欧米の思想や施設、あるいは文物を輸入して地方にくばる巨大な配電盤だった。
漱石は、それを背負っている。作中の主人公も背負っている。この意識からみると、伊予の松山などは未開国に見える。それがこの時代の意識の構造だったわけで、『坊ちゃん』は、そのような二つの価値意識の落差を書いているのである。

「文化」には、当然、伝統文化がふくまれる。となれば伊予松山は江戸二百七十年の武家文化の滲(し)みこんだ代表的な旧城下町で、そういう厚味では東京うまれの漱石はとてもかなわないにちがいない。しかし明治期は、旧文化の蓄積そのものを卑陋(ひろう)で無価値とした。『坊ちゃん』の主人公は、配電盤である。
「東京」に加えて、物理学校で仕込んだ新学問を背負ってやってきている。だから、武家文化そのもののお行儀のよさで、女が茶托に茶碗をのせて出すことさえ、田舎くさく、旧弊で、わるくいえば古女郎の厚化粧のように思えたのかもしれない。
ただ、漱石のいう「天目」が、
「天目台」
のことなら、この情景はいっそうくっきりしてくる。天目の茶碗をつかう場合「天目台」という漆(うるし)ぬりの台にのせねばならない。となると、抹茶が出たことになる。松山は文明開化の価値観からみれば「田舎」とはいえ、伝統文化からいえば大そうな深味をもつ町ということになる。たかが公衆浴場で、天目台にのせた天目茶碗がつかわれているのである。 (全58P450風のみち)

私は茶のお点前については何も知らない。このあたりのことをその道の人にきくと、
「天目のお点前などは、それを習ってもふつう一生使うことはありませんな。神仏に献茶をするときに天目茶碗を天目台に載せて献ずるのです」
天目が、恩師の頂相(ちんぞう)への献茶のための茶碗だったから、そのまま神仏用のほうへ上昇してしまうのは当然だったろう。とくに江戸初期からそうなってきたらしい。
神仏でなくても、貴人(きじん)にもつかう。茶道では貴人(きにん)といい、天目茶碗・天目台をつかう点前を「貴人点」(きにんだて)という。かつて浙江省でつかわれた福建製の茶器は、たいそうなものになってしまったのである。
「貴人というのは、どの程度の人でしょう」
ときくと、
「従三位(じゅさんみ)以上ですかな。流儀によって解釈はちがいますがな」
従三位以上というのは、公卿(くぎょう)である。流儀によっては従三位よりもすこし下の人にも使われる。その場合、天目茶碗や天目台の色・形のちがったものがつかわれるそうだ。また流儀によっては、とくべつな貴人に対する貴人点の場合、天目台は塗りでなく白い木地(きじ)のままのものが用いられる。
ここで『坊ちゃん』の前掲のくだりが、もし「天目“台”へ茶を載せて」なら(おそらくそうだろう)滑稽味はほとんど爆発的になる。主人公は、わずか八銭の入湯料で毎日従三位かなにかの貴人の礼遇をうけていたのである。
「女が天目へ茶を載せて出す」
旧城下町の松山ならではと思えるし、同時にその古風な厚ぼったさが、「丸の内で午砲(どん)」をきいて育った主人公には、こそばゆくおもえるのである。

(つづく)

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