第六十四回 司馬 遼太郎 ――― モンゴルの茶(3)

株式会社かねも 相談役 角替茂二

御坊主
江戸・明治の悪漢物語の主人公のひとりである河内山宗春(宗俊)は、頭をまるめている。
しかし、お経はよまず、僧でもない。幕府の御家人としてふだんは大小を帯び、分類すればむろん武士階級に属する。

「御坊主」
と、正式によばれるのは単に頭を剃っていたからである。
このように頭の丸い世襲の吏員が、将軍の江戸城にも諸藩にも、すくなからずいた。
江戸城では、城内のお数寄屋に詰めて茶道を司っている御坊主衆のことを、″茶同朋″といったり、″茶坊主″といったりした。

茶坊主といえば世間では蔑称だが、お役目となると厳格なもので、古今・新古今を諳じ、歌学に通じ、茶道に堪能な上に、道具のめききがたしかでなければならなかった。余暇には諸大名に茶を教えていたから、副収入が多かったらしい。
江戸城における頭のまるい職には、上下二通りあって、上位は同朋、下位は坊主といった。同朋・坊主の職種はさまざまだった。
主として給仕のしごとである。文書を運んだり、部屋や廊下の掃除をしたりする。
(66巻御坊主P411)

司馬の茶の研究はなかなかシャープでディープ。特に中国海南のみち(全58)には茶の歴史、種類、栽培等さまざまな着想がある。

中国の茶
私はこんどの中国ゆきでは、とくに杭州湾沿岸地方の茶について考えるつもりでいた。室町以後、こんにちにいたるまでの日本の茶は、杭州湾沿岸地方の茶が、中国のどの地方の茶よりも関係がふかいのではないかと思ったのである。

私は西湖のほとりの西泠賓館を出て、郊外の竜井茶の茶畑へゆこうとしている。この日、行動すべきことは、それだけであった。
茶の木は、遠い時代、漢民族の居住圏には存在しなかった。
茶の木の原産地は、中国の領内においては、ふつう雲南省とされる。

ただし、当時、中原では茶は薬とされ、値もまことに貴かった。華北では茶の木が育たないため、はるか、雲南や蜀の山中に住む少数民族から商人がそれをもとめ、とほうもないエネルギーをつかって中原へ運んだ。
唐代になると、陸羽の『茶経』が著されるほどに飲茶の風はひろまったが、これは茶が安くなったことをあらわしている。安くなったというのは、中国の他の暖地で適地を求めて栽培されはじめたことでもある。製茶も、発展した。『茶経』にかかれている製茶の方法は、すでに高度なものである。
茶は、中国文明をよく象徴している。古代の鉄および製鉄も「蛮族」がそれを持っていたように、茶もまた「蛮族」から出て、漢民族によって高度に技術化され、普遍的なものになってゆくのである。
………
日本には、唐から奈良朝のころにいったん伝わるが、本格化するのは、鎌倉期、入宋僧栄西(一一四一~一二一五)が種子を持って帰国してからである。
(全58P83)(中国江南のみち)

茶畑の中で
江南は日本に似て水っ気の多い土地だが、中国のほとんどは乾いている。
とくに砂漠や草原の多い辺境へゆくと、茶を飲みつづけていなければ、内臓の細胞までが乾きあがってしまいそうな気がする。中国における飲茶の風は、日本のように、娯しみというようなものではない。

華北の北京あたりでもそうである。どの家や施設を訪ねても、まず皮袋の湿潤をとりもどせ、といわんばかりに大きな湯飲みに茶を満たしてくれる。飲むと、主人側は大きな魔法瓶を傾けて注ぎ足してくれるために、長居すれば三合ほども飲むことが多い。
日本の気候は湿っているために、ついうっかりさほどの水分も摂らずに一日をすごすことがあるが、中国でその流儀でいると、ときに水分不足におち入って熱が出たりする。
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モンゴルの茶
内蒙古や青海、新疆その他の辺境の乾燥地帯に住む非漢民族にとっては、茶は、生命維持の必需品のようにあつかわれてきた。
モンゴル人に例をとると、かれらの食事は肉食と乳で、野菜をほとんど摂らないため、壊血病(ヴィタミンCの欠乏症)になるおそれがある。このため、茶をさかんに飲む。飲み方は、漢民族のやり方とまったく異る。茶を乳にまぜたり、また羊肉や乳を煮あげる鍋の中に入れてともに煮るのである。

葉状の茶は用いない。モンゴルで、
「チャ」
といえば、レンガ状に圧搾した固形のもののみをさす。漢民族が、磚茶とか団茶とかよんでいるものである。これを鰹節のようにナイフで削って粉状にして動物性の食物とともに煮る。

茶はすべて漢民族地帯からやってきて、交易でもとめてきたのだが、茶のなかった紀元前の匈奴時代は、かれらは何によって壊血病をふせいできたのか、いつも疑問に思うのだだが、どうにもわからない。
かれらがその生活のなかに茶を導入したのは、いつであるのかもわからない。しかしながらひとたび食生活に入ってからは、抜きがたいものになった。

二十世紀初頭は、いまのモンゴル人民共和国(当時の外蒙)は、庫倫(いまの首都ウランバートル)に本拠をかまえる漢人の商人の悪辣なやり方のために、遊牧民が羊や牛馬をうしない、もっとも窮迫した時代だった。やがてかれらが、革命早々のロシアの救援をたのみ、高利貸し化した漢商が追っぱらわれさえすればいいという実利的願望から人民共和国が樹立されたことは、よく知られている。このことは、結局、ソ連の利益になった。このモンゴル革命の前は、牛馬や羊ももたずに草原をさまようルンペン化した遊牧民も出たほどにひどかった。

当時の漢商が、遊牧民を搾ってゆくてこは茶であった。わずかなレンガ茶(磚茶)を買うために、命からつぎに大切なはずの羊を何頭も手放すという例が多かったという。
中国領として残った内蒙古(蒙疆)では、新中国の成立まで、レンガ茶が貴重なあまり貨幣のかわりに使われた。かれらは市に行って、レンガ茶でもって他の物品を買ったりする場合が多かったといわれる。

この状況を裏返していえば、剽悍な遊牧民が茶を必要とするようになって、漢民族に対して軟弱になったともいえるであろう。茶は、漢民族によるルート以外に入手できず、それを断たれれば、食生活の基本条件の一つが欠けてしまうことになる。(全58P90)(中国江南のみち)
尚、モンゴルの歴史についてブルジ、エヴァリスキのことばを引用しながら、どうして、中国茶がモンゴルに入ってきたかを詳述している。
又、司馬は匈奴の時代いかにして壊血病を防いだか分からないとしている。むろんその通りではあろうが、この点井上靖の西域物には次の如くある。

西夏、宋両国の間に一時的ではあったが和が成立したのは、慶暦三年(西紀一〇四三年)の正月であった。沙州が西夏に占領されてから六年目である。宋も西夏も共に数年に亙って打ち続いた合戦に依って各自兵力を損傷し、それぞれ国帑の欠如を招き、双方共に講話しなければならぬ状態に追い込まれていた。この講話には多少の悶着があった。季元昊は王号を称したままの講話を主張したが、宋は諾かなかった。宋は元昊が自らを臣と称することと、宋の使者を契丹国のそれと同様に遇することとを要求し、その代わり毎年絹十万匹と茶三万斤を賜与するという条件を出した。折衝が何回も繰り返された挙句、元昊は形式上宋に臣属することを承諾して、その代わり絹や茶の歳賜の量を倍にすることを要求した。季元昊は、空名を捨てて実の方を取ったのであった。
(井上全12巻P414敦煌)

モンゴルはウランや石炭など地下資源で国の経済が見直されていると言う。日本の角界では白鵬や日馬富士などの力士の活躍は素晴らしく、異国人の感じがしない。司馬史観の筆誅めいた文章を読むと、内豪古もモンゴル共和国も実情不案内にも拘わらず、日本の茶が正常な形で輸出されればよいと思う。またしても余計な話だが塩野七生は次の如く述べている。
…………
これからは、二国間の条約なり協定なりの時代になりそうな気がする。
ただし、二国間協議と言っても、得点につなげたければ条件はある。
第一は、その気になっている国を相手にすることだ。テレビでモンゴルの大統領のインタビューを見た後は、中国やロシアよりもモンゴルが先だ、と思わせたのだった。この場合の副産物は、モンゴルと日本がうまく行き始めると、中国やロシアの日本を見る眼も変わってくるということにある。

第二は、やるとなったら一気に進める覚悟である。様子を見ながら進めるのでは、相手国に対して失礼であり、外交であろうと何であろうと、礼儀を忘れては得点にもつながらなくなる。
(文春二〇〇一・一月)
 司馬語録
 朝日選書に司馬遼太郎「旅のことば」がある。中に「審美のまなざし」のみだしで茶事に触れている。

・武生でべつに取りすましたところのないただの町のそばやながら、土間の腰掛、卓子、柱、壁など、すべてすべて落ちついた渋味があり、土間にさしこんでいる明かりまでがやわらかくて、ただごとでない思いがした。
私は、日本料理は茶湯から出てやがて不即不離の関係をもちつつ発達したと思っているが、土間に腰をおろしながら、客を落ちつかせるこの秩序は、よほどその道にふかい人が亭主なのだろうと思ったりした。
(P88)(司馬全集58P173)

・そういえば、日本の茶道わびや寂びも、単にあばらやではその美が成立せず、そこに千金の駒が繋がれてこそ、賤が苫家も茶道の世界に入りうる。
(P89)(司馬全集58P133)
・然し緑茶の嗜好についての記述は眼につかない。司馬研究家の和田宏は「余談の余談」の中で、司馬の味覚と聴覚と視覚について書いている。ふと気がつくとあれだけ長い「竜馬がゆく」の文章に味覚の話が殆んどないことを記す。 (週朝日二〇一〇・五・二一)

・全集六十八巻中 茶について興味ある文章
信長と堺と茶 (街道を往く堺 紀州鉄道P378)
割って城を―古田織部(全29P327)
急須の話(全58P94)
竜井茶(全58P105)
茶における中国と日本(全58P101)
茶飯について(全58P58)
細川三斉忠興の石燈籠(全62P394)
熊野古座街道(全49P240水の話)
香草の山(全48P263河内みち)
太仙院の三福茶(全62P380)

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