茶園と由来
掛川城の瓦を使用した門

旧掛川城は1854年安政の大地震で倒壊大破し、その後復興しましたが、明治維新に際しその建造物が民間に払い下げられました。初代茂作はこれ基に「茶部屋」を築きました。先年同じ瓦で門を葺きました。なんのこともありませんが、瓦には太田家桔梗の家紋が見えます。太田家(江戸城構築、太田道灌)が当時掛川城主でした。
現在、掛川城御殿は静岡県文化財に指定されています。御殿には太田家が所有した志戸呂焼茶壷が展示されています。

志戸呂焼茶壺

「志戸呂焼」(”しとろやき”或いは”しどろやき”と言う)は、小堀遠州七窯の一つに数えられます。
古くは鎌倉時代の窯に山茶碗が見られるが、桃山以後江戸、明治初期にかけて焼かれたものが「志戸呂焼」と呼ばれています。

桃山時代に美濃からの陶工が上志戸呂窯を起こしたといわれ、金谷横岡字釜谷では江戸時代に瀬戸風”黒・褐色”の陶器が焼成された。皿、水差し、徳利、丸碗、壺等の雑器があります。 江戸時代に志戸呂で焼かれた多数の食器及び雑器が江戸に送られ日常の使用に供されました。その為、今日下町の地下から工事により志戸呂焼破片が散見されます。

徳川家康は晩年駿府(静岡)に城を構えました。大井川、安倍川溯った地点に井川があります。此の地は夏涼しく、茶の保存には適しておりました。此処に茶倉を築き、初夏5月に摘んだ茶を熟成、旨みが加わる秋まで保管をしました。その保存容器として、多数の葉茶壷が焼成されました。茶壷には「祖母懐(そぼかい」」の印のあるものが見られますが、この印のあるものは優品と考えられます。明治時代初期になり、志戸呂には焼成用土がなくなり歴史を閉じました。現在、残存するものは少なくなりました。

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